
友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: SALT OF THE EARTH
「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。
2019年4月29日 投稿
友岡雅弥
震災直後は、その被害の大きさからぼう然として、何もできない。また、大事な人が行方不明、また亡くしてしまった。その「放心」と「悲哀」のショックの期間が続きます。もちろん、大事な人を亡くしてしまった悲哀は、ある意味、一生消えるものではないでしょう。
しかし、しばらくすると、レヴェッカ・ソルニット(3時間ほど、話をしたことがあります)の言う「災害ユートピア」の時間が来ることも、頻繁です。(何度も言いますが、大事な人を亡くしてしまったら、話が 異なります)
水もなにもない、電気もガスもない、ガレキばかりの町。
しかし、ガレキが片づけられ、電気が来る。
避難所の体制が出来てくる。とりあえず、食べ物と水は毎日ある。もちろん冷たかったり、メニューがいつも同じだったりはします。
やがて、仮設住宅が出来てくる。そこへの入居が始まる。
もちろん、日本の仮設住宅は、全プレ協と自治体の提供する工事現場用のプレハブがほとんどです。福島のいわきの、エコ・ヴィレッジさんたちがやってる木造の屋根付きの仮設住宅や、世界的建築家の坂茂さんの、鉄道コンテナを利用した女川の三階建て仮設のような、安価でなおかつ居住性が高いものは、まだまだ広がっていません。
だから、とても狭かったり、となりの物音が聞こえたり、日本全国同じ仕様なので、寒冷地では結露を生じたりして、暮らしにくいことこの上ない。
でも、まあ、避難所よりは、少しはましです。
そして、仮設の生活が数年続き、団地式の復興住宅が出来てくる。
さあ、「復興完成」!とはなりません。
なぜならば、ここから、「家賃」を払わねばなりません。
被災地に、もともと建っていた家は、だいたいがとても大きい。そして、たいてい自分の家だった。それが、「津波浸水地域」となり、そこには、家を建てられない。
だから、別のところに、新しい土地を買って建てるか、一軒家を捨てて、団地式の復興住宅に住むか。
さあ、これからが問題です。
私の手元には、高齢者や障がい者の生活支援を長年やって来られたCLC(全国コミュニティ・ライフサポートセンター [http://www.clc-
japan.com](http://www.clc-japan.xn--com-n73bzb2tkc))さんの仙台の事務所に行ったとき、「今後の参考に」といただいた、段ボールいっぱいの資料があります。
もちろん、震災だけではないのですが、震災に関しては、避難所のフェーズ、仮設住宅のフェーズ、復興住宅のフェーズなど、各フェーズごとに、詳細な資料を、CLCさんはつくっていらっしゃいます。
それだけ、各フェーズで違うのです。支援すべきこと、支援において、気をつけねばならないことがね。
たくさんあるのですが、一点だけ、今回あげます。
それは、避難所ぐらいのフェーズまでは、毎日、具体的に変化があるんです。
ガレキが、とりあえず道の部分だけ、啓開されたとか、初めておにぎりを食べたとか、水道が通ったとか、トイレが出来るようになったとか。
具体的変化が見える分だけ、復旧の実感がある。
でも、ある程度、復旧してくると、具体的変化がなかなか見えない。
逆に、ああ、あの一階が津波にやられた建物が、取り壊されたとかいう、以前のものがなくなっていく、という形がもっぱらになるのです。
変化のない日常、そこに「以前あったものがなくなっている」という空虚感。特に、親しい人を亡くしたり、家をなくしたり。喪失感と直面せざるをえないのです。
最近、ふと気づいたことがあります。
去年の夏に、意識不明の重体となり、4週間の入院生活を送って退院してきたのですが、それから家に戻って、まあ言えば、24時間自分の時間が、目の前にポンと置かれる。
自分で何かを計画しないかぎり、同じような毎日が過ぎていくだけ。
しかも、気力も体力も、リカバーのための、プログラムを自分で立てて、それをこつこつやっていかねば、どんどん失っていく。
延々と続く日常と喪失感との「対面」。
比較にはならないけれど、自分がまあ、当事者の気持ちの万分の一でも感じることができたんだなぁ、こんな気持ちでみなさん、いらっしゃったのか、と気づいたわけです。
この経験は、ありがたかったです。
【解説】
最近気が付いたのですが、友岡さんが死亡したのは2019年4月2日ですから、ここ数回の投稿は生前に友岡さんが書き溜めていたものということになるのでしょうか。
そう思うと、これらの記事は、友岡さんの遺言ともいうべきものかもしれません。
去年の夏に、意識不明の重体となり、4週間の入院生活を送って退院してきたのですが、それから家に戻って、まあ言えば、24時間自分の時間が、目の前にポンと置かれる。
自分で何かを計画しないかぎり、同じような毎日が過ぎていくだけ。
しかも、気力も体力も、リカバーのための、プログラムを自分で立てて、それをこつこつやっていかねば、どんどん失っていく。
これはおそらく創価学会執行部から受けた査問が精神的トラウマとなって起きた病態と思われます。
延々と続く日常と喪失感との「対面」。
比較にはならないけれど、自分がまあ、当事者の気持ちの万分の一でも感じることができたんだなぁ、こんな気持ちでみなさん、いらっしゃったのか、と気づいたわけです。
この経験は、ありがたかったです。
この言葉には涙が出ます。
それとともに査問をした創価学会執行部の責任を問いたい気持ちがぬぐえません。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮