しのの気まぐれ日記

(たぶん携帯から)つれづれなるままに書込みします。
ツッコミOK!!(カマン)
題or画像をクリックで元の大きさに。

オールバック圭介

2015年02月01日 01時23分58秒 | 資料話?付
一瞬圭介でないのか疑ったオールバック圭介の図ですが、中央上の文章を読むと圭介なので、髭がワシャワシャでなくても圭介です。
↓中央上の文章


まあ朝鮮の改革は圭介の目的だったので、題名だけでもそんなのかがあって良かったなぁと。
・・・韓国の人達にしたらアレですけど。
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びびった

2015年01月31日 01時09分41秒 | 資料話?付
以前貨幣資料館に行ったとき、とっさに何か分からなかった風景(お札の裏)に『八紘一宇の塔』があったんです。
で、ちょっとどこにあったのかとか調べてみようかなとか思ったら、今でも宮崎にあったよ!!
まさか残ってるなんて思わなかったから、ちょっとビビった。

http://h.park-miyazaki.jp/

宮崎の平和台公園って所ですが、八紘一宇の文字が削られているわけでもなく、そのままの形で残っているようです。
まあ、アノ字は秩父宮さんの筆だから削られなかったのかもしれませんが。
あ、正式名称は『八紘之基柱(あめつちのもとはしら)』と言うそうです。

…今は『平和の塔』って名前らしいですが、どうなのソレ。
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圭介ですよね?

2014年11月02日 21時23分53秒 | 資料話?付
歴史人の日清戦争の真実ってのが売っていたので買ってみたら、添付の写真の様な部分があったんですが、私の目がおかしくなってる訳じゃ無いですよね!
どう見てもココには釜さんの
写真を載せるべき場所なんですが、黒田の隣には圭介を無意識に載せちゃう人が居るんですかね。
お友達になれますかね?

あ、今回の歴史人は圭介が載った錦絵(添付のは右側の馬に乗ってるのが圭介みたいです)や、写真も載ってますよ。


そしてプレゼントには、春帆楼だいだいポン酢3本セットとかありました。
でも、一番気になったプレゼントはロマノフ朝トランプです。
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日本パノラマ館

2014年09月01日 16時26分23秒 | 資料話?付
浅草十二階こと凌雲閣の近くに日本パノラマ館というのがあったのです。
壁の高さが10mほどある建物内部高さいっぱいにに、ぐるっと360°絵画を飾ってあったそうです。
開業当初から五年間ほどは南北戦争の光景から変わってなくて、最後の方は閑古鳥さん出番です!!
って感じだったらしいのですが、日清戦争後直ぐに!!
・・・とは行かなかったらしいのですが(三十余名の助手と、四ヶ月の日子と、一万余円の費用を要し『By新撰東京名所図会』)、日清戦争図に変更されました。
画家さんは以前の記事でも話題に上がった小山正太郎さんです。
・・・工部美術学校繋がりで、圭介が画面にいたりしてくれないかな。
まあ、彼も戦地視察画家の一人なので、見た事しか描かなさそうですが。

あー、でも本当にこの人気になるんですよね。
ひなちゃんと共に工部美術学校在学中の明治十一年の夏休みに目黒の山寺に避暑に来てたら八月六日夜に多分ひなちゃんが訪ねて来たりしてるんですよ。
小山さんの日記が詩的過ぎて読み取り難い・・・。
『此夜松望二氏我寺ニ宿ス 少女アリ門ヲ扣キ吾ニ見ン事ヲ求ム 老尼曰ク年紀二八左右吾以テ人違ヒト為シ其名ヲ問ハシムレハ 則チ工作局長大鳥君ノ女一侍婢ヲ従ヘ月ニ乗シテ来リ訪フナリ 楼上客アルヲ見入ラズシテ帰ル 隅々浮雲月ヲ篭メ咫尺暗黒 余其厚意ヲ謝シ為メニ送テ行人坂上ニ至ツテ別レ帰ル』(By避暑学静日記)
多分、目黒だから来て、人がいたので部屋に上がらず帰った、まあ送りましたよって事なんだよね。
でも、この頃って女性が夜に訪ねるのってアリなの?
とか、気になってしょうがないのです。
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入れ物がキモい

2014年05月25日 12時27分57秒 | 資料話?付
明治25年9月に団団珍聞に載った『隠蜜ビール』by小林清親です。
因みに『蜜』の字は間違ってません。
第二次伊藤内閣の隠密方針をもじって『隠蜜 芳辰ビール』にしてあるんです。

・・・まあ、それは置いておいて、ビールボトルキモくないですか?
特に飲まされてる最中のボトルが(笑)
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旗の支度

2014年05月24日 15時17分36秒 | 資料話?付
明治26年8月に団団珍聞に載った『旗の支度』の圭介です。
ズボンの模様が鳥なので圭介って分かりますが、そうでなかったら陸奥だと思っちゃう顔です。
ちなみに左上は松の上着を着た松方正義さんで左下は山の字が書かれたズボンを穿いたガタ。
で、この写真には写っていませんが、ガタの隣が家紋っぽく品の字が書かれた紋付を着てるヤジで、松方さんの隣がどう見てもバカにしか見えない上着を着た樺山さんです。
絵的には樺山さんが1番可哀相です。
↓こんなのです。

上着とズボンの違いはなんなんだろう?
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パークスさん

2014年05月18日 18時34分25秒 | 資料話?付
幕末明治に萌え(燃え)てる人なら、いわそうじゃなくても、たいてい名前を目にする英国の日本駐在公使ハリー・パークスさん。
軽ーく経歴を見るだけでも有能すぎます。
マジで文武両道ですよ。
しかもこの人、高等教育受けてないんです、マジたたきあげ。
両親が亡くなって二人の姉を頼ってマカオに来たのが13歳で、そこから中国語の勉強をして、14歳で阿片戦争に従軍した時は全権閣下のボーイ、16歳で通訳になって領事のオールコックに五年間仕えるけど、その間オールコック夫人に文学とフランス語とドイツ語を叩き込まれたらしい。
20歳の時には上海で交渉とかも任されたりして、29歳頃には事実上の広東辺りの総督してて、中国からは三万ドルの賞金首。
32歳の時に講和交渉帰りにフランス・英国交渉団ごと中国軍に捕らえられ拷問にかけられたけど、生き残り組になんとか。
34歳でナイト授爵。
37歳で日本に。
後は良く知る感じですね。
でも調べると色々知らないエピソードとか出て来て楽しい。
品川らへんで襲い掛かられた時、日本人護衛が動けなかったのでパークスさんが捕らえちゃったりしてたり。
後藤象二郎との議論の時激怒して怒鳴ったら『怒ると分別が無くなりますな』とか言われちゃたのを後年同席してたミッドフォードさんに『私達のチーフは、偉い所は多かったが、この教訓だけは終生その身につかなかった』とか書き残されてたりするのとか楽しい。
あと緒方先生を思い出すのは、種痘を採用するよう説得したとか。
石橋絢彦を思い出すのは、灯台組織を作らせたとかですね。

まあ、それは置いておいて、パークスさんの和紙コレクションが凄いんです。
本当にありとあらゆる和紙がある感じです。
まあ、パークスさん個人と言うわけではなく英国首相グラッドストーンが和紙の調査を命じたらしいんですけどね。
その指示を見ると、英国怖いって思います。
『和紙が原料として応用可能であること、日本で行われている和紙の様々な利用法について十分な知識を持つことが、英国の製造業者にとって重要なことであると思われ、報告書には、報告書で言及している全ての和紙、その製品その他を購入し、そのサンプルを収録したコレクションを付すること』って。
怖くねぇ、怖いよね。
圭介に興味を持つと、日本が向こうから技術をコピろうとしている面ばかりが目につきますが、イギリスのそれは規模が違うよ。
現物はサウスケンジントン博物館(多分現在のビクトリア・アルバート美術館)に納められているらしいです。

単に色んな本や浮世絵や千代紙とかもあるけど、紙合羽や紙衣、陣笠、根掛、雨傘、日傘、油団、肌着、望遠鏡、鼈甲紙、太政官札までは良い。
金札紙の見本が原料と製法付きで残ってるんですが!!
残ってるエピソードからすると、なんとなくパークスさんが由利公正から聞き出したっぽい?

そんな感じのパークス和紙コレクション。
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嘉納治五郎

2014年04月29日 22時02分43秒 | 資料話?付
講道館柔道の創始者の嘉納治五郎さんを教育者として見たことがなかったんですが、この方明治15年1月から明冶22年まで学習院教頭をやってらっしゃるんですよね。
しかも、上手くいってたらしいんですよね。
でも三浦の梧楼ちゃんとは合わなかったらしいのです…。
うん、梧楼ちゃん圭介の学習院経営も気に入らなかったっぽいから仕方ないよね。

そして講道館と言えば、次郎ちゃんと六三ちゃん、そして広瀬武夫が一緒に通っててお友達。

次郎ちゃん達と広瀬さんのお手紙とか残ってるけど、圭介と嘉納さんのお手紙とか残ってないんですかね?
嘉納さんの日記とかに圭介のことが書いてあったりとかしないですかね?

あ~、色々知りたい。
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帽子脱いでる圭介

2013年07月07日 07時30分27秒 | 資料話?付
日記を書くって行為自体を忘れていたので、なんと二週間ぶりの日記です。
いっそのこと週記とかに改名すれば二週間ぶりでも一回飛ばしただけって事になりますかね?

日清の時の圭介の錦絵で大礼帽を脱いでる絵ってあまり見かけないなぁと思って。
あと圭介のズボンはどの錦絵を見ても白なので白で決定で良いかなとか。
白の手袋をしてるけど何枚くらい持ってるのかとか、疑問がイッパイです。
靴下は繕って履いていたみたいですが、流石に手袋はそんな訳にはいかないだろうし、地味に金が掛かりそうかなとか思ったんですよね。
だったら馬車に乗ってる時は外したり、いっそのこと人に会う時以外は外してたりしないかなぁとか、まあ倹素って事で(笑)
そういえば馬車といえば、大院君と一緒に京城に入る絵は圭介が馬車に乗ってると大院君が馬に乗ってて、大院君が馬車に乗ってると圭介が馬に乗ってるんですが、絵面的な問題なんですかね?
一人は馬のが構図的に引き締まるとか・・・。

誰か、詳しい人居ませんかね。
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碧血碑の写真

2013年06月22日 06時10分16秒 | 資料話?付
函館ものでよく見かける田本研造さんの撮った碧血碑の写真ですが、現地に行った時、碑の前のスペースがそんなに無かったので、少し違和感があったんですよね。
普通に撮るともっと見上げる角度になるはずだから。




と思っていたら、同じ時に裏から撮った写真があって、前方に櫓を組んでたみたいでした。
この写真には田本さんも写っているので、撮ったのは別の人なんですよね、誰なんだろ?
ついでに田本さんは右足が不自由だったらしいのですが、この櫓に上るの怖くなかっただろうか?
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