獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その22)

2024-06-23 01:54:21 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山たちはヨーロッパ帰りの抱月から、美学の講義を受けることになった。そして抱月は休刊していた「早稲田文学」を復刊した。
島村抱月といえば「カチューシャかわいや別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに……」で始まる「カチューシャの唄」で、今も知られる。大正3年(1912)に生まれて、その年に大流行したこの歌は、当時芸術座のスターであった松井須磨子がレコードに吹き込んで、売れに売れた。抱月はこの須磨子のために早稲田大学の教授の地位も家庭もすべてを擲ち、恩師の坪内逍遥とも訣別することになる。
抱月は自然主義運動に行き詰まっていた明治43年(1910)に「早稲田文学」にイプセンの「人形の家」を翻訳して発表した。これを契機にして、新劇運動に精魂を傾けることになる。
『人形の家』が翌年、抱月の演出、主演のノラを須磨子が演じて上演され、好評を博した。須磨子との問題や新劇への志向から抱月と逍遥の芸術観は対立して、ついに文芸協会が分裂、解散するのである。
大正2年、抱月が結成する芸術座の結成趣意書には、湛山も正宗白鳥、窪田空穂、金子筑水、相馬御風、中村星湖らとともに評議員として名前を連ねている。
抱月がスペイン風邪をこじらせて急死するのはその5年後の大正7年(1918)である。湛山は『早稲田文学』に追悼文「四恩人の一人」を書き、抱月に最大の敬意を払っている。湛山は抱月を、福沢諭吉、板垣退助、坪内逍遥と並んで〈明治維新以来の我が思想界の四大恩人の一人〉と称賛したのである。
〈福沢諭吉は日本の思想を西洋の実業化したこと、板垣退助は日本に民権自由の思想を鼓吹したこと、坪内逍遥は初めて日本の文芸に正しい位置を与えたことで、それぞれに日本の近代文化史に大きな転機をもたらした。これに対して抱月は、自然主義の唱導と芸術座の仕事を通して、日本の思想を過去の因習から救うための大運動を起こしたことに大きな意義があつた〉と述べている。そして、〈明治維新以後今日迄の我が文化史はあの四人だけの名を挙ぐることによつて書ける。けれども其の一人を欠いては書けぬ〉と言い切っている。
ここに早稲田卒業後の湛山の文化観と、抱月への敬意が示されていると言えよう。
抱月にはこんなエピソードもある。
早稲田実業時代の早稲田本科に入学した竹久夢二(後に専攻科に進むが中退)が、教室の黒板に落書きをしていたところに抱月が入ってきた。その美人画に目を留めた抱月は、さすがに美学の教授であった。夢二に向かって「君は絵描きになりたまえ。きっと成功する」と勧めた。これが縁で、画家・竹久夢二が誕生することになったという。
「石橋君、後で講師室にちょっと顔を出してください。お願いしたいことがあります」
授業が終わった時に、抱月から声をかけられて湛山は、首を傾げた。抱月にものを頼まれるほど親しくしてもらっているわけではなかったからだ。それでも講師室に行くのは楽しかったから、湛山は抱月の机の前に立った。
「ああ、石橋君。君は文章がしっかりしているらしいね。頼みというのは、そのことなんだ」
「僕が今度『早稲田文学』を復刊したのは知っているね」
「はい。先生のお書きになった『囚われたる文芸』は面白く読ませていただきました」
「そうか、ありがとう。そこでだね、お願いというのは『早稲田文学』の論説欄を君に担当してもらえないだろうか、ということなんだがね」
湛山にとっては、青天の霹靂にも等しい抱月の言葉であった。『早稲田文学』の論説欄を担当しろとは……。
湛山にはさすがにその自信はなかった。
「先生、簡単にお引き受けする代物ではありません。お言葉はありがたいのですが」
「今ここで返事を欲しいとは思っていない。しばらく考えて返事をくれたまえ。あ、そうそう、この間の哲学科の第3回セミナリーの発表聞いたよ。波多野講師も感心しておった。何だっけ、えー と、確か……」
「あれは、ストア学派の人生観とエピクロス学派の人生観との比較研究、です。長ったらしい演題でして」
「いや、よかったよ。……じゃあ、いいね。近いうちに返事を」
「分かりました」
抱月からの依頼を何人かの友人に相談すると、みな一様に、
「面白いじゃあないか。引き受けてみろよ。大丈夫だ、君ならやれるよ」
と口を揃えて賛成した。中村星湖も、
「素晴らしいじゃあありませんか。石橋さん、やってくださいよ。石橋さんの論文は中学校の頃から定評があったじゃあないですか」
「中村君、中学校の頃とは違うんだよ。『早稲田文学』は、校内雑誌ではないんだから」
「だから素晴らしいんですよ。石橋さんの論文が多くの人の目につくってことですよ。僕も小説、随筆では自信があるんですが、論説といったら……」
結果的に湛山は「早稲田文学」の論説欄を担当することになる。
こうして抱月との関係は、学生と教授というよりも、お互いを認め合った人間同士の付き合いになっていった。

(つづく)


解説

湛山は『早稲田文学』に追悼文「四恩人の一人」を書き、抱月に最大の敬意を払っている。湛山は抱月を、福沢諭吉、板垣退助、坪内逍遥と並んで〈明治維新以来の我が思想界の四大恩人の一人〉と称賛したのである。

湛山は、抱月に推薦されて、「早稲田文学」の論説欄を担当することになりました。

 

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