獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その10)

2024-06-05 01:23:16 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
■第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第2章「ビー・ジェントルマン」

(つづきです)

明治34年(1901)は、省三にとって人生を変えた出会いのあった特別な年になった。この頃の中学校は全国的に荒れていた。生徒たちは教師と対立し、校長の命令には背いた。だからどこの中学校も、規則を厳しくして生徒たちを締めつけていた。
そんな矢先の4月、湛山の第5学年進級を前に校長が替わったのである。幣原校長は朝鮮統監府に出向となり、代わりに赴任したのは京都の同志社で教授をやっていた大島正健であった。
「私が大島です。私は、理想の学生像を以下のように考えております。……」
新任の校長は、目つきは厳しいものがあったが、それも新しい学校への意欲とも思える光に満ちていた。鼻の下にたくわえられた髭も顔つきをいかめしく見せようとするものではなく、かえって親しみのあるものにしていた。
その第一声は低く澄んでいた。聞く者の腹の底にそのまま響いてくるような声音だ。
省三は、そんなことを感じながら大島正健の話に耳を傾けた。ところが荒れていた学校の中心になっていた生徒たちは、大島の第一声こそ静かに聞いたが、大島が言葉を続けるとがやがやと私語を始め、講堂の床を靴でどんどんと踏み鳴らしていつもの様相を呈してきた。黙り込んだ大島は、生徒たちの私語が低くなった時を見すまして、大喝した。
「黙れ! 甲州の山猿ども! うるさくすればこちらが黙り込むと思ったら大間違いだぞ!」
一瞬、講堂の中は静まった。大島は機を逃さず、生徒たちを壇上から見て、
「と、言ってしまえば身も蓋もない。私とて北の果て、北海道の小さな学校で学んだ者ですから。とにかく、私の話を聞きなさい。簡単に終わりますから。騒ぐのはそれからでもいいでしょう」生徒たちは、今度は静かに聞き入っている。
「理想の学生とは、身体が強健であること。そして、秩序ある行動を取り、整然としていること。シンプリシティであること。そのうえで、快活および希望を持っていること。これに尽きます。皆さん、楽しく悔いのない時間を過ごしましょう。終わり」
大島の態度と言葉は、省三の胸に迫ってくるものがあった。頷くしかなかった。
集会が解散した後で、級友たちの何人かが省三に話しかけてきた。
「石橋、何か今までの校長たちとは違う人みたいだな」
「ああ、あの一喝はびっくりした。腹の底に響いたよ」
「そのくせ威張っているように感じないし、話が分かりやすい」
「だが、一カ所だけ分からない言葉を使った。 あの、シンプリなんとかいうやつだが……」
省三は、会話のなかに入った。
「あれは、シンプリシティ。つまりシンプルであれ。単純がいい、と言っているんだ」
「単純、という意味なのか、あれは」
「そうだ。新しい校長は、健康、秩序、単純、快活、希望の5つを完備する者が理想の学生である、とこう言ったんだよ」
省三は、目の前に現われた大島正健という人物に興味を持った。
幼い頃に、初めて日謙師に会ったとき以来の感情であった。
(直接お目にかかって、話を伺いたいものだ)
大島正健は、札幌農学校(北海道大学の母体)の第1回卒業生で、有名なウィリアム・クラーク博士から直接薫陶を受けた人物である。神奈川県の生まれで、新渡戸稲造や内村鑑三の1年先輩に当たる。卒業後、しばらく農学校にとどまって英語を教えた。
明治9年(1876)7月に赴任したクラーク博士が、札幌農学校にいたのは僅か8ヶ月余りであった。だが、この間にクラーク博士は16人の日本人学生の本質を見抜いて「イエスを信じる者の誓約」を作成し、自らが署名した後に16人の署名を求めた。そのうちの一人が大島正健であった。クラーク博士は、北海道を去るにあたり、送ってきた彼ら学生たちに向かって「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を馬上から発した。
大島は、このクラーク博士の教えを甲府第一中学校で実践しようと決めていたのであった。大島が、僅か8ヶ月余りのクラーク博士との交流の中で学んだものは、5年にも10年にも匹敵するものであった。
「私がクラーク先生から教えられたのは、自主性ということであった。民主主義とはいかなるものか。個人主義とはどういうことか。それは人間を人間として扱うということであって、規則や上下の隔てにおいて人を縛りつけることとは正反対のことなのだよ、石橋君」
大島は、敬虔なキリスト教徒であった。だが、仏門の生まれで今も仏門にいる省三に対しても、異教徒という態度は一度として見せなかった。大島の、物事にこだわらない豪傑肌の性格は、省三が初めて出会ったタイプでもあった。
大島は新学期になって最初の朝礼で、こんなことを述べて生徒や教師たちを驚かせた。
「これまで甲府第一中学校がどのような校則をもって生徒の指導に臨んできたかを、私は関知しておりません。ゆえに、今日からはあらゆる校則のうち、皆さんを縛りつけるような規則を廃します。なになにしてはいけない、という規則は一切なくします。べからず、という言葉はこの学校から追放するのです。しかし、約束してください。皆さんがこれで自由に何をしてもよいというのではありません。自分のすることに責任を持ちなさい。自分の良心に従って、自分で判断するのです。私は、それを札幌農学校でクラーク先生に学びました。ですからそのまま、クラーク先生の教えをここで実践します。皆さんは今日から、クラーク先生の孫弟子です」
省三は、聞いているうちに目頭が熱くなってきた。大島校長が言葉を切った時、省三は思わず拍手をしていた。その拍手が波のように校庭全体に広がっていった。生徒ばかりか教師たちも頷きながら拍手をしているのである。
数分間も続いた拍手が静まるのを待って大島は、
「皆さん、私はクラーク先生から二つのことだけを言われました。それは『ボーイズ・ビー・アンビシャス』そして『ビー・ジェントルマン』。それです」
そう結んで降壇した。再び拍手が嵐のように起きた。省三は喉が渇いて困った。その渇いている喉の奥で、「ボーイズ・ビー・アンビシャス。ビー・ジェントルマン」
と繰り返し呟いていた。
頭の中には「青年よ、大志を抱け」、「君子であれ」と大島から前に聞かされていた日本語訳が浮かんでいた。「君子であれ」とは「紳士であれ」というほどの意味である。
「自分の良心で判断せよ。そして、大きな希望を持て。さらに紳士であれ」
省三はこの時に自分の将来の生き方の雛型を、大島から与えられたのであった。
「今日から僕は、クラーク先生の孫弟子なんだ」
会ったことのない、そしてこれからも永遠に会うことのないクラーク博士が、 大島校長を通して、身近な人になっていた。
「ビー・ジェントルマン」
口に出してみると、すっきりしたいい響きであった。
省三は、2年生への進級と、5年生への進級が2度遅れたことを祝福したい気持ちになった。それに、2回の落第を叱りもせずに、そのまま甲府中学に行くように仕向けてくれた日謙師の助言と寛大な心にも感謝した。
(2年遅れたからこそ、大島校長に会うことが出来た。もしも2年の落第がなかったなら……。むしろ順調に進級できて卒業していたならば……)
それを思って、背筋が寒くなるような気がした。大島正健との出会いは、自分の一生にとって欠かせない出会いであったからである。
「そういうのを人間万事塞翁が馬、と言うんですよ」
同じように今日の大島校長の講話に感動した中村将為が、省三の気持ちを代弁した。確かに「躓いた石は踏み石になる」の譬え通りであった。省三は、自分の運命に感謝したくなっていた。
「いいかい、石橋君。これからの日本は君たちのような若者が担っていかなければならない。近代化とは、便利になればよいとか、経済や外交で欧米諸国に追いつけばよいというだけのものではないんだ。日本人一人ひとりが先ず、一切の行為の規準を自分自身の自覚に求めるという、個人主義に目覚めなければいけない。概して日本という国には個人主義のようなものを育てにくい土壌がある。個人主義というと多分、自分だけという利己主義を考えるからだろう。でもそれは違う。自覚と自己責任。これが本当の個人主義なんだよ」
省三は、しばしば校長室に出入りした。大島の暇な時間を見つけてはクラーク博士の話や、大島自身の思想や理想について聞くのが楽しかったからである。
「人間は、特にこれからを生きる若い人は、大きな希望を、大きな志を持たなければいけない。これがクラーク先生の、日本人への励ましの言葉なんだよ」
「私が始業式で述べた、ビー・ジェントルマンという言葉を覚えているかい? 君子であれ、と言ってもよい。紳士であれ、とも言い換えられる。人間としての大事な道を説いている言葉なのだよ」「クラーク先生は、またビー・アンビシャスという一言で自主独立の精神を維新後の日本人に鼓舞してくれたんだよ。抱くところの望みが小さく、他人の後を追いかけていくだけで満足している日本人の大いなる欠点を見抜いていたからなんだ」
「いいかい、石橋君。理想は高きを要し、職業は低きを厭うてはいけないんだ。いやしくも、身の独立を助け、世の公益になることに力を与える職業があるならば、その職業の如何を問わず、信じた道を行きなさい。その道に尊卑の別はないのだから」
「労働は決して恥じるべきものではないんだ。これからの青年たる者は、働くことを大事にしなければいけないのだよ」
大島の話は、すべてが省三の腑に落ちた。言うことのすべてが、新しく、そのくせずっと省三の胸の中に漠然としてあったことばかりだったからだ。大島と話す度に、自分の中で、ひとつの思想、あるいは生きる道標のようなものがはっきりした形になっていくのを、 省三は感じた。
「大島先生、今日から僕の名前が変わります」
すでに得度を終えていた省三は、夏休みの前に日謙師のもとで名前を変えた。その報告を先ず大島にしたのであった。
「ほう、宗門の定めかね」
「定めというわけではありませんが……」
省三は、照れたように頭を掻いた。校舎のすぐ脇にある古い桜の木で、蝉がうるさいほど鳴いていた。
「暑いな」
大きな扇子を煽りながら大島は、これも大きなハンカチを出して額の汗を拭った。
「それで、何という名前になったんだね?」
「はい、湛山と言います」
「タンザン?」
「湛える山と書きます。それで湛山です」
「湛山かい。変わった名前だね。で、どうして湛える山なのかな。湛えるといったら水のようなもののことではないのかな」
問われて湛山になった省三は、
「湛という字は、父親を初め、その宗門でよく使われている字なんですが、山は……。よく分かりません」
「甲州では、武田信玄公の機山が有名だが、それにあやかったのだろうか……。いや、信玄公と日蓮宗は……。まあいいか」
「ですから、今日から省三ではなく、湛山と名乗ります。先生も湛山と呼んでください」
「分かった。石橋湛山君。うん、呼んでみると座りのいい名前じゃあないか」
この日から省三は、友人など周囲からも「湛山」と呼ばれるようになる。

(つづく)


解説
大島は、このクラーク博士の教えを甲府第一中学校で実践しようと決めていたのであった。

こうして湛山は、大島校長と出会い、大きな影響を受けることになったのです。

 


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