石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。
まずは、定番というべきこの本から。
増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)
目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
■第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに
第7章 世界平和の実現を目指して――1960年代
□1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」
□2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
■3)第二次中国訪問
□4)ソ連訪問
□5)晩年
3)第二次中国訪問
1958年(昭和33)5月以来断絶状態にあった日中関係は、1960年(同35)に至り、 変化が生じた。 最初の契機は、池田内閣が同年7月に発足すると同時に、劉寧一中華全国総工会主席一行の来日を認めたことであった。こうして両国はひとまず断絶状態に終止符を打った。その底流には、前年における湛山一行の訪中、それに続く松村謙三一行の訪中によって醸成された緊張緩和の気運があった。そして8月、中国側はいわゆる「貿易三原則」(①政府間協定貿易、②民間貿易、③個別的配慮取引)といった弾力的な原則を日本側に提示し、11月から日中「友好貿易」がスタートする。この背景としては中ソ対立、自然災害といった中国の内部事情があった。 ともかく「政治三原則」を確認する友好商社により、限定された日中民間貿易が再開されたので ある。
湛山は1961年(同36)4月12日、池田首相と帝国ホテルで懇談し、“二つの中国”という議論はもう古く、日中米ソ四国提携の観点から従来の考え方を改めて日中問題の解決をはからなければならないと訴えたが、池田は「(中国は)まだ混迷の状態にある」との印象を拭いきれなかった(『朝日新聞』4月12日夕刊)。池田は、日米関係の枠組みの中で、いかにして日中貿易を少なくとも西欧並みまで拡大するかで迷っていた。そこで訪中経験があり、また中国側から高く評価されている湛山、松村、高碕らに協力を求めた。翌62年(同37)8月6日、池田は湛山との会談後に「日中貿易前進論」を表明し、早速通産省に打開案の検討を指示した。その結果、メーカーなども直接参加できる形で3年ないし5年の総合バーター協定方式を進め、そのための総合調整機関を設ける構想も生まれた。また業界からは政府主導型による延べ払い輸出の実現も要望されたほか、従来の日中輸出入組合に代わり、政府系組合を新設する案も検討された。ここに池田内閣の方向も定まり、池田の意を受けた松村が9月、二回目の訪中を行ない、続いて10月には高碕が訪中して「高碕達之助・廖承志覚書」をまとめ、11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」に調印、ここにいわゆる「LT貿易」が開始されることになった(前掲『8億の友人たち・日中国交回復への道』48~54頁参照)。
この間湛山は、中国訪問に続くソ連訪問の準備に着手していたが、心臓動脈に懸念がみられたため、1961年(同36)5月に予定していた訪ソ計画を中断せざるをえなかった。それから約2年を経てほぼ健康を回復した湛山は、1963年(同38)7月、請われて「北京・上海日本工業展覧会」(いわゆる日工展)総裁に就任した。この展覧会の開催は、前年12月、国貿促、日中貿易促進会、日中輸出入組合の日本側三団体と中国国際貿易促進委員会との間で合意され、同年に北京と上海で日本の商品展覧会を、翌年には東京と大阪で中国の商品展を開催し合う旨取決められていた。
なお今回の中国での展覧会は三度目であるが、7年前の北京・上海展が出品総額4億円、5年前の武漢・広州展が6億円であったのに対して、今回は17億円以上であり、しかも一流メーカーを含む500の出店社から主任技術者クラス300人が団員として参加するなど、以前とは比較にならないほど大規模であった。湛山は今回の日工展開催の意義について、「7億の人口を持つ中国と、1億の人口を持つわが国の間に、隣邦としての関係のなかで生まれた平等互恵を基礎とした、大きな市場の関係を作り出す任務をもっている」と位置付け(『人民日報』10月7日に掲載)、その成功を期した。こうして9月24日から10月13日まで、湛山は日工展総裁とし第二回目の訪中を行なったのである(石橋湛山「中国を再び訪ねて」27~9頁)。
湛山一行は、湛山夫妻のほか、大原万平(東洋経済新報社論説主幹)、 平野三郎(日工展副総裁)夫妻、鈴木一雄(同副総裁)と森谷和代(秘書)、宿谷栄一(同理事長)など計10人であった。一行は香港から中国入りしたのち、北京空港に到着、南漢宸、廖承志ら多数の出迎えを受けた。翌日には人民大会堂で周恩来ら中国側要人十数名と懇談した。また10月1日、湛山は天安門上で毛沢東党主席、劉少奇国家主席、 朱徳全国人民代表大会常務委員長と個々に接見し、彼らとともに国慶節の式典パレードを見学した。中国側は湛山を最上級の待遇でもてなしたのである。まもなく北京市で日本工業展覧会が開幕した。開幕式には中国政府、共産党、北京地方政府、北京市等の首脳で埋まった。すでに中ソ論争によってソ連・東欧との貿易が減少傾向にあったこともあり、中国側の対日貿易への熱意がここに現われていた。彭真北京市長が開幕式のテープを切り、湛山が開幕宣言を行なって、式典は無事終了した。翌6日の初日には朝8時の開館時間を待ち切れずに、家族連れや団体が会場に押し掛け、9時には数万の群衆があふれるほどの大盛況となった(同上18~22頁、前掲「日中国交回復と石橋湛山」16~7ページ)。
日工展が多大な成果を収めたことを確認して、湛山と随行団一行は、9日、北京を離れる予定であった。ところが周恩来から湛山に対して急遽二人だけの会談申し入れがあったため、帰国の予定を変更し、午前11時より国務院で2時間余の会談が行なわれた。湛山によれば、この会談の要旨は以下のとおりである(前掲「中国を再び訪ねて」33~4頁)。
(1)日中国交正常化については、「中共としても、日本との国交正常化したい。しかし台湾問題もあり、日本の国内にも難しい問題があるようだ。台湾問題は中国の国内問題だが、いまや国際問題でもある。しかし、あきらめる必要はなく、時間をかけて努力すれば、いつかは解決できよう」と言明した。
(2)中ソ関係について、湛山は「つまらぬ紛争を避けるべきだ」と意見を述べたところ、周は「中ソとも、党の原則の問題を論じ合っているに過ぎない。本来は国と国との問題ではないはずだが、ソ連側が、技術者を引き揚げたり、中共留学生を拒んだりしている。中共は決して事を構えたいと思っていないし、戦争に発展する可能性はまったくない。中ソは共産国として一体である。……中ソ友好同盟はいまでも生きている」と答えた。
(3)日本の内閣については、「池田内閣は岸内閣よりも、中共に対する態度は良いが、まだ必ずしも一貫した方針を持っていないようだ。大平(正芳)外相が先に渡米した際、日中間協力の歴史は二千年にも亘っており、中共に対する態度は、アメリカとは違うと発言していた。このような考え方は中共にとって望ましい。大いに日中友好を深めたい」と答えた。
また湛山は「訪中第二回目の私の感想」(『新報11月2日号『全集⑭』)で、次のような重要な事実を明らかにしている。
「周総理が『中国は1950年代から中日米ソの平和同盟ということを提唱している』と、向こうからいい出した。私は驚いて『それは本当か。本当ならまことに慶賀の至りにたえないが、今日もなお貴下は同意見か』と聞くと、周総理は『むろん、その考えに変わりはない』と答え、さらに『それは望ましいことだが、まだ実現の可能性は遠いと思う』とつけ加えた。そこで私は『貴下が左様な意見なら、実現必ずしも遠いこととは思わぬ。いずれにしてもその機会が訪れたらよろしく頼む」と述べた次第である」。
さらに湛山は、
「私は、今まで、しばしばこのような構想を提唱してきたが、1960年に、ソ連のフルシチョフ首相から、同首相がこのことに全く同意見だということを聞いておる。今また、中国の周総理から右のようなことを聞いたのだから、すなわち、日中米ソのうちの中ソ両国が私の説と同じであることを確かめることができたわけである。残るところは、日本とアメリカだが、日本はこの同盟ができれば北方領土の問題も解決の望みもあり、同時に、沖縄の問題をアメリカとの間に片付けるきっかけをつかめるものと私は考える。これによって、もっとも利益を得るのは日本である。アメリカはどうかというに、ほとんど泥沼にはいったごとく、やっかいな問題で身動きもできない有様だ。おそらくケネディ大統領も、内心すみやかにこの状況を脱出したいと願っているに違いない。しからば、四国の平和同盟ができることは、四国ともに利益を得るのである」。
以上の経緯から、湛山は改めて訪ソの必要性を認識せざるをえなかった。ここにソ連訪問計画が再浮上するのである。
【解説】
湛山は改めて訪ソの必要性を認識せざるをえなかった。ここにソ連訪問計画が再浮上するのである。
池田大作氏も、訪中し、訪ソし、戦争阻止のために尽力しました。
池田氏の行動は、湛山の行動をモデルとしたものとして、私には映ります。
獅子風蓮