石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第3章 プラグマティズム
(つづきです)
2度目の受験が迫っていたからだ。そして受験した。今度こそはうまくいくだろうと、湛山も周囲も思い込んでいた。
だが、人生はそう思いどおりになるものではなかった。
湛山はまたしても第一高等学校の受験に失敗するのだった。
「少し、人生を甘く見ちゃったかもしれないな」
2年連続の不合格に、湛山はさすがにガックリきた。甲府に戻ると、
「そんなことはないよ。運が悪かったか、得意な問題が出なかったか、どっちかだよ」
周囲はそんなふうに慰めてくれたが、湛山は、
「不合格だったということは、ひとえに自分自身の実力のなさなんだ。受験問題なんてものは、どんな分野から出ても解けるようでなくてはいけないのに僕は解けなかった。出来たと思い込んだ問題もあったろう。しかし、不合格という結果がすべてを物語っている」
胸の裡の虚しさとは別に、そう答えた。だが、これからどうするか展望は全くなかった。
「とはいえ、もう1年、頑張ってみるしかないか。それとも別の学校に行くか……」
湛山にそんな迷いが生じた頃、東京・神田で中学校の教師をしていた長遠寺時代の兄弟子・飯久保義学が、わざわざ甲府まで湛山を訪ねてきた。
「2回受験して失敗したのだから、それは縁がなかったということだ。仏縁というものを考えたらどうかな。仏縁とは運命。浄土は西方ばかりではないよ。南に行っても東に行っても必ず西方浄土には行き着ける。日謙師も昔、そうおっしゃっていたではないか」
「そうか、浄土に行くのには一つの道だけではない……」
湛山の心の闇の中に一筋の光明が射した。
「そうか。そういうことか」
「このままだったら、君は20歳になって徴兵に取られることになる。それよりも私は、どこでもいいから大学に行くことを勧めるな。従兄弟に早稲田の学生がいるんだが、あそこはなかなかのものらしいよ」
「早稲田ねえ」
最初のうちは気乗りしない様子だった湛山だが、飯久保と話しているうちに、頭の中で考えが固まってきた。
「学ぶということが第一義であって、どこで学ぶかという手段はその次の問題ですね」
湛山は、そこに思いが至った。
「飯久保さん、分かりました。早稲田を受けてみます」
「そうか、その気になってくれたか。よかった。わざわざ君に会いに甲府まで来た甲斐があったというものだ」
飯久保の勧めと、それに応じた湛山の決断はいろいろな意味で湛山のそれからの人生に、大きな影響を及ぼすことになった。
翌年の明治37年(1904)2月、日露戦争が勃発する。一年半後の9月にポーツマス条約で終決するが、日本側だけで七万人もの死者を出した戦いであった。もし、湛山が、甲府の山梨普通学校の教諭見習いのような格好で、もう一年受験浪人の生活を続けていたとしたら、間違いなく徴兵に取られていたはずである。
飯久保が指摘したように、当時は学生になっていれば徴兵は免除されたのであった。徴兵令は明治6年(1873)に発布され、その後、明治16年と22年に大きく改訂される。学生は満26歳まで徴兵が猶予された。湛山自身、後にこう回想している。
「もしこの時に、なお山梨普通学校にぐずぐずしていたら、翌年は日露戦争で、私も召集され、あるいは旅順口あたりで戦死していなかったとも限らない。しかるに幸いに早稲田大学に入学したため、明治37年には適齢期にあったが、徴兵の延期を受けることができ、戦争には行かずにすんだ」
本当によかった、というほっとした口ぶりが伝わってくる。
(つづく)
【解説】
二度目の第一高等学校の受験に失敗した湛山でしたが、先輩の勧めもあり、早稲田大学を受験することになります。
そのおかげで日露戦争に招集されることもなく、早稲田で大切な師と出会うこともできました。
獅子風蓮