前回紹介した高倉氏のブログでも妙法の万葉集(友岡雅弥の証言編)は紹介されているのですが、実名を伏せてぼかした部分があります。
そこで、よりオリジナルに近い文献として、師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。
投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月 4日(木)07時30分47秒 通報 編集済
京都乃鬼新聞
2019-4-3
=弟子の万葉を紡ぐ=
友岡雅弥氏が、期せずして創価学会第2代会長戸田先生の祥月命日である4月2日にお亡くなりになられました。
3月下旬よりボランティア活動の為に岩手県宮古市に着かれましたが、肺炎の為に入院されて、田老のワカメ漁の手伝いにはいかれない日々が続きました。
一方で肺炎自体は治まり、1日(月曜日)の退院を希望されていました。
しかし、その日に再度体調を崩されましたが、2日(火曜日)の再検査の結果が良好ならば3日(水曜日)に退院、帰阪予定でした。
2日は意識もあり、亡くなられる数時間前までネットを見ていた様で「良いね」ボタンを押されてたとのこと。
しかしその後、急に心肺停止状態となり、残念ながら15:00にそのままお亡くなりになられました。
享年64才でした。
謹んでお悔やみ申し上げます。
つきましては、生前の友岡氏を偲び、昨年4月、友岡氏に対して弊社青鬼記者がインタビューしていましたので、その内容に一部解説を入れながら京都乃鬼新聞特別企画
「妙法の万葉集(友岡雅弥氏編)」として発表させて頂くことになりました。
作中におきましては、実名を出されては不都合な方々もいらっしゃるとは思いますが、オリジナリティを尊重して、故・友岡雅弥氏の表現をそのまま引用させて頂きます。
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)
第1回(※印は弊社記入)
本隊(※池田名誉会長の一団)随行記者チーム(※通称マーク記者)は兵頭信二さんがトップで常に随行したが、その他の記者はローテーションで替わって随行していた。
私(※友岡雅弥)もその中の一人だった。
いわゆる「先生付きの記者」であり、池田先生の指導を記事にする仕事が主だったが、先生の目の前でメモを取ることができなかった。
出来なかったのでは無く、池田先生が思い切った指導、所謂、本音の指導や秋谷会長など幹部を叱っている様な場面でメモする事は、憚られるという雰囲気だった。
例えばこんな指導が目の前でなされたことがあった。
ある時、先生が西口総関西長(※西口良三1938~2015.3.15 没)に向かって、
「兵庫は絶対に参議院出すな!出したらいけないよ!
東京(※創価学会の執行部)がいくら言ってきても絶対に出したらいけないよ!
なぜなら、兵庫は世帯数が少ないから、もし出せば、自民党と本部(※創価学会)との付き合い方を変えなければならなくなる。
そうなれば、関西が本部(※創価学会執行部)の下になるよ。
そして学会が自民党の下になるよ。」と言われた事があった。
これを聞いた西口さんは悩んだ。実は尼崎市等の婦人部幹部が兵庫県から参議院議員を「出したい、出したい」と言っていたからだ。
でも、先生がああ仰っているんだからと、西口さんが生きているときは、兵庫県から参議院候補を出さなかった。
でも今回(※2016年)は出してしまった。
案の定、それ以降の関西は、自民党と創価学会本部(※執行部)の下の立場になった。池田先生の言った通りになった。
(※過去に兵庫県で改選議席定数が3の時は、渡部通子氏や片上公人氏ら公明党の参議院議員はいたが、1995年に定数減になり改選議席が2となっていた間は、公明党からは候補を出していない。また2016年より改選議席数が3になったので、池田先生のこの発言は1995年前後から西口氏が亡くなる2015年までの間の指導である事が分かる。)
(※当時の背景として、関西創価学会は昭和33年の大阪の戦い以降、「池田先生の手作りの常勝関西」だったので、関西独自で活動決定が出来た時代であった。)
つづく
提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。
【解説】
先生がああ仰っているんだからと、西口さんが生きているときは、兵庫県から参議院候補を出さなかった。
でも今回(※2016年)は出してしまった。
案の定、それ以降の関西は、自民党と創価学会本部(※執行部)の下の立場になった。池田先生の言った通りになった。
なぜ兵庫県から参議院候補を出すと関西が自民党と創価学会本部の下になるのか、選挙に疎い私にはよく分かりませんが、創価学会においては、友岡さんのいる関西と東京では、池田氏との位置関係に微妙に差があったことがこれを読むと分かります。
関西創価学会は昭和33年の大阪の戦い以降、「池田先生の手作りの常勝関西」だったので、池田氏が健在の間は、関西独自で活動決定が出来た時代だったのですね。
獅子風蓮