獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その27)

2024-04-30 01:14:35 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
■5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

1956年(昭和31)8月、鳩山首相は軽井沢の別荘に政府・与党首脳会議を招集し、席上、日ソ国交回復を機に退陣する旨を表明した。この会合の結果、後継総裁候補は岸幹事長、石井総務会長、石橋通産相の三者に絞られた。11月、日ソ国交回復を実現して帰国した鳩山は、予定通り退陣を表明したが、後継者については明言を避けた。そのため、前年11月の保守合同によって成立した自由民主党(自民党)としては、実質上初の総裁選挙戦が岸、石井、石橋3候補の間で繰り広げられることになった。
ところでわずか数名の側近しか持たない石橋が、なぜ大派閥を擁する岸や石井の対抗馬となり得たのであろうか。石橋の懐刀で選挙参謀である石田博英は、「鳩山政権の後は緒方(竹虎)政権樹立に協力して石橋を主要閣僚とし、政治的影響力と資金力を維持しつつ次のチャンスを待つ」と当初考えていたところ、56年(同31)1月緒方が急死したため、「時節到来と思った」という。ただし鳩山内閣の執権ともいうべき三木武吉と河野一郎は岸との関係を強めており、石橋を推す可能性は皆無に等しかった。そこで石田はまず旧改進党系の領袖三木武夫に接近し、三木や松村謙三をはじめとする旧改進党勢力を味方とすることに成功した。次いで石田は吉田派の池田勇人と石橋との関係修復に乗り出し、松永安左ェ門を仲介者として3月以降会合を重ね、11月には両者の関係回復と総裁選での協力がほぼ出来上った。こうして石田は三木および池田との信頼関係を強めていき、もし石橋政権が誕生する場合には、これら戦後派の実力者と組んで政権を維持していく構想を抱くようになった。この間石橋派自体も拡大していった。夏頃には鳩山派内で河野と反りのあわなかった大久保留次郎、 加藤常太郎、世耕弘一、山本勝市、北玲吉、花村四郎ら十数名が石橋陣営に加わった。ここに石橋派は20名程度の規模となり、派閥らしい体裁を整えるに至った。しかも大野伴睦も石橋支持に固まりつつあった。以上の諸事情により、石田は石橋擁立に終始強気の姿勢で臨むことができたのである(前掲「石橋政権と石橋派」40~3頁参照)。
さて12月14日に行なわれた選挙では、岸223票、石橋151票、石井137票でいずれも過半数に達せず、第二回投票が行なわれた。その結果、石橋が258票を獲得し、岸にわずか7票の僅差で当選した。強固な派閥をもたない石橋側が石井派と二、三位連合を組み、本命視されていた岸に逆転勝利を収めたのである。まさに石田らの戦略・戦術が奇跡をもたらしたのである。ここに湛山は自民党第二代総裁に就任した。戦後初の私学出身、しかも初のジャーナリスト出身の宰相が登場したことに国民世論は政界の変化を感じ取り、温かく迎えた。ただし国民は、この新総理が戦前の言論人時代に、時の政府や軍部に抗しながら小日本主義を提唱するなど、前戦後を通じてわが国出色の哲人宰相であることにどれほど気付いていただろう。
もちろん中国は石橋新内閣に注目した。同月25日の『人民日報』は、「中日関係の正常化は両国人民共通の願いである。石橋内閣がこの重要な問題で、あらゆる困難を排除し日本民族の利益と願望にかなう政策を実行できるか否か。石橋内閣にとって、これは重大な試練であろう」とその期待を表明した。続いて27日の同紙社説は、北京と上海で開かれた日本商品展覧会が290余万人の中国人参観者を集めるなど盛況であった意義と合わせて、「石橋湛山氏は中日貿易に比較的深い理解の持ち主であり、強力に中日貿易を推進していく旨表明している。石橋首相のこうした積極的態度を、われわれは歓迎する」と論じた。戦後の日中関係史を通じて、これほど中国から歓迎されて登場した保守党内閣はほかに存在しなかった(鮫島敬治著『8億の友人たち・日中国交回復への道』30~2頁)。
しかし逆にアメリカ側の反応は冷淡であった。21日の『ニューヨーク・タイムズ』 (New York Times) は、「東京の新首班には幅広い支持がある」との見出しを掲げながらも、湛山がかつて占領軍当局の経済政策を声高に反対した人物であり、それゆえ前任者の鳩山以上に米国に対して非協力的であろうし、また通産相時代に「共産中国」(Red China) との貿易拡大に好意的であったので、米国が極東で利益を損なうとしても、彼はこの政策を引き続き促進するであろう、と不安材料を挙げた。また同紙は別の記事で、湛山の生立ちから家族までを紹介し、湛山を「ナショナリスト」と断定し、三人の総裁候補者中、湛山がもっとも反米的で、米国にとって好ましくない人物であり、湛山の首相就任は「アメリカ人にとって有利ではない」と懸念を表明した。 わが国では稀な生粋のリベラリストをナショナリストとアメリカが誤認したことは、湛山にとっても日米双方にとっても不幸であり、歴史の皮肉でもあった。
なおごく最近、石橋内閣誕生時におけるアメリカ政府の狼狽ぶりを伝える外交文書がイギリス公文書館から解禁された。それは在ワシントン英国大使館のド・ラメア公使が、米国務省のハワード・パーソンズ北東アジア局長との会見直後にイギリス外務省極東部へ送った同年12月31日付の秘密報告書である。その中でパーソンズ局長は、湛山について、「きわめて有能だがとても頑固で、日本占領時代に公職追放された個人的な怨念を決して忘れてない」と語っている。国務省がもっとも危惧したのは、湛山が公的に明らかにしていた対中国貿易拡大など日中関係改善の路線であった。ラメア公使は、この国務省の状況を「米側は石橋の総理就任に疑いなく狼狽している」と総括した上で、「彼ら(米側)は岸信介に投資し続けており (They had put their money on Kishi)、岸が石橋内閣の外相として石橋にブレーキをかけることになお望みを託している。彼らは結局、岸が石橋の後を継ぐよう望んでおり、パーソンズ自身『われわれにツキがあれば石橋は長く続かないかも知れない』と私に語った」と報告を締め括っている。結局当時の国務省の希望的観測に合致するように、石橋首相は病気のためわずか2ヵ月で退陣し、岸が代わって首相、自民党総裁となり親米路線を敷いていくことになる(『読売新聞』1995年2月3日朝刊)。恐らく岸をワシントンにいわば売り込んだのは、日米関係の裏面に通じたハリー・カーンであったろう。
反湛山の空気はアメリカばかりでなく、自民党内にも存在した。岸、石井、大野各派の処遇をめぐり水面下で激烈な争いが起こるなど、総裁選挙の後遺症は長く尾を引き、閣僚および党役員人事が停滞した。それでも岸の外相入閣が決定してから組閣が進展し、23日、湛山が首相のまま複数の閣僚のポストを兼任する異例の認証式を済ませて、ようやく石橋内閣は船出した。72歳の高齢に加え、新内閣成立までの難航ぶりがその前途を暗くした。
以上の経緯もあってか、総理総裁としての湛山の発言は慎重であった。石橋新内閣の基本方針が「自主外交」の推進と「積極経済政策」の実施にあり、自主外交に関しては「アメリカと提携するが向米一辺倒にはならない」、また「今後も中国との経済的関係を深めていく」との二大方針を表明(24日の初の記者会見)しながらも、湛山は、安保条約の改定は「日本が自衛態勢を確立するという義務を果たせるようになってから取り上げるべき」であるし、「中国との国交回復はきわめて難しく、当面の課題にはならないだろう」と述べて、日米・日中の関係改善の限度にも論及した(14日の総裁就任記者会見、以上『全集⑭』)。また日本の国連加盟が実現した点について、「国連に加盟して国際的に口をきくためには、義務を負わなければならない。国連の保護だけ要求して、協力はイヤだというのでは、日本は国際間に一人前に立ってゆくことはできません」、「このままゆけば、第三次大戦が起こらないという保証はない……。だから日本は微力ではあろうが戦争を防止するという努力をすべきだと思います。両陣営の冷戦をどうやって緩和するか。ソ連にはむろん反省してもらわねばならないが、同時にアメリカにも反省してもらう点がある」と持論を繰り返した(「石橋湛山大いに語る」『全集⑭』)。
以上のように表面は慎重な姿勢を示したが、その実、湛山は日中国交回復までを視野に収めた上での両国の経済貿易拡大を目指す方針を固めていた。すなわち、25日午後に開かれた閣議で、積極経済政策と並んで対中国政策が中心議題となり、その結果、①中国との国交回復は国連および自由主義国家との調整がついたのちに行なう、②中国との貿易は従来より積極的に拡大していく、③そのための具体策として、中国および自由主義諸国と話し合い、ココムの制限緩和を目指し、特認制度などの活用を図る、④中国貿易促進のため自民党内に新たな機構を設け、また民間にある中国貿易関係団体を統合し日本側窓口の一本化に努め、近い将来民間通商代表部を交換することを目指す、との方針を決定した。岸外相もこのような石橋首相の立場に同意していた。そして湛山は石田博英内閣官房長官に、「対中国関係の窓口というなら高碕達之助君などが適任と思うから、君が話してみなさい」と指示したという。また湛山は年末に石田に対し、吉田茂を訪て日中国交回復政策への了解を得てくるよう命じた。石田に面会した吉田は、「それは結構なことだと思う。ただ……中ソはいま一枚岩のように言われているが、あの二つはいつか喧嘩するよ」と語ったという(前掲『石橋政権七十一日」158~9頁)。
さて新内閣の基本目標は、翌57年(同32)1月8日に湛山が自民党の演説会で発表した「わが『五つの誓い』」(『全集⑭』)の中に示された。これは明治天皇の「五ヵ条の御誓文」にならったもので、(1)国会運営の正常化、(2)政界官界の綱紀粛正、 (3)雇用と生産の増大、(4)福祉国家の建設、(5)世界平和の確立を掲げていた。(3)は先に挙げた積極経済政策の具体的な一大目標であり、湛山は「経済を拡大させながらインフレを起さずにすませる自信がある。経済の拡大―完全雇用の実現は私の理想である」(前年12月14日の総裁就任記者会見)と明言して憚らなかった。この「完全雇用の実現」と併せて、「一千億減税・一千億施策」を内政上のスローガンとしたことは周知のとおりである。また、(5)は湛山の戦前以来の外交思想を体現した大胆な提言であった。湛山は日本の国連加盟の実現という新しい局面を踏まえ、「私どもはこの、幸いに東西に開けた窓、国連に加入したということを力にしまして、これを舞台にしましてどうか世界に平和をもたらしたい。このためには全力を注ぎたい」と述べているが、一般政治家の単なる美辞麗句とは違い、言論人時代から培った思想家湛山の重みが感じられる。ここに標榜された湛山哲学に基づく独自外交こそが、もう一つの石橋内閣の可能性として指摘されなければならない。
この時期に湛山が願望したことは、世界平和のための共存共栄の道を米ソ両超大国はもとより全世界の諸国が理解し、日本が率先してその土台作りに貢献することであった。湛山が1月25日に外国人記者クラブで講演を予定していた「プレスクラブ演説草案」(『全集⑭』)には、そのような彼の意向を汲み取ることができる。この中で湛山は、冷戦が世界の不安定要因となっており、米ソ両国は相互に疑心暗鬼を捨てるべきであると論じたのち、次のように主張した。「人間の幸福」が最後の目的である点では資本主義も共産主義も同様である。イデオロギーは人間に奉仕するものであるにもかかわらず、今は逆に我々の生活をイデオロギーに奉仕させる傾向が強く、これが世界の緊張や対立の原因となっている。いかなる主義・主張もそれが人類の幸福を増進するものならば、忌み嫌う理由はない。たとえ共産主義を国是とする国であろうとも共存共栄の道を歩んでいくべきだ。
また日米関係について湛山は、「アメリカとは緊密に協調関係を保持する。しかし向米一辺倒といった自主性なき態度は取らない。率直に米国にわが国の要求をぶつける」と述べ、リベラルな政治家としての性格を如実に示している。ソ連のフルシチョフ首相が画期的な「米ソ平和共存路線」を提起したのは前年2月のことであり、湛山が日本の政治家として冷戦脱却の必要性を説いた画期的意義を軽視してはならないであろう。
ところで石橋政権を支えたのは、三木武夫幹事長と池田勇人蔵相と石田官房長官の三者であった。これら首脳が頭に描いていたことは、早期に議会を解散し、総選挙によって政界を再編して政治的安定を確保することであった(前掲『私の政界昭和史』95頁)。それ以外に混迷した政局から離脱する方策はなかった。そのため湛山は、先のような新政策・スローガンを発表して全国遊説に乗り出し、東奔西走した。しかし老齢を押しての無理な遊説は湛山を疲労困憊させ、1月25日、風邪から脳血栓を引き起こして倒れる緊急事態となった。医師団の診断では「2ヵ月の休養を要する」との最悪な結果であった。湛山はかつて言論人時代に、凶弾に倒れて登院が不可能に陥った浜口雄幸首相に対して鋭く辞任を迫ったことがあったが、今度は自らが浜口の立場に置かれることになった。湛山は国会答弁が不可能となった時点で、潔く首相辞任を決意した。こうして辞任の書簡が三木幹事長によって認められた。「私は新内閣の首相としてもっとも重要な予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」との文面であった。こうして2月23日、石橋内閣は総辞職するに至った。わずか2ヵ月で石橋内閣の命脈は尽きたのである。
したがって、石橋内閣成立時に国内で澎湃として起こった日中国交正常化への気運も潮が引くように去っていった。もしも石橋内閣が2年存続できたならば、両国の国交回復は早かったであろうとの見解がいぜん根強い。アメリカの厳しい監視と圧力の下で自主性を全うすることがはたして可能であったろうか。極論すれば、総選挙で勝利を収め、自民党ならびに自陣の権力基盤を固めた上で、湛山のリーダーシップが発揮される状況が生まれた場合、そのときこそ、日中関係の進展が大いに期待できたと想定できる。とすれば、その後の岸内閣時代に直面した日中関係の断絶といった最悪の事態も回避されたであろうし、あるいは安保騒動も別の形態を取ったであろうし、現実とは大きく異なった戦後が形成されたであろう。石橋内閣の短命化が戦後史の重要な屈折点といわれる所以である。

 

 


解説
日中国交正常化をも視野に入れて国内外のかじ取りに乗り出した矢先の病に倒れ、湛山の内閣は短期に終わることになりました。

もし、湛山内閣が数年間続いたなら、日中国交正常化はもっと早く実現し、アメリカに従属しない、自主的な外交が行える国になっていたかもしれません。

残念なことです。

 


獅子風蓮