友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。
貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
カテゴリー: FUKUSHIMA FACT
FF5-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その5)
アクティビスト、 ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月18日 投稿
【飯舘村の戦後開拓】
飯舘村の戦後開拓を見てみたいと思います。
飯舘村の前田地区豊栄には「豊栄開拓の礎」があります(飯舘村史編纂委員会『飯舘村史』第一巻)。
前述の、飯舘村のかたがたの避難先、福島市松川の仮設住宅で耳にした、「とんぐぁ」と「しほんこ」で、「石ばかり」の土地を拓いてきた人々の歴史がここに綴られています。
此の豊栄開拓地は山形県出身満州開拓引揚者の入植予定地として農林省中央指定地区の認定を受けし前田国有林四六、四七林班内五十年生赤松林の昼尚暗き造林地なりき。昭和二十三年十一月一日元満州国開拓者及海外引揚者同志相集ひ自活の場又将来の墳墓の地と定め戦後の食糧危機と物資不足の中艱難辛苦欠乏に耐え組合長を中心に相励し相扶け只管に開拓の道に昼夜の分けなく専念し自活と子孫繁栄の礎石たらんと共存共栄を旗として筆舌に尽し難きこの百難を克服し今日に至る。此の間時勢は変転し止むなく離農せる者亦志半にして病に斃るゝ者あり。こゝに入植二十五周年を迎えるに当り此の開拓地の歴史を永久に子々孫々に伝えんと入植せる者を記名して此の碑を建立す。
昭和四十八年十一月一日之建
福島県開拓農協連合会長
吾妻千代吉謹書
(写真:「豊栄開拓の礎」)
「艱難辛苦欠乏に耐え」
「自活の場又将来の墳墓の地と定め」
「相励し相扶け只管に開拓の道に昼夜の分けなく専念し自活と子孫繁栄の礎石たらん」
「共存共栄を旗として筆舌に尽し難きこの百難を克服し今日に至る」
――のことばが、やはりここでも目に焼き付きます。
自分たちの、また子孫たちの、永住の“故郷”を作ろうとしたのです。
飯舘村には、1960年(昭和35年)豊栄、大倉、八木沢、蕨平、長泥、比曽、二枚橋、古今明など、村内各地に開拓地がありました。このうち、飯舘村前田にある豊栄は、開拓地として成功したほうだとされています。
最初、ここに来たのが、開沼幸栄さんと大江一男さん。1948年(昭和23年)にまず視察に来られました。開沼さんは、1928年(昭和3年)に山形県の村木沢(現・山形市)から満蒙開拓団で旧満州へ。
そして、敗戦。シベリア抑留。帰国して、国内開拓へ。
「シベリア帰りは『アカ』だ」という偏見が根強くあり、入植地はなかなか決まらなかったのですが、最終的に飯舘村の北前田に決まりました。
現地は一面の松林で、「途方にくれた」といいます。しかし、まったくの偶然、現地の山津見神社の宮司の息子さんが「少年義勇隊」で満州に往き、そこで亡くなっていた。
そういう共通の境遇もあり、宮司さんたちを中心に何の偏見もなく、歓待してくれたといいます。
開沼さんたちは、柱や梁になる木を切り出し、集団で居住する笹小屋をつくる。やがて、二家族で一棟の小屋を建てていく。屋根を葺く杉皮は、遠くの山まで歩いて取りに行き、背負って持ってきた。
土地は、荒地でリン酸などの養分が欠乏しており、乏しい資金を工面しては、何度も何度も肥料をまいた。
農林省推薦の多収穫種の米づくりを行ったが、冷害に弱く、1953年、54年の冷害にひとたまりもなかった。自分たちが食べる物も底をついたこともある。出稼ぎにも行った。冷害にも強い早稲の「藤阪5号」をつくったりの工夫が続いた。
だいたい、多くの開拓農家さんは、最初の二年ほどは割り当てられた開拓地にある立木を伐り、炭を焼いて現金収入にしています。木を手斧で切り倒し、伸びた草を刈る。なにせ、着の身着のまま、ほとんど準備もなしに、開拓地に来たのです。草刈り用の鎌もなく、持ってきた生け花用のハサミで、伸びた草を刈ったというお話も耳にしました。
「炭焼きに、たばこ、養蚕もやってたなぁ」
「炭焼きの窯も自分たちで作った」
「最初は馬でよ、(隣町の)川俣まで売りに行った。わしの父親のころはよ」
やがて、森林鉄道のトロッコが出来て、原町(現在は、南相馬市原町)につながった。でも、トロッコとは言っても、動力は人力です。軌道の上に乗るトロッコを人力で引くのです。
いろんな作物を植えた。しかし、何しろ、消費地まで、山道を峠越えをして何十キロも運ばねばならなかった。労働はいとわなかったが、多量に運ぶことができないので、もうけは少なかった。
白米は、正月しか食べられない貴重品で、精米法は「臼と杵でつくンだ」と言います。子どものころ、この精米をよく手伝ったというお話も聴きました。最初は勝手が分からず、細かく砕いてしまったりしましたが、何回かやっているうちにコツを覚えるのだけれど、正月や「ハレ」の祝いの日だけしかしないので、うまくなるのに、何年もかかったとか。
ここで、飯舘村の土壌の特徴について、少し述べておかねばなりません。
飯舘村を開墾していったとき、花崗岩の小石、大石が出て、とても苦労したそうです。阿武隈山系で、このあたりの岩盤は、下部白亜系花崗岩、阿武隈花崗岩類に分類される花崗閃緑岩で、長い年月と花崗岩の特徴から、マサ化(花崗岩の岩盤が割れて、 石になっていく)が深くまで進んでいます。
固い岩盤だと、その上に長い年月とともに、堆積物が厚く積もる。つまり、柔らかい土壌が深くまで続くわけですが、マサ化が深く進行しているので、ずーっと、石だらけ岩だらけの土が深くまで続いているのです。
どこまで掘っても石だらけ、岩だらけ。浪江町山間部まで、この地質は続いています。
「毎日、毎日、石がいっぺえでる。石がながなが、なぐならねぇのさ」
高度経済成長期になり、経済的余裕が出てきた村民のなかには、石材加工業に転じる人も出てきました。動力で深く掘ると、良質な花崗岩の岩盤に届くのです。少し青みがかって、高い評価を受けました。
「もうかるのは石屋と医者」
と言われたほどです。
原発事故前、飯舘の「田舎暮らし」にあこがれて、Iターンしてきた人も何人かいらっしゃいます。お一人に、福島市内でお会いしました。
「定年してから、夫婦で飯舘に引っ越してきて、農業をして余生を送ろうと思ったわけですよ。ビックリしたのが、飯舘の土の柔らかさ。鍬がすっとはいるんですよ。先人のご苦労の結果が恵みとなって結晶している。村中美しくて、カメラが趣味なんですが、飯舘はどこにレンズを向けても絵になる」
(写真:震災前の飯舘村 「負げねど飯舘!!」提供)
福島市内松川にある仮設住宅で、このように語ってくださったかたもいらっしゃいます。
福島(市)に避難してきて、やることなくて気がめいる。村だったら、土いじりをして、野菜とか作れて、それがいい運動にもなるし、気分もいい。冬から春へ、フキノトウどっさりとれるしさ。春にはワラビ、タラノメとかの山菜も、そこら中に生えてる。秋はイノハナ、クリタケ。自分ところの畑、近隣からのおすそわけ、そしてすぐ近くの山に入るだけで、食べ物はほとんど買わずにすんだ。
それが今は、スーパーで買う。体も鈍るので、近くに土地を借りて農業しようと思ったけど、でも、こっちは土が固くてさ。飯舘村だと楽に土が掘れる、ふわふわしててさ、手で掘れるぐらい柔らかい。
借りたのは、つい最近まで農地だったところだそうです。でも、固いというのです。それほど飯舘村の土地が「ふわふわ」だったということでしょう。
このように、石を取り除き、土を起こし、石だらけの固い土から、“ふわふわの飯舘村”が作られていったのです。
【さらに、村を育てる】
幾多の苦労をへて、 開拓が軌道に乗りつつあった1970年代。時代の大波が開拓農家に押し寄せました。
1960年代末から、開拓農政が一般農政に統合されていったのです。
1975年に、完全に統合されました。冷害で収穫が不振なときの税の減免措置や負債対策などがなくなり、またそういうときに支え合うための開拓農業協同組合も、解散を余儀なくされたのです。
そして、その上、今まで「米作り」が奨励されてきたのに、「減反政策」は、開拓地にも一律に適応されました。「葉たばこ」も、国内での生産過剰のために、生産中止を余儀なくされた農家さんもいらっしゃいます。
でも飯舘村は、負けませんでした。気温が、海側の町より5度ほど低いという「不利」をアドバンテージに変えて、高冷地農業の可能性を探っていきます。
トマト(大手食品メーカー用の加工トマトにも使われていました)、サヤインゲン、夏美濃・春美濃・秋美濃・大倉大根などのダイコン。いずれも、高品質なものを生みだしていきました。マッシュルームやブロッコリー栽培を手がける農家もあり、林業では、シイタケのほだぎ生産も始められました。
その外、特に有名なのは、トルコキキョウなどの花卉栽培。震災以後は、冷涼な気候を利用して、全国でも飯舘村だけと言われるカスミソウの露地栽培に乗り出している農家さんたちもいます。露地なので、陽の光がよく当たる、にもかかわらず高温にはならない、という飯舘村の立地を活かした特産品になるのでは、と、期待されています。
(写真:震災前の飯舘村 「負げねど飯舘!!」提供)
1980年(昭和55年)冷害は、作況指数7%という記録的な凶作でした。それで、季節にあまり影響ない農業をと考え、しかも飯舘村には、牛や馬の牧畜の長い歴史があったので、「畜産」を振興することになりました。村営牧場、加工開発、販路拡大まで一貫して取り組み(今よく使われることばで言えば「六次産業化」です)「飯舘牛」のブランド化に成功したのです。
ちなみに、畜産振興により、1987年(昭和62年)村は自治大臣表彰を受けています。
不利な条件のある場所で、なんとか生き残るためには、助け合い、支え合い、そして事態に対応する工夫と努力が必要でした。だから、飯舘村には、「山中郷」の時代からの地域地域のまとまりが、とても強かった。そして、戦後開拓もあった。
「飯舘村として」のまとまりよりも、「開拓地単位」といってもいいような、より小規模なまとまりがとても強かったのです。後に、時として村の中心施設をどこに作るかについて、喧々諤々とした論争になったこともありますが、次に述べるように、1970年代以降に、その「地域自治のちから」は発揮されました。
【解説】
飯舘村の戦後開拓を担われた農家の方々に頭の下がる思いです。
獅子風蓮