■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
●の文章は、それについたコメントの引用です。
■精神の暴力 投稿日: 2012年12月7日
「信仰や国籍や伝統によって自らを他と切り離してしまうところに、暴力が育つ母胎が生まれる。」クリシュナムルティ
偶然ツイッターで目にした言葉ですが、ちょうど票集めに奔走する学会員と重ね合わせてなるほどと思いました。学会員は自分たちの信仰だけが正しいと徹底的に思い込まされています。学会のいわゆる「教学」はそのための道具にしか過ぎません。一般社会に対して目隠しをされ、自分よりも世間を見下すようにインプットされます。自分たち創価学会以外はカスのように思い込まされています。「この信仰を知らないなんてかわいそう」と平気で言います。日蓮の排他的な教義はそれを裏付けるのにうってつけなんですね。創価学会は教学をつかって会員に排他的な思考回路を植え付け、一般社会のモラルから隔離させています。禅天魔、念仏無限、真言亡国、キリスト教に至っては外道の一言ですませてしまう。イスラム教など論外のさらに外側(笑)。学会員は自分たち以外のものを見もしないで見下してしまう。そのように仕向けられています。自分たちに都合の悪いことはみな言いがかりだのガセネタだの、正法流布を拒む魔の現証だのと上から言われることだけを鵜呑みにして自分で考えることをしません。そう、創価学会の組織は自分で考えることをさせない見事なシステムです。良いことがあれば信心の功徳、悪いことがあれば邪宗のせいにするか、信心が足りないということにする。現実を見ない、見せない、そして自分で考えない、考えさせない組織。なんだか世界征服を企む悪いやつが善良な市民を洗脳して支配するような安っぽいSF映画みたいです。しかし現実にそのような愚かなシナリオによって多くの人が何も考えずに「池田先生のために」というひとことで財産を失い、家族が離散し、友人を失い、一度しかない大切な人生を棒に振っているのです。上に紹介したクリシュナムルティの言葉にあるように、創価学会員は自らの信仰と思い込まされている道具によって世界と自己を切り離し、自らが暴力の手先となってしまうのです。創価学会、それはいわば精神的な暴力によって人を支配する組織だと言うことではないでしょうか。恐ろしいのは当の本人が精神の暴力を受けて自己を見失っていることに気づかないことです。このことに気づくには、自己を確立すること。今、自分はどこにいるのか。依って立つ大地をどこに据えるのかをもう一度自分の気持に素直になって対峙することではないでしょうか。
私は生まれたときから両親が創価学会の幹部でしたから、自分が創価学会の信仰を貫くことに何の疑問も感じることなく大人になりました。まわりはみんな学会員。小さい頃から座談会や各部員会、学生部では連日の折伏活動。男子部になって活動している途中で、少しずつ疑問が出てきました。しかしその疑問に対しても深く考えようとはせずに、というより考えることが罪悪であるような思考回路でした。しかし次第に一般社会と創価学会の価値観のギャップに苦しむようになりました。それでも「この信心に間違いはない」と自分に言い聞かせてきました。創価学会に疑問を感じる自分の信心が足りないんだと思い込ませていました。それでも壮年部になるころになり、仕事がら政治にも関わるようになって、自分が抱えていた疑問や世間の価値観とのギャップはどうも信心不足から来るものではないのではないかという気がしてきました。そしてやっとネットで創価学会に対するおかしな点を指摘するサイトが目に入るようになりました。それまでは創価学会に対するどんな誹謗中傷もすべてウソだと決めつけてまったく相手にしていませんでした。まったく愚かでした。そのときには既に年齢も50をすぎ、これから人生の終盤へ向かってどうやって仕上げをしていこうかというときに、それまでの自分の人生の根本に据えていたものが間違いだったということを自分で認めなければならないという事態になってしまいました。学会員が自分の信仰の間違いに気づかないというより、気づきたくはないというのもよくわかります。いままでコツコツと積み上げてきた自分の人生をガラガラと突き崩すことなど簡単にはできないでしょう。それはよくわかります。しかしそれをしなければならないのです。自己を自分の力できちんと見つめ、認め、これからどうして行くべきかを自分で決めていく。人間として当たり前のようなことを、創価学会員であるが故にできなかった。すべてつくられたお膳立ての中で踊らされていた。自分で考えないことが信心なんだと、正義なんだと信じていた。折伏、選挙、新聞啓蒙、教学、各種会合…すべて組織の頂点にお金を集約する巨大なシステムだった。そのことに何の疑問も持たずに人生のあらかたを過ごさなかればならなかったことに気づいたときの気持。私は居ても立ってもおれずに、このブログ「対話を求めて」を立ち上げました。最初は私と似たような思いのたくさんの方に賛同をいただきました。しかし途中でネットならではの心ない中傷や面白半分の妨害などもあり中断しました。そして私は自分のこれからの人生を考えていこうとしたときに、いつのまにか鬱の症状が出ました。まさかこの自分が鬱になるなんて思いもしませんでした。自分の感情をコントロールできない。夜眠れない。ものごとを深く考えることがおっくうになるなど、仕事にさえ支障をきたし始めました。一時はもうどうでもいいような気にもなりました。心療内科に通い、薬物で気長に戻すしかないと言われました。この半年間、ブログを更新できなかったのはそのためです。パソコンの前に座って自分のブログを開いても言葉が出てこなかったのです。しかしようやくこうして言葉が出てくるようになりました。しだいにものごとを考えることができるようになってきたとも思います。でもまだ完全に戻ったというわけではないし、薬の量も減っているわけではありません。しかし、せめてこうして自分の今の気持を言葉にしていこうと思います。
何度でも言います、私が50年間信じてきた創価学会は間違いだった。誰しも自分の間違いを認めることは辛いことです。ましてや人生の根幹をひっくり返されることを、そう易々と受け入れられるわけがありません。しかしそこは勇気を出して立ち向かわなければ、間違ったままで終わらせることになります。これまで私がいちばん尊敬していた父。しかしその父は間違った信仰のまま逝ってしまいました。母もすでに認知症が進み、今さら信心のなんたるかを語っても受け入れることはできません。たとえわかったにしても、あといくばくもない残りの人生においてこれ以上残酷なことはないでしょう。両親はこの信心を貫き通したということになっています。地元の会館の庭には学会草創期の活動をたたえて父の名前がついた桜の記念樹が毎年花を咲かせています。それが一体何になるのでしょうか。日を追うごとに何もかも忘れ去っていく母親。彼女の人生ははたして幸せだったのか。そんなことを思うたびに、誰でもいいからひとりでも多く創価学会のまちがいに気づいて、自己をみつめ人生をたてなおすチャンスに巡り会う機会を持ってくれる人が現れればと思います。
●サラマンダラ(2012年12月7日 21:09)
私はシニフェイさんのように理路整然とコメントはできませんが、コメント読んでいて苦しんでおられる心中痛いほどに伝わってきて思わず胸が詰まってしまいました。
間違いに気づき退会した者が決まってたどるつらい道のりだと思います。しかし永い時間が助けてくれることも多くあるような気もします自分の経験から、ですから焦らないことも大切なことだと思います
ご両親様のことはそれはそれで幸せだったんだと思わなければ、ご自身死ぬまで苦しむことになるのでは(そのような気がします)
とは言え自身も未だに親のことは引きずっています
今こうしてコメント書かせてもらってますが息苦しくなってきます
いまかつて超側近で使えた副会長の言葉を思い出します
限りなくホンモノに近い偽物故に見破りにくいのだと(直接聞きました)
●T(2015年10月12日 10:11)
signifie様
すべての記事を隈なく読んでいきます、
噛み締めるように読んでいます、心の中がすっきりします。
創価のモヤモヤの霧が晴れます。
なぜ創価学会なんてものが世の中にあるんでしょうね、
人間が作り出したものであるのは確かです。
弱い人間を騙し逃避先を与える、麻薬のよう。
麻薬ですね。
●signifie(2015年10月12日 13:28)
Tさん、コメントありがとうございます。
コメントはスレ違いになってもかまいませんので、
いちばん新しいスレッドにお願いします。
昔のスレッドにコメントされても、見られる方が限られてきます。
よろしくお願いします。
たしかに創価の信仰は麻薬ですね。そしてその麻薬を売りつけている創価は暴力団と同じです。しかし創価の被害者の数は暴力団の比ではありません。そういう意味では創価は暴力団よりもたちが悪い犯罪集団であり、会員は罪悪感すらない暴力団員のようなものです。だからこそ、創価のまちがいに気づいた人は一日もはやく脱会しましょうと呼びかけています。
【解説】
最後のシニフィエさんの言葉は気になります。
>たしかに創価の信仰は麻薬ですね。そしてその麻薬を売りつけている創価は暴力団と同じです。
いくらなんでも、それは言い過ぎではないでしょうか。
獅子風蓮