獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (2)

2021-09-11 01:36:52 | 対話ブログ

■子どもの頃           投稿日: 2011年12月6日
さて、私は毎日のように創価学会に対する見方が変化しています。それはおそらく次第に客観的な見方になっているからだろうと思います。昔は創価学会以外に正しい宗教は考えられなかった。生まれたときからそういう環境の中で育てられましたから、これはもうどうしようもないことだったように思います。これは言い訳ではなくて、善し悪しは別にしてそうでした。生まれたときからすでに両親は創価学会員として日蓮正宗の信心をしていましたし、私は生まれて一週間後に御授戒を受けに地元のお寺に連れて行かれました。それからずっと朝晩に勤行・唱題をする両親を見ながら育ったのです。

小学校に入る前から私が仏壇に向かってお題目をあげると、両親はほんとうに喜んで私を褒めてくれました。もう50年近く前のことです。私は両親に喜んでもらいたくて小学校に入る前から方便品を暗誦できるまでになっていました。小学生になってからは、いわゆる少年部員として座談会では協議会も含めて参加して、いろいろな発表やアトラクションなども積極的にやっていたのです。

両親は学会草創期からの幹部でした。昼は仕事、夜は連日会合や折伏に出かけ、親のいない家に残される私の胸に、例えようのない孤独感がありました。そのときの強烈な孤独感から「今ここにいる自分というのは何なんだろう」「今ここにいる自分が意識しているこの世界はいったいどこにあって、自分が死んだらどうなるんだろう」という存在論的な疑問にたびたび襲われ、それは頭がおかしくなるほどの恐怖でした。そんなときも夜通し仏壇の前でお題目を上げたりしましたが、小学生にその答えが出るはずもなく、両親不在の孤独感と実存的課題がないまぜの恐怖心となり、幼い私の心に傷のようなものをつくっていったように思います。
しかし反面よく多くの学会員が私の家に集まりました。昭和30年代のことですから、地方都市ではまだまだ学会員の数は少なく、私の家は座談会の会場としてだけではなく、私の住んでいる市とその近辺の町に至るまでの活動拠点となっていました。それほど大きな家ではないのに、100人ほどの人が家の中にぎっしり詰め込まれての御書講義なども開催されていました。部屋の壁には各地区ごとの折伏の数を記した手書きのグラフや、各地区の目標やスローガンなどが張り巡らされていて、いつもどこかの選挙事務所のようでした。そんな中、私もいつしか従順な少年部員、中等部員として、勤行唱題を欠かさないエリート学会員の道を歩み始めるのです。父はいつのまにか順風満帆だった商売をやめ、公明党の議員になっていました。
このような幼少期の人生の思い出が、創価学会員としての自分でしかなかったことが、今になってほんとうに悔やまれます。残念でなりません。しかし両親を恨んではいませんし、当時の学会員を責める気はありません。みんな洗脳されていたわけですから、みんな被害者だと今でも思います。そして今の学会員の多くも同じようにマインドコントロールされている被害者だと思います。いいことがあったら功徳、悪いことがあったら信心が足りない。なにか問題が出てきたら「いっしょにお題目をあげて乗り越えよう」。そんな詭弁が今でもまかり通っているんです。お題目を長時間あげてトランス状態になって本当の問題を見失う。長時間、力一杯声をはりあげるおかげで気持ちは何かしらスッキリしたような気にはなるが、結局は現実の問題から遠ざかる時間をつくることで、ますます社会規範から逸脱していく。そのことにまったく気づかずに、わかりやすくて浅薄な仏教教義に満足する会員同士だけの奇妙なコミュニティに安住してしまう。今思えば昔から学会員同士の会話はほんとうに画一的でロボットのようでした。

私は子供のころから画家になりたかったので、大学も美大に入りました。芸術を志す人間にとって哲学は欠かせません。当時流行っていた構造主義やポストモダンなどの西洋哲学をはじめとしたいろんな本を読むようになりました。哲学を学べば当然宗教に関しても興味を抱き、一般的な宗教観を身につけることが当然なのですが、しかし宗教に関しては学会の洗脳の賜で、学会以外の宗教に関する本は読みもしないでことごとく「まちがい」というレッテルを貼り続けました。

今思えば、そのころから少しずつ日蓮正宗の教義にちょっとした疑問を持っていたような気もします。というより、どれだけ学会の教学を学んでも、なぜいつも同じような通り一遍なのか。紋切り型の結論なのかという疑問。学生部としての活動も毎晩のように集まっては折伏をしていたのですが、その一方でせまい学生アパートの部屋で真剣な顔をして「人間革命の歌」を大合唱する姿にも、何かしら時代錯誤的な感覚を拭えないでいました。大学で時代を先取りする現代美術を学ぶ一方、この軍国主義的な様相が、はたして時代に呼応しているのだろうかという疑問を、無理矢理抹殺していたような気がします。しかし今思えばわずかながらのそうした疑問は常に心の片隅にあって、それからこうして30年後に創価学会のマインドコントロールから抜け出すことができたのは、このころからの小さな疑問を抱き続けてこれたからだったのかもしれません。
とりあえず、昔のことで思いついたままを書いてみました。まだしばらくはこうして昔のことの確認のための書き込みをしていくことになるかと思います。
同時に、創価学会の現状についても書けることから書いていければと思います。そして私自身の脱創価学会への行動についても、このブログでご報告させていただくつもりです。
みなさまお楽しみに…っていうのは変なのかな(笑)


解説
子ども時代のころを振り返る、シニフィエさんの貴重な文章です。

私は子供のころから画家になりたかったので、大学も美大に入りました。芸術を志す人間にとって哲学は欠かせません。当時流行っていた構造主義やポストモダンなどの西洋哲学をはじめとしたいろんな本を読むようになりました。

なるほど、それで「シニフィエ」という哲学でおなじみの言葉がHNになったのですね。

獅子風蓮