獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その19)

2024-04-13 01:13:38 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに

 

第5章 日本再建の方途――1940年代後半
■1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放


1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり

終戦を疎開先の横手で迎えた湛山は、8月18日の日記に次のように記した。「今朝床中にて早く醒む、考へて見るに予は或意味に於て日本の真の発展の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦つてゐたのであった、今回の敗戦が何等予に悲みをもたらさゞる所以である」(前掲『湛山日記』昭和20―22年』47頁)。湛山としては珍しく感情を吐露している。彼にとって、日本の敗戦はすでに予期していたことであり、少しも落胆すべきことではなかった。むしろ、日本がドイツのような壊滅的打撃を被る以前に無条件降伏したことは、戦後の再建のためには喜ぶべきことであった。まもなく湛山は、戦争末期に大蔵省の戦時経済特別調査委員会で検討を重ねてきた日本再建案を『新報』誌上に次々と発表していく。
まず1945年(昭和20)8月25日号社論「更生日本の門出――前途は実に洋々たり」(『全集⑬』)では、「昭和20年8月14日は実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である。……今は勿論茫然自失し、手を拱(こまね)いておるべき折でなく、又徒(いたずら)に悲憤慷慨時を費す場合でない。……かの米英支三国提示の対日条件(ポツダム宣言の意味)の如きは何等新日本の建設を妨げるものではない」と明言し、今後の日本は「世界平和の戦士」として全力を尽くすべきであり、ここに「更生日本の使命」がある。また「科学精神」に徹するべきであり、そうすればいかなる悪条件の下でも、「更生日本の前途洋々たるものあること必然だ」と訴えた。日本国民全体が敗戦のショックに打ち拉(ひし)がれていた際に、実に剛毅で楽観的見解を打ち上げたわけであるが、それは単なる虚勢とはいえない。「小日本主義」という長年温めてきた構想をようやく実現する好機が到来したと心底信じたからである。

 

以降、湛山が提言した新日本の針路とは、第一に、経済復興であった。国家再建の大前提は経済復興にあり、それゆえ経済優先主義が採られるべきであった。その場合、(1)生産第一主義(積極財政)、(2)賠償の削減、(3)財閥の利用を基本とするよう主張した。

(1)の生産第一主義は、当時多くの経済学者やジャーナリストの見解と根本的に異なるものであった。敗戦以来、大内兵衛東京大学教授らはインフレ必至論の見地から「緊縮財政」を唱えており、それが大勢を制していたが、湛山は「停戦後のわが国にはインフレの起る理由は断じてない。かえって警戒すべきはデフレである」と論断した。つまり、「終戦以来のわが国はフル・エンプロイメント(完全就業)の状態にあったといえない。それどころか、現にわれわれの見るごとく、多くの失業者を発生し、表面就業せる者も十分の生産活動をなすことができず、生産設備の、はなはだ多くの部分は遊休化している。これはフル・エンプロイメントではなく、逆にはなはだしきアンダー・エンプロイメント(不完全就業)である。かかる状態の下においての通貨膨張と物価騰貴とは、デフレ政策によって救治しうるがごとき普通の意味のインフレではないことは明らかである。……もしこの際デフレ政策をとれば、物価の水準は引き下げうべきも、おそらく生産はいっそう縮小し、国民所得は減じ、国民の生活難はむしろますます激しくさえなるであろう。人心の不安はもとより払い去ることはできない」(石橋湛山著『日本経済の針路』256~7ページ)。とすれば、この危局において日本の採るべき政策は、ケインズ理論に基づく「積極財政」、すなわちフル・エンプロイメントの実現に目標を置き、国民に仕事を与え、産業を復興させる「生産第一主義」に立脚する積極財政政策であり、決して収支の辻褄合わせに腐心する旧式の「健全財政」でも、インフレを極度に恐れた「緊縮財政」でもあってはならなかった(9月15日号社論「産業再建策の要領」、同月22日号~29日号社論「インフレ発生せず」『全集⑬』)。この基本方針は、 まもなく湛山が蔵相に就任することにより、実践される。

(2)の賠償問題に関しては、「わが国の力に耐える限度および方法においてなされることが必要である」と論じ、連合国側がかつて第一次大戦後のドイツに課した苛酷な賠償取り立ての二の舞を演じないよう主張した(9月22日号~29日号社論「賠償問題の解説」『全集⑬』)。その意味では、当初懲罰的色彩を帯びていたポーレー賠償計画が、のちに冷戦の影響を受けて、寛大な内容へと修正されたことは日本の再建上好ましい事態であった。

また(3)の財閥利用案とは、日本の経済復興のために三井・三菱など大財閥を最大限に利用すべきであるとの見解であった。

8月末に疎開先の横手から4ヵ月ぶりに東京に戻った湛山は、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の経済科学局(ESS)局長クレーマー (R.C. Kramer) 大佐に呼ばれた。9月末、出頭した湛山に対し、クレーマーは次のように言明した。
「私は戦前から英文月刊誌『オリエンタル・エコノミスト』の愛読者であり、戦時中も読んでいた。あなたは戦時中軍部に対抗して論陣を張った感心な人物である。是非GHQのために手伝ってもらいたい」(石橋湛山「今だから話そう②――議席のない大蔵大臣」24~5頁)と。同席した渡辺武(大蔵省終戦連絡部長)は、クレーマーが湛山を大変尊敬している旨を述べ、眼前で『新報』のためにあらゆる便宜を図るよう口述して指令したことを筆者に証言している。湛山は、ESSに協力すればGHQ側の考え方を知ることができるし、またGHQ側に対して多少なりとも自己の見解を投影できるかもしれないと考え、ESSのアドバイザーに就任し、定期的に意見書を提出することになったのである(前掲『湛山回想』306~10頁)。

そこで湛山は毎週一回程度レポートを提出することとなり(前掲『湛山日記――昭和20―22年』58~92頁)、財閥利用案(英文)もその中の一つであった(神沢惣一郎「石橋湛山と財閥」参照)。その骨子とは、日本の経済再建のために財閥を利用すべきである。なぜなら財閥を亡ぼせば日本経済界をいっそう混乱させるばかりで、しかもこれを安定させ収拾する中心勢力をほかに見出し得ないからである。大局的に見て、財閥が日本経済の発展に寄与し、またその困難期の安定勢力であることは否定できない、というものであった。これに対しクレーマーは、財閥がなくとも日本経済は過去において発達したし、より以上良くなったとの考え方を示し、自由主義者の湛山がなぜそのような主張をするのかと訝った(前掲『湛山回想310~1ページ)。すでにアメリカ側は「財閥が戦争協力に邁進した」と認識しており、財閥解体はGHQの既定方針であったため、湛山のプラグマティックな提案は一蹴され、11月、ついに三井、三菱、住友、安田の四大財閥の処理案が発表されたのである。

 

第二に、湛山が提言した新日本の針路とは日本の民主化の実現であった。大正デモクラシー期以来、もっとも急進的に民主主義・自由主義・平和主義思想を高唱してきた以上、これは当然の要求といえた。湛山は民主主義の本質について、(1)国民各自が皆等しく政治の責任を負うこと、(2)権利と義務を顧みること、(3)個を主張するとともに全体を尊重することと定義した(12月1日号社説「デモクラシーの真髄」『全集⑬』)。したがって、1946年(同21)3月、政府が発表した「憲法改正草案」を戦後日本の精神的基盤となるとみなし、上記の観点から明治憲法に代わる新憲法体制を積極的に支持した。
まず日本国民に衝撃を与えた第一条の「天皇象徴化」の規定について、湛山は、「従来の天皇制の致命的欠陥は陸海軍の統帥権を一般国務から分立せしめたこと」にあり、これは民主主義の勃興を不便とする軍閥藩閥、官僚等が(明治)憲法の趣旨を歪曲し、統帥権の条規を悪用したからであって、天皇自身は責任ある政治的実権を有せず、象徴的存在にすぎなかった。この意味で今回の改正は現行憲法の天皇制に変革を加えたものではなく、ただその精神を成文の上に一層明白にしたものであると論評した。他面、左翼陣営やソ連などが唱える天皇制廃止論については、明治維新や今回の終戦に際して果たした天皇の政治的役割に論及した上で、「社会学的に検討しても公正無私の無党派的権威として観念される天皇の存在は、民主主義下に於ても十分の意義を持つ」として斥けた。
政府の憲法改正案の中で湛山がもっとも高い評価を下したのが、第九条の戦争放棄の規定であった。これは「従来の日本、否、日本ばかりでなく、苟(いやしく)も独立国たる如何なる国も未だ曾つて夢想したこともなき大胆至極の決定」であり、「痛快極りなく感じた」と湛山は心情を露にした。そして、わが国はこの憲法をもって 「世界国家の建設を主張し、自ら其の範を垂れんとするもの」にほかならず、その瞬間、もはや日本は敗戦国ではなく、「栄誉に輝く世界平和の一等国」に転ずるとさえ言い切った。反面、湛山がこの草案唯一の欠点としたのが、国民の権利と義務に関する規定であった。「権利の擁護には十全を期した観があるが、義務を掲げることの至って少ないからである。「昔専制君主が存在した場合と異なり民主主義国家に於ては、国家の経営者は国民自身だ。経営者としての国民の義務の規定に周密でない憲法は真に民主的とは言えない」と批判した(1946年3月16日号社論「憲法改正草案を評す」『全集⑬』)。
ともかく新日本がアメリカの主導の下で新憲法体制を敷き、他律的にせよ、アメリカン・デモクラシーの下で自由主義・民主主義・平和主義社会を目指して大きく踏みだしたことを、湛山は心から歓迎した。もちろん戦後GHQ指令により実施される主権在民、完全選挙権、男女平等、地方自治拡大も、彼の戦後設計図に色濃く描かれていた。

 

第三に、湛山は国際政治経済面において、大西洋憲章、国際連合、ブレトンウッズ体制などを主軸として確立された新しい国際秩序を高く評価した。すでに戦前期に「世界開放論」を掲げ、また戦中期には軍国主義、全体主義、国家主義イデオロギーおよびドイツ型戦後構想を退けて、自由主義、個人主義、民主主義思想と英米型戦後構想に深い関心を抱いてきた湛山とすれば、当然といえた。したがって、日本のみならず世界からファシズムや軍国主義が淘汰され、平和的かつ民主的な国際システムが復活したことは、国内政治面と同様、湛山の年来の念願がようやく叶ったことを意味したのである。とりわけ国際経済面で保護貿易主義から自由貿易主義への転換が図られたことを、湛山はもっとも歓迎した。なぜなら戦後の日本経済の発展は、貿易の進展と一体化せざるをえず、とすれば、貿易立国日本にとって、保護貿易体制に代わる自由貿易体制こそ死活的条件であったからである。
以上のように、戦後期の日本の新体制にしても、米英主導下の新世界秩序にしても、内外の客観情勢は、湛山が戦前以来一貫して提唱してきた「小日本主義」の原理原則になんら矛盾するものではなかった。むしろ彼の眼には、戦前戦中期と比べて格段に好ましい状況と映った。「日本経済復興への道程は決して悲観すべきではない」との湛山の主張は、強弁でもなければ、修辞を弄したのでもなく、確固たる信念と見通しの上に立っていた。ともかく湛山の思想と行動には、戦前から戦後への断絶や変節といった軌跡がみられず、くっきりと一本の連続線が描かれる。戦を境に豹変した日本人の多さに思いを馳せれば、湛山のもつ対照性は、日本人の責任ある生き方を見事に示した一つの標本であったろう。こうして湛山の理想が30年の歳月を経てようやく 現実へと一歩踏みだしたのである。

 


解説

あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。

 

獅子風蓮