獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その15)

2024-04-05 01:41:34 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
■4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
細谷千博教授は、ワシントン体制の特質を、①日米英3大国の協調システム、②3大国の中国支配・従属システム、③革命国ソビエトの排除システムと規定し、しかも同体制が「中国民族運動への対応」と「日本の要求する満蒙権益問題の処理」を曖昧化していたため、1920年代に、(1)ソビエト革命外交、 (2)中国ナショナリズム、(3)日本の軍部・右翼を中心とする反ワシントン体制派の相次ぐ挑戦を受け、満州事変の勃発によってこの体制は事実上崩壊すると論じている(細谷千博・斎藤真編『ワシントン体制と日米関係』3~39頁)。
翻って湛山は、①の日米英協調体制の確立を高く評価しながらも、②および③は断じて容認できなかった(なお③については経済貿易上の観点から日ソ国交正常化促進論を掲げた。『全集④』第一部Ⅲおよび『全集⑤』第一部Ⅲを参照)。なぜなら、第一に、「日英米の中国支配・従属」という特質は、列国が旧来の植民地形態を残存させており、それは中国の門戸開放原則と矛盾しているからであり、第二に、日本を含む列強が中国ナショナリズムの本質を正当に認識していない以上、中国問題の真の解決にはほど遠かったからである。それどころか日本の在満蒙権益問題に列国があえてメスを入れず、根本的解決を回避したことは、将来に危険をはらむものであった。湛山の見地からすれば、会議後の日本の対中国外交は、前記4原則に加えて、①満蒙利権のほかすべての在華権益の放棄、②不平等条約の破棄、③民族自決主義の尊重とナショナリズム運動への全面的支持、をその要諦としなければならなかった。
では具体的に湛山はどのような対中国論を提起したのか。まず国際政治の中心がイギリスからアメリカへと移ったこと、対中国外交でもアメリカがイギリスに取って代るであろうことを根本的変化と分析し、満蒙開放問題が再び起こって日米関係を揺るがすであろうと予測した(1923年2月24日号社説「外交立直しの根本観念」『全集④』)。また「五・四運動」以降、1920年代を通じて中国ナショナリズム運動が一段と強まり、対外的には国権回収、対内的には国家統一に向けて大きなうねりを生じた際も、湛山の対中国認識に少しも変化がみられなかった。つまり湛山は、彼らの革命運動と民族主義を「支那国民、就中其若い人々の国民的自覚に根ざせる運動」と規定し、終始肯定した。そして将来における中国の国家統一の可能性に触れ、「(その達成は)唯だ此勃興し来れる国民的自覚を代表するに足る英雄に依ってである。 外国の力は如何に巧妙に働かさるるとも、其代りはなさない。残念ながら、我等は其英雄の現るるまで、暫く成行に任せる外はない」と英雄待望論を説いた(6月23日号小評論「支那は何うなる」ほか『全集⑤』)。ちなみに蒋介石による南北統一は、この論説から5年後に実現する。
反面、湛山は北方における軍閥間の抗争を嫌悪し、日本のいわゆる援張政策(張作霖を援助する政策)に反対した。たとえば1924年(大正13)9月に第二次奉直戦争(張作霖の率いる奉天派と直隷派との戦争)が発生した際、「我所謂特殊の権利利益を擁護する為めには、張作霖を倒してはならぬと云うが如き考えが、若し少しでもあるとするなら、支那の動乱は、いつまで経っても治るまい。他の国が、若し孰れかの一派の尻を推しているなら、推させて置くが宜い。支那は所詮支那人の支那だ」との所見を明らかにした(10月4日号時事非時事「卒業証書の販売」ほか『全集⑤』)。
そうした中で、湛山がいわば曙光を見出したのが中国共産党であった。湛山は1923年(同12)に同党が発刊した『対於時局之主張」を、「一読の価値がある」と高く評価し、とくに北洋軍閥と列強の打破のみが中国救済の唯一の道であるとの主張や、外国に頼らず自力に頼り民主的勢力のみが今日の時局を救うとの主張を好評した上で、「中国共産党と云うものは、何れほどの党か知らぬ。併し其説く所には、聴くべき節が多い。……斯様の主張をなすものの支那に存在することは、無視してならぬ」と指摘した(8月4日号小評論「中国共産党」ほか『全集⑤』)。中華人民共和国の成立は四半世紀後であるが、湛山が創立間もない共産党の将来を予見したことは注目に値しよう。
さて同年3月、中国政府が日華条約(いわゆる21ヵ条条約)の廃棄を通告し、日中関係が緊張した。この時日本側では、中国の要求を一顧の価値なしと認め、中国膺懲(ようちょう)論が唱えられた。湛山はこのような日本側の対応について、「此問題は、決して左様に簡単には片付かぬ。之は今後相当長期間、日支間の、或は世界の、懸案として我国を支那を又世界を悩ますのではあるまいか」と論じた。ちなみに大隈内閣によって21カ条要求がなされた際、日本のジャーナリズムでは『新報』一誌が終始反対の論陣を張り、その一連の社説執筆者が湛山であった事実を想起しなければならない。湛山は「多くの人が、一種の熱病に襲れ、理性を失っていた」、「我政府は余りに欲をかき過ぎた、無理を推し過ぎた、其報いが今日来ておる」と当時を回顧した。それゆえ、湛山が中国国民の自尊心を傷つける日華条約の即時廃棄と日本政府の対中国外交の転換を求めたことはいうまでもない(3月31日号~4月28日号社説「所謂対支二十一個条要求の歴史と将来」『全集④』)。
また同年5月、日本政府が「対支文化事務局官制」を発布したことに関して湛山は、わが政府や議会は「此の名前で、支那人の歓心をつろうとしたのであろうが、それは策略としても全然逆の考えである。……対支政策の根本は、先ず支那国民を尊敬するにある……先ず日本人自らの反省こそ肝要だ」(5月12日号小評論「対支文化事業」ほか『全集⑤』)と反対の意思を表明した。ところで国内では1924年(同13)に第二次護憲運動が盛り上がり、6月に加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立し、幣原喜重郎が外相に就任した。折しもアメリカではいわゆる「排日移民法」が成立し、日本世論はこの措置に激昂、対米開戦論さえ唱えられるほど険悪な様相を呈した。湛山は同法の成立に関し、アメリカの姿勢を「大人気」ないと批判しながらも、それ以上に日本の主張がはなはだ利己的であると論じ(4月26日号社説「米国は不遜日本は卑屈」『全集⑤』)て、日本人に反省を求めた。結局幣原は対米協調路線を堅持する必要上、移民問題をあくまでアメリカの内政問題として処理し、事態は漸次鎮静化された。しかし同法が実施されたことはその後の日米関係に暗影を投じ、軍部・右翼などの間で反ワシントン体制の気運を高めた。一方、中国北方では軍閥間の混戦状態が続いていたが、南方では孫文死去後に蒋介石が頭角を現わして国民革命軍総司令に就任し、1926年(同15)7月、国家統一に向けて北伐を開始した。北伐軍は快進撃を続け、揚子江流域に達した同年末から翌27年(昭和2)初め、漢口、 九江のイギリス租界を武力回収して世界を驚かせた。湛山はこの事態を「東洋の国際関係を根本的に変化すべき重大なる事件」と考察すると同時に、事実上既定方針の転換を謳ったイギリス外相の声明(いわゆるクリスマス・メッセージ)を重視した。 そして今回の事件を単に「労農露国(ソ連)の赤化運動」の影響としか理解しない国内世論に対して、「仮令(たとい)如何に露国が宣伝煽動をなすと雖も、支那の民衆にしてそこまで燃上る素地を有せなければ、何うして彼の根強き利権回収が起り得よう。露国の共産主義は、或は南方支那国民運動に多少の油をそそぐ役目はなしたかも知れぬが、併し火は、もともと燃えていた」と反駁した。
それゆえ、「大体に於て幣原外相の現在の対支態度を可」と評価しながらも、「更に一歩進めて、一切旧条約などには拘束せられず、全く白紙の上に改めて新時代の実勢に応じた」対中国外交を展開するよう求めた(2月5日号時評「白紙の上に対支外交を展開せよ」『全集⑤』)。
同様に湛山は、世界に衝撃を与えた3月の南京事件(北伐軍による外国人殺傷事件)に際しても、「国民と国民との交際は永遠にて、支那の混乱は一時である。我国民は深く此点を省慮して悔を将来に残さざるを要する」と論じ(4月16日号時評「支那を侮るべからず」『全集⑤』)、中国への強硬策を唱える日本の世論と大きな相違を示した。もう一つ、この時期に湛山は、「中華民国自身の自覚と発達」によってもはや中国では諸列強が利権を争う余地はなくなった、それどころか列強は以後次第に既得利権を中国側に返還しなければならない時期に入ったとの見解を表明した(2月26日号社説「我国は軍備撤廃の方針を以て進むべし」『全集⑤』)。要するに、中国側の国権回収運動の正当性を認めたばかりでなく、近い将来、列強が中国からの撤退を余儀なくされると予想し、もはや中国をめぐる日米対決の構図が失われたとの判断に達したわけである。その意味で、1927年(同2)春は、湛山の中国認識上の重要な転換点となった。

 


解説
南京事件(北伐軍による外国人殺傷事件)に際しても、「国民と国民との交際は永遠にて、支那の混乱は一時である。我国民は深く此点を省慮して悔を将来に残さざるを要する」と論じ、中国への強硬策を唱える日本の世論と大きな相違を示した。もう一つ、この時期に湛山は、「中華民国自身の自覚と発達」によってもはや中国では諸列強が利権を争う余地はなくなった、それどころか列強は以後次第に既得利権を中国側に返還しなければならない時期に入ったとの見解を表明した

石橋湛山、慧眼というべきでしょう。

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その14)

2024-04-04 01:11:12 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
■3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
大戦後のヨーロッパと東アジアでは旧秩序が払拭され、新秩序が模索されつつあった。アメリカのハーディング (Warren Harding) 新政権は、列強間の軍備拡張競争や日英同盟継続問題とともに、日米間の諸懸案、たとえば山東および満蒙問題、シベリア出兵問題、日本移民問題などの同時解決を目指して、1921年(大正10)夏、関係諸国をワシントンに招請することを決定した。これに対して日本側の反応は否定的であった。政府も軍部もマスメディアもパリ平和会議でわが国が窮地に陥った体験を忘れていなかったからである。そこで政府はアジア・太平洋問題を議題から切り離し、軍縮問題に限定するよう逆提案したが、アメリカ政府が日中両国に対する公平不偏の態度を約束したため、出席を応諾した。結局会議は日米英仏伊五大国のほか中国など計9ヵ国が参加し、同年11月から翌年2月まで討議が行なわれ、中国に関する9カ国条約、太平洋に関する4カ国条約、海軍軍縮に関する5カ国条約など5条約と13決議が採択された。

さて湛山は多くのマスメディアとは対照的に、アジア・太平洋ならびに軍縮会議開催のニュースを朗報と受けとめ、積極的姿勢を示した。7月下旬、彼は早速三浦ともども社内に「太平洋問題研究会」を設置した。この研究会は尾崎行雄らが作った軍備縮小同志会、東京帝大七博士らの国策研究会と同列に位置し、湛山や三浦が日頃懇意とする進歩的な政治家や知識人らを集めており(座長は国民党代議士鈴木梅四郎で、同党の田川大吉郎、植原悦二郎両代議士も参加した)、実質的に湛山が運営に当たった。
ワシントン会議に向けた湛山の基本的考え方は、日本が一切を棄てる覚悟をもって中国と提携することであった。つまり「弱小国に対して、この『取る』態度を一変して、『棄つる』覚悟に改めよ、即ち満州を放棄し、朝鮮台湾に独立を許し、其他支那に樹立している幾多の経済的特権、武装的足懸り等を捨ててしまえ、そして此等弱小国と共に生きよ」(7月30日号社説「支那と提携して太平洋会議に臨むべし」『全集④』)、「大欲を満すが為めに、小欲を棄てよ」(7月23日号社説「一切を棄つるの覚悟」『全集④』)との心構えを必須とした。なぜか。今後は「如何なる国と雖も、新たに異民族又は異国民を併合し支配するが如きことは、到底出来ない相談なるは勿論、過去に於て併合したものも、漸次之を解放し、独立又は自治を与うる外ない」からである(前掲社説「大日本主義の幻想」)。
ではなぜ日中両国はこの会議で提携しなければならないのか。「支那と日本とは、融和し、交驩(こうかん)し、提携するのが、地理上、歴史上、国際関係上順であり自然である。……若し我国が、支那の納得し、信頼し得る如き態度に復(かえ)れば、蓋し等反作用(イクオール・リアクション)の理由により、支那は大に喜んで、固く我国と握手し提携するのが、極て自然」だからである。
では日本が一切を捨て、中国と提携した場合の利益とは何か。
第一に、「(日本が)英米から袋叩きにさるべき理由は全く消滅すると同時に、局面は一転して、印度を領有し、白人濠洲を作り、メキシコを圧迫し、有色人種を虐げ、菲律賓(フィリピン)やグアムを武装して極東を脅威している英米が、遂に詮議せられる位地に立たねばならぬ」(前掲社説「支那と提携して太平洋会議に臨むべし」)。 
第二に、「支那は広い。満蒙は、其広い支那の一局地、而かも、経済的に最も不毛な一局地だ。之を棄つることに依って、若し支那の全土に、自由に活躍し得るならば、差引日本は、莫大な利益を得る」(前掲社説「軍備の意義を論じて日米の関係に及ぶ」)。「台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由解放の政策に出づるならば、其等の国民は決して日本から離るるものではない。彼等は必ず仰いで、日本を盟主とし、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき親密を続くるであろう」(前掲社説 「大日本主義の幻想」)。
ところがわが政府は大局が見えておらず、この覚悟も一向になく、「依然として支那を袖にして、英国に縋り米国と諒解を得ようとしている。何たる事大主義の陋態だろう」(前掲社説「支那と提携して太平洋会議に臨むべし」)と湛山は慨嘆せざるをえなかった。
ワシントン会議に向けた湛山のもう一つの主張、それが軍備撤廃論であった。満州放棄の軍事的論点に示されたとおり、湛山は日本のみならず世界の強国すべての軍拡競争に批判的であった。まず湛山は国防の理解において一般世論と鋭く異なっていた。すなわち湛山は、日本が満州など植民地を確保しなければ国防的に自立できないとの一般的見解を「幻想である」と斥け、他国を侵略する意図もなく、また他国から侵略される恐れもないならば、警察以上の兵力は無用であると論断した。むしろ、中国やシベリアといったわが海外領土をめぐる日米対立こそが戦争勃発の危険性をもたらしていると世論に訴えた。とはいえ、米国は日本の「極東独占政策」を理由に日本と戦闘する意志はなく、ただ中国や極東問題に関与するための軍事力を求めているにすぎず、米国の目的はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)にある、としてその基本姿勢を擁護した。ただし湛山は、バランス・オブ・パワーとは「戦争をするのが目的でないが……ぐずぐず云えば、直ぐにも砲火を開くぞと云う、競合いの状」であり、米国がそのような態度を取るにいたったのは、日本がこの方面を独占しようとしたからであり、根本的原因は日本側にあると指摘した(前掲社説「軍備の意義を論じて日米の関係に及ぶ」)。

ではどうすればよいのか。湛山は善後策として、第一に、日本が全植民地を放棄し、極東独占政策を撤去すること、つまり、中国、シベリアを「我縄張り」とする野心を棄て、満州、台湾、朝鮮、樺太等も「入用でない」という態度に出ることを挙げた。となれば、戦争は絶対に起こらず、わが国が他国から侵略されることも決してない。 「論者は、此等の土地を我領土とし、若しくは我勢力範囲として置くことが、国防上必要だと云うが、実は此等の土地を斯くして置き、若しくは斯くせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。其等は軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。然るに世人は、此原因と結果とを取違えておる」(前掲社説「大日本主義の幻想」)。
第二に、日米両国が軍備を撤廃すべきである。つまり、「米国は、太平洋上に大軍力を備うるの要なく、日本も亦之に対抗する用意を整うる要がない」状態の下に、軍備撤廃を実現すれば、日米の衝突は避けられる。それゆえ湛山は、来るべき海軍軍縮会議で中途半端の制限を決定すれば、単に軍拡競争の時間を幾分か引延ばす程度の効果しかもたらさないと警告した(前掲社説「軍備の意義を論じて日米の関係に及ぶ」)。
そして第三に、日本は英国の「極東の番犬」から脱却し、日米協力して極東の「最大障碍」である英国勢力を排除すべきである。湛山によれば、極東・東南洋における日米の利害は、日米貿易関係が年々増大しているとおり、元来衝突するものではなく、しかも米国が要求する「極東の経済的解放」によって最大の脅威を受けるのは、実は日本ではなく英国であった。日本はただ満蒙の利益を失うだけであるが、英国は広大な中国全土の大半を勢力範囲としているからである。「日本は日英同盟に依り、満蒙乃至北支に勢力を張ることを黙認せらるる代償として、此英国の支那における利益を防衛して」おり、だから日本は「東洋の番犬」といわれ、米国が日本を目の敵にする。したがって、英国勢力こそ極東から除かれるべきであり、この点で日米の利害は一致するのが「本筋」で、衝突するのは「間違いであった。そこで湛山は会議に臨み、「日本は極東開放政策を取りて、米国と手を握れ。……太平洋は、斯くて初めて、永遠に太平なるを得よう」と説き、日英同盟廃止を必然とみなしたのである(前掲社説 「軍備の意義を論じて日米の関係に及ぶ」)。
さて研究会では、湛山が起草した原案について討議を重ねた末、9月に勧告文を作成した。それが「軍備制限並に太平洋及極東問題に関する会議に就ての勧告」である(これは『新報』9月24日号社説として掲載された。『全集④』)。すなわち、会議を「世界に永久平和を確立すべき絶好の機会である」と位置づけ、①国際争因の根本的除去に努むべし、②経済上の機会均等主義を世界的に確立すべし、③経済上の門戸開放を世界的に徹底せしむべし、④支那、シベリア及メキシコ等に対する干渉を絶対に撤去すべし、⑤一切の関係問題を討議すべし、⑥軍備は撤廃の方針を取るべし、との勧告を提示した(本文は省略)。これら6項目は、全文にわたり湛山の多年の主張 が盛り込まれていた。またそれは単に日本全権団への勧告に止まらず、全参加国に向けた勧告の形式を取っている点に特徴があった。そして湛山らはこの勧告文を和英両文の小冊子に作成し、これを9月に国内はもちろん、アメリカ等にも配布した。なおメンバーの田川は、会議視察のために渡米した。

では湛山グループの提言は、どの程度の影響を及ぼしたであろうか。憲政会総裁加藤高明は、「世上或は支那に於て有する特権を悉く還付すべしとなす淡泊なる人あるも、若し斯の如くんば、日本は何の為に支那と戦い、何の為に露西亜と戦ったのであるか」と演説している(10月1日号社説「原氏及加藤子の対華府会議意見を評す」『全集④』)。「淡泊なる人」とは湛山らを指した言葉であったろう。また熱心な軍縮論者の尾崎行雄でさえ、「壮丁百万の血をそそぎ、二〇億の国費を費やした満州を、今日放棄するというごときことは祖先に対して申しわけない」という主張であった。湛山自身、「当時においては、こんな議論は一平和主義者の空論にすぎず、一般には受け付けられなかった」と述懐している(前掲『湛山回想』187~8頁)。
結局会議では「九ヵ国条約」が成立し、中国の主権・独立の尊重、機会均等、門戸開放、内政不干渉の四原則が列国により公認されたとはいえ、日米英三大国は旧来通り中国利権の確保を計り、台頭する中国の排外的民族運動を抑制する態勢を取った。同時に日本は、アメリカの現実的対応もあり、「21ヵ条条約」廃棄を主張する中国側の攻勢を凌いで、満州権益の保持に成功した。つまり湛山の満州放棄の主張は挫折したわけであり、ここにワシントン新体制に対して不満を残すことになる。したがって、九ヵ国条約体制では真の中国問題の解決とはならないと湛山は認識せざるをえなかった。
一方、日英同盟問題と軍縮問題に関しては湛山の予想通りとなった。日本政府は日英同盟の存続を希望していたが、結局米仏両国が加入して事実上日英同盟を葬り去る「四カ国条約」が成立した。湛山が同盟の廃止を肯定したことはいうまでもない(12月10日号小評論「四国協定」ほか『全集④』)。また湛山は、11月12日の会議開幕直後のヒューズ (Charles Hughes) 米国国務長官(議長)が187万8034トンに及ぶ66隻の海軍主力艦の廃棄と、米・英・日3国の海軍保有量を5・5・3の比率に定めようとの大胆な提案を行なうと、「衷心から歓喜」し、そのためわが財政は、年々2億6、7千万円の歳出を減ずると全面的に評価した(11月19日号小評論「財政前途容易」ほか『全集④』)。しかし国論は海軍側の7割保有説へと傾きつつあった。これに対して湛山は、この7割説は「何等確実なる根拠は無い」と反駁し、「日本は仮令七割の 海軍を有するも、断じて米国と戦うことは出来ぬ。否、十に対して十の海軍力を有するも不可能である。果して然らば、何を苦んでか、一割の差を争って、華府(ワシントン)会議を停頓せしめ、我国際的位地を危うするや」と論じ、日本政府と国民の反省を願った(12月3日号社説「海軍七割主張無根拠」『全集④』)。
結局日本側はハワイ以外の軍事要塞化をしないなどの譲歩を米国から得て、対米英六割を規定する「五カ国条約」に1922年(大正11)2月6日、調印した。湛山は、会議が紛糾した「根本原因は、実は我日本にあると思う。米国政府が、彼の大胆な主力艦制限提議をした時に、日本が直ぐ様之を納れ、其気勢を挫かなんだら、ワシントン会議は、もっとトントン拍子に進行し、防備問題にも、斯んな苦情の入る隙は起らなんだに違いない。日本は実にワシントン会議に対し、将来の世界の平和に対し、大なる罪を犯した」と日本の基本姿勢を改めて批判し(1月21日号小評論「防備制限区域」ほか『全集④』)、「我外交の非常な失敗であることが、漸次明白となりつつある。云わぬ事ではなかった。一切を棄つるの大覚悟が欠けていた為めである」と総括的に論評した(1月28日号小評論「陸軍の陸軍改造案」ほか『全集④』)。
他方、国内の軍部・政界・言論界などではワシントン諸条約への反発を深め、1924年(同13)5月に米議会で排日移民法が可決された(7月施行)ことも加わって反英米・反白人感情を潜在化させたが、湛山は彼らとは対角線上に位置しつつ、新体制に批判を強めていく。

 


解説
このように、湛山は、日本が一切を捨て、中国と提携することを説いたのです。
しかし現実には、第二次世界大戦に負け、日本は全ての植民地と権益を失いました。
それでも、戦後の経済成長を遂げることができました。
ただ、日中関係はぎくしゃくしたままで、世界には戦争が無くなっていません。

湛山のいうように、戦争前に、日本が一切を捨て中国と提携していたら、誇り高くお互いを尊敬する両国関係が築かれ、世界の他の国々にも計り知れない恩恵をもたらしたことでしょう。
戦争のない、平和な世界がもたらされていたかもしれません。

それにしても、湛山の見識の鋭さに驚嘆します。

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その13)

2024-04-03 01:59:36 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
■2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


2)満州放棄論
湛山の小日本主義にとって大きな柱の一つ、それが満州放棄論であった。日露戦争以来、日本国民の間では満州を「20億の国帑(国家財産)と10万の英霊が眠る聖域」とみなす特殊な感情が定着し、また「満州は古来満州民族の地であり、漢民族の支配地ではない」とする対中国歴史観ないし民族観があり、さらに日本人の大国意識としての中国蔑視と、政治的分裂と社会的混乱を繰り返す中国の現状認識とが加わって、日本の満州領有を当然視する国内世論が形成されたのであるが、湛山は大正初期以降、中国の革命運動およびナショナリズム(民族主義)運動を終始肯定すると同時に、日本政府・軍部の対中国干渉政策や一般国民の中国軽視の態度を厳しく批判し、満州の全面的放棄を唱え続けたのである。

ただしこの満州放棄も、小日本主義と同様、三浦によってわが国で初めて体系的に主張された。三浦は論説「満州放棄乎軍備拡張乎」(1913年1月5日号~3月15日号)で、第一に政治上、満州の主人は中国であり、日本が政治的に同地を掌握しても一時的にすぎない。第二に経済上、とくに満州の経済的発展を促進するだけの理由がなく、このためにわが国の経済的財政的負担を増す。第三に国防上、満州掌握の政策はそれだけに止まらず、中国分割政策の「階梯」となり、それは中国大陸に欧米列強の勢力を誘致する結果、日本の国防を危うくする。第四に外交上、満州掌握ないし大陸発展政策は日英同盟の精神と根本的に合致しない。それゆえ満州を放棄するほかなしと論じた。ただし三浦の主張する満州放棄とは、日本の国防線を長春の北の「鉄嶺線」から「旅順および朝鮮国境」まで後退させるとの意味であり、湛山が唱える植民地全廃論に基づく満州放棄論とは異なっていた。

湛山は上記のような三浦の見解を継承するとともに、自己の民主主義・自由主義・平和主義の思想哲学を加算して、1910年代に一段と体系化された満州放棄論を形成していった。そして1920年代初頭にその満州放棄論(広くは植民地放棄論)は完成段階へと達した。それは(1)政治・外交、(2)経済、(3)人口・移民、(4)軍事、(5)国際関係の諸論点から成っていた。

(1)政治・外交的論点
なぜ満州は政治・外交上放棄されねばならないのか。その一義的理由は満州が中国領土の一部であり、中国人を主権者とする外国の地であるからである。そこには多数の中国人が居住し、農工商などあらゆる営業に従事し、財産を所有している。また諸外国は種々の形で資本を投下し、貿易を行なっている。にもかかわらず、わが国は朝鮮と同様に満州を併合しようとしている。これは「由々敷問題」である。なぜならば、それは中国人および外国人の利益を無視し、全中国の民心を不安に陥れ、反日感情を激化せしめ、諸外国から非難を被ることとなるからである。このような侵略的態度は、一つには日清・日露戦争で勝ち、「己れがと云う増長慢を生じた結果」(1915年4月5日号小評論「対外交の失敗ほか」『全集②』であり、もう一つには「日本の国格を斯くの如く下劣にした……元老、軍閥、官僚、財閥の特権階級」の存在がある。「実際公平に見て、日本ほど公明正大の気の欠けたる国はない、自由平等の精神の乏しき国はない、換言すれば官僚的、軍閥的、非民主的の国はない」(前掲社説「袋叩きの日本」)。
しかし現実に中国内部は分裂し、抗争し、混乱に混乱を重ねているではないか。中国人はいぜん旧弊に堕し、国家の統一独立の気概すら持たないではないか。湛山はこのような日本国民の中国観に反駁する。「支那の革命は成功しえないなどと断ずるは軽率極った事である」(1912年6月25日号社会「労働問題の性質の変化」『全集①』)。日本の明治維新でさえ、その安定に10年を要した。中国は日本の30倍近い面積だから、革命はおいそれとは片付かない(1916年6月25日号小評論「支那の動乱と我が維新」『全集②』)。排日運動についても、「大抵の場合に於て、或る民族の独立統一運動は、先ず排外の形を取って現われる」。それは日本の尊王攘夷運動と同じであり、ゆえに「其根柢は極めて深固強大である」と説いた。しかも「今や支那は……世界の各地に出懸けて新教育を受け、新知識を得て帰来せる多数者が、実際に活動する時代に這入って来たのである。吾輩は此の新支那に注目せんことを邦人に切望する」(1915年11月25日号小評論「支那の産業活動」『全集②』)。
では今後日本はどうすればよいのか。湛山は、気を永く持ち、中国人の政治的希望を第一に尊重し、無理に一方を圧迫したり、他方を支援したりしないこと、諸外国が中国の政争に干渉しようとする場合、わが国はこれを排斥すること(前掲小評論「支那の動乱と我が維新」ほか)、また「功利一点張りで行くことである、我れの利益を根本として一切を思慮し、計画することである。我れの利益を根本とすれば、自然対手の利益を図らねばならぬことになる、対手の感情も尊重せねばならぬことになる。……我等は曖昧な道徳家であってはならぬ、徹底した功利主義者でなければならぬ」(1915年5月25日号社説「先ず功利主義者たれ」『全集①』)。
要するに、日本のみならず世界すべてが植民地を放棄する必然性を湛山は予測した。 「此の際青島も還したい、満州も還したい、旅順も還したい、其の他一切の利権を挙げて還したい、而して同時に世界の列国に向かっても、我が国と同様の態度に出でしめたい、而して支那をして自分の事は自分で一切処理するようにせしめたい。日本の為め、支那の為め、世界の為め、これに越した良策は無い」(前掲小評論「干渉好きな国民」ほか)。このような植民地全廃論の観点から、日本としては満州を一時も早く放棄すべしと主張したのである。

(2)経済的論点
では経済上なぜ満州を放棄すべきか。湛山は当時の日本人の抱く常識、すなわち日本は資源に乏しく領土狭小ゆえに、資源豊かな他国の領土を掠奪併合するほかに国家発展の途はない、との見解を根本から否定した。つまり、植民地を領有しても日本人が期待するほどの利益をもたらしていないと主張した。そしてこの事実を多くの資料や統計を駆使して明示した。たとえば1920年(大正9)の日本の輸出入総額を、朝鮮・台湾・関東州の三植民地と、米国・インド・英国の三国とで比較してみると、三植民地との貿易総額は9億1500万円であるのに対して、米国とは14億3800万円、インドとは5億8700万円、英国とは3億3000万円であり、日本の経済的自立という観点からすれば、三植民地よりも後者三国がはるかに重要であること、しかも三植民地が工業上必要な原料である鉄、石炭、石油、綿花、そのほか米、羊毛にしても十分な供給地でないことを実証した(1921年7月30日号~8月13日号社説「大日本主義の幻想」『全集④』)。こうして湛山は日本人が当然視する植民地必要論を「幻想である」と論断したのである。
では今後日本は中国に対してどのような経済・貿易政策を実施すべきか。湛山は、わが国は急速に中国の「富源」を開発し、中国経済の発達(鉄道、鉱山、油田、治水事業、貨幣・金融等)を促すことであり、そのためには中国全土を「機会均等主義」の下に列強に開放し、欧米先進国民の「無限の資本」と「優秀なる企業力」を最大限に中国に流注せしめ、活動せしめることである、そのような事態が生ずれば、日本の中国貿易はますます増進し、これに刺激されてわが商工業は目覚まし隆興を来すはずである(前掲社説「重て青島領有の不可を論ず」)と提言した。ところが 実際のわが国は排他的な領土主義・門戸閉鎖主義を取り、自由貿易主義と機会均等主義を妨げて いる。それは日本の経済発展の阻害要因となっている。それゆえ満州を含む全植民地の開放が不可欠であると強調した。

(3)人口・移民的論点
ではなぜ人口・移民の観点から満州は不要であるのか。前述のとおり、湛山は「領土狭小・人ロ膨張のわが国にとって、海外移民は人口問題解決上不可欠な手段である」との認識を「謬想」であると指摘した。なぜか。今日では工業が発達し、物資の輸出が活発となり、食料はたとえ国内で生産しなくとも、世界に大市場が控えており、食料の獲得も自由自在であるからである。むしろ湛山は、政府の膨張主義の一環として移民政策が奨励されている点に異議をはさみ、人口過剰に伴う移民必要論を経済的見地から斥けた。
たとえば1918年(同7)と19年(同8)の調査では、外地(台湾・朝鮮・樺太・関東州を含む全満州など)に住む日本人は総計80万人に満たないのに対し、日本の総人口は1905年(明治38)から18年(大正7)までに945万人増加し、現在6000万人を有している。一人でも海外へ送り出せば、それだけ人口問題が解決したといえなくはないが、わずか80万人のために6000万人の幸福を忘れないことが肝要であると論じた(前掲社説「大日本主義の幻想」)。

(4)軍事的論点
では軍事上もしくは国防上、なぜ満州を放棄しなければならないのか。すでに湛山は、世界各国民の利害関係が今や錯綜してきたため、文明国間の戦争が不可能となりつつあるとの戦争認識を示した。しかし現実のわが国は、戦争は儲かるものとの旧来の戦争観に則って膨張政策を取り、満州はじめアジア大陸への支配強化を図っている。それは日中関係を悪化させると同時に、日米対決を深め、日米軍拡競争を生み、ひいては日米戦争の危険をもたらすなど湛山にとっては憂うべき状況であった。
湛山の立場からすれば、軍備を整える必要は、他国を侵略するか、他国に侵略される恐れがあるかの二つの場合以外にはなく、もし他国を侵略する意図もなく、他国から侵略される恐れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに用はないはずであった。「若し(米国その他の国が)我国を侵略する虞れがあるとすれば、そは蓋し我海外領土に対してであろう。……戦争勃発の危険の最も多いのは、寧ろ支那又はシベリヤである。……ここに戦争が起れば、起る」。とすれば、わが国が中国またはシベリヤへの野心を棄て、また満州、台湾、朝鮮、樺太なども不要であるとの態度に出るならば、戦争は絶対に起らない。したがって、わが国が他国から侵略されることも決してない(前掲社説「大日本主義の幻想」)。
要するに、日本が本土以外に領土を保持しなければ、無意味な戦争を防止できるし、軍備費も削減でき、それだけ国家財政に好影響を与える。日本の国防は日本海・太平洋の四囲の海で十分である。したがって満州など植民地を放棄すべしとの見解であった。

(5)国際関係的論点
では国際関係上、なぜ日本は満州を放棄しなければならないのか。それは要するに、日本が国際的孤立を深めているからである。パリ平和会議以後の日本を取り巻く極東情勢は、湛山の眼には一層厳しいものと映った。1920年(同9)1月24日号社説「日米衝突の危険」(『全集③』)で次のように論じた。
「若し思慮ある人に向て、日米間に戦禍を捲起す危険ありやと問えば、大抵一笑に付して問題にせぬであろう。……けれども一度、日米両国の間に支那を取入れて見る時は、両国の関係は、頗る色彩を改めて来る。……支那の独立統一の運動は、先ず此脅威(我国の支那に対する領土的、経済的な帝国主義的野心)に対抗し、其圧迫を掃(はら)い除けることが、一大要件だ。……そこへ米国が這入って来る。均しく支那に於て、経済的に帝国主義的野心を逞しうせんと、多年狙って居た米国が支那の此統一運動の味方として、援助者となって、参加して来る。……若し一朝日支の間に、愈よ火蓋が切られる時は、米国は日本を第二の独逸となし、人類の平和を撹乱する極東の軍国主義を打倒さねばならぬと、公然宣言して、日本討伐軍を起し来りはせぬか」。
しかし日米は戦ってはならない、と湛山は断言する。なぜか。戦争は勝敗に関係なく何らの利益をもたらさないからであり、また経済・貿易上日本にとって米国ほど重要な国はほかにないからである。

では日米戦争を回避する方法とは何か。湛山は、①日米の太平洋上の軍備を撤廃する、②日本は日英同盟を廃止し、イギリスのための「東洋の番犬」から脱却し、極東からイギリス勢力を除く、③日米対立の根幹をなす満州・山東その他の中国利権を日本がすべて放棄し、開放することを提言した(同年5月22日号財界概観「日英同盟」 『全集③』および1921年8月27日号~9月10日号社論「軍備の意義を論じて日米の関係に及ぶ」『全集④』)。それが日米の対立を回避する方途であり、ひいては日本が国際的孤立から脱する手段であると湛山は結論したのである。

以上を要約すれば、第一に、日本が中国に南満州などの植民地や諸種の特権を保持する限り、中国民族の反日感情は消えず、それは両国間の政治・外交・経済・貿易上の阻害要因となる。第二に、満州などの植民地が天然資源や過剰人口の捌け口としては一般に想定されているほどの価値をもたず、また日本は海外領土をもつだけの国内資本に恵まれていない。第三に、植民地領有は軍事支出を増し、国家財政を圧迫し、結局国民生活を悪化させ、さらに無益の戦争を生起させ危険をもたらす。第四に、植民地領有は列国、とくに米国との対立を生み、日本の国際的孤立化をもたらす。そして第五に、民族主義(ナショナリズム)運動の高揚により、植民地の分離独立は将来不可避の運命にある。したがって湛山は満州を放棄するほかなしと結論したわけである。

 


解説

石橋湛山は、このように理路整然と、湛山の「小日本主義」にとって大きな柱の一つ、「満州放棄論」を主張するのでした。

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その12)

2024-04-02 01:31:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
■1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


1)小日本主義
湛山が新報社に入社した1911年(明治44)に中国では辛亥革命が勃発した。そして翌年に清朝は崩壊し、中華民国が誕生したが、以降、1928年(昭和3)に蒋介石による北伐の完成でようやく国家統一が達成されるまで、国内は南北分裂、軍閥戦争、列強の侵略、ナショナリズムの高揚など政治的、経済的、社会的混乱が続き、この間日中関係も揺れに揺れた。

さて『新報』は革命前夜の1910年(明治43)、従来の中国軽視の態度に代わり、中国人の秀れた資質を強調し、その覚醒のあかつきには「歴史上未曾有の強国ならん」と予測して、「常に大なる同情と大なる嘱望の態度を以て之に対せん」との見解を明らかにした。したがって革命時にはこれを明治維新に匹敵する革命とみなし、徹底不干渉と民族自決の尊重を主張した。このような『新報』の対中国論調の変化は、『大阪朝日』『太陽』『日本及日本人』など当時の代表的ジャーナリズムに先駆けた画期的なものであり、『新報』の言論史上一つの重要なターニング・ポイントでもあった(山本四郎「中国問題論」)。以降『新報』は「中国革命肯定論」と「小日本主義」を立論の基礎にすえ、大正デモクラシーの潮流の中で特異な位置を占めることになった。若き湛山は、この新しい路線を継承・発展させる役割を担っていったのである。

では小日本主義とは何か。およそ一国の対外戦略をめぐる政争は、古今東西を問わず、枚挙にいとまがない。その典型的事例が、自国の勢力範囲を拡張すべきか縮小すべきかという、量的ないし質的規模に関する二者択一的な論争である。たとえば19世紀後半のイギリスでは、「大英国主義 (Large Englandism)」か 「小英国主義 (Little Englandism)」かをめぐる大論争が展開された。また普仏戦争前のドイツでは、「大ドイツ主義 (Grosdeutsche Bewegung)」か「小ドイツ主義 (Kleindeutsche Bewegung)」かの論議が激化し、プロイセンの勝利後に後者が選択された。そのほかアメリカにおける「孤立主義」か「国際主義」かの論争も、対外発展の国家的在り方をめぐる対立であった。
翻って近代の日本社会では、欧米諸国にみられた「大国主義」か「小国主義」かの一大論争は生じなかった。つまり日露戦争後から太平洋戦争終結まで、日本政府の大国主義的な対外膨張政策が自明とされ、最終的には大東亜共栄圏というかつてないアウタルキー(自給自足経済)的広領域を日本の勢力範囲としたのである。いわば対外発展と自国の膨張とが同義とされ、日本のアジア盟主化こそが取りも直さずアジアに平和と安定をもたらすとの独善的解釈がまかり通ったのである。

とはいえ日本近代史の表層上に、「大日本主義」へのアンチテーゼとして「小日本主義」がわずかに顔を覗かせていた。それは三つのイデオロギー的系譜より成っていた。第一は幸徳秋水に代表される社会主義者の一群、第二は内村鑑三らのキリスト教者たち、第三は『新報』の三浦銕太郎や湛山など自由主義者のグループである(中野好夫「小国主義の系譜」)。

第一および第二の系譜はひとまず置き、第三の思想的系譜について触れたい。
新報社の骨格を作り上げた天野は、既述のとおり明治期における三大経済学者のひとりと称され、とくにミルの経済思想を継承するとともに、その思想を日本に生かすことに尽力した人物であった。ミルの思想上の母体はアダム・スミス (Adam Smith) であり、彼は自由放任経済論と反帝国主義とを初めて明確に結びつけ、植民地放棄の必要を唱えた人物として、マンチェスター学派から「小英国主義」の開祖とみなされる。のちに同学派はこのスミスの理論を発展させ、「本国の過剰人口のはけ口としての植民地の現実的価値」を否定することにより、小英国主義を確立する(川田侃著『帝国主義と権力政治』39頁)。
『新報』は天野を介してスミス並びにミルの思想をその言論上にコピー化するわけであるが、対外政策面で具体的に小英国主義を小日本主義に転化したのが天野の弟子である三浦銕太郎であった。三浦はいぜん無名に等しいが、吉野作造の民本主義の直接の先行者に位置づけられる人物である(松尾尊瓮「急進的自由主義の成立過程」)。三浦は1912年(大正元)9月植松に代わり第四代主幹に就任すると、『新報』の言論を帝国主義反対へと導き、小日本主義を提唱した。すなわち論説「大日本主義乎小日本主義乎」(1913年4月15日号~6月15日号)で、大日本主義が軍力と征服とを優先して商工業を後にする「大軍備主義」であるのに対して、小日本主義は 「小英国主義」であり、領土拡張や保護政策に反対し、主として内治改善と個人の自由および活動力の増進により国民福祉を増進させる主義であると定義して、大日本主義を斥け、小日本主義を礼賛した。
この三浦が後継者として育成したのが湛山にほかならなかった。

湛山は新報社入社以前にすでに民主主義(当時は民衆主義とか主民主義とか呼ばれた)思想を体現していた。リンカーン米大統領 (Abraham Lincoln) の唱えた「人民の、人民による、人民のための政治」が民主政治の原理 であるとすれば、吉野作造ら民本主義者が「人民の、人民のための政治」を肯定しながらも「人民による政治」に懐疑的であったのに比較して、三浦、湛山ら民主主義者はこれら三つの政治を等しく唱えた点で画期的であった。この近代的精神をもって、湛山は藩閥・軍閥政治に反対し、憲法ならびに議会主体の立憲政治を主張する一方、帝国主義・保護主義に代わる平和主義・自由主義を掲げたわけである。湛山が小日本主義、すなわち日本の主権的領土を旧来の主要四島に限定し、経済合理主義と国際協調主義に立脚した平和的発展論を唱えたのは新報社入社以後であり、その点で三浦の湛山に対する影響は色濃いが、湛山は第二章で論じたとおり、1910年代に三浦の小日本主義をその独自の先進的思想哲学をもって精練し、近代化していったのである。

 

 


解説
近代の日本社会では、欧米諸国にみられた「大国主義」か「小国主義」かの一大論争は生じなかった。つまり日露戦争後から太平洋戦争終結まで、日本政府の大国主義的な対外膨張政策が自明とされ、最終的には大東亜共栄圏というかつてないアウタルキー(自給自足経済)的広領域を日本の勢力範囲としたのである。いわば対外発展と自国の膨張とが同義とされ、日本のアジア盟主化こそが取りも直さずアジアに平和と安定をもたらすとの独善的解釈がまかり通ったのである。

こういう時代に、帝国主義に自由主義の立場で反対したのが石橋湛山らのグループだったのですね。
勉強になりました。

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その9

2024-04-01 01:35:27 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF9-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その9)
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年4月1日 投稿


【フレコンの中身は“ふるさと”】

佐藤健太さん――。
父親とともに、村で小さな工場を営み、村の商工会の青年部長でした。震災のときは、まだ20代。震災以後、かなり高線量にも関わらず、避難が行われなかった状況に疑問を抱き、SNSで、全国、全世界と繋がり(例えば、BBCが佐藤さんの投稿を放送、大きな反響となった)、やがて、それが村を動かし、やっと4月22日に、飯舘村全村が「計画的避難区域」となったのです。

しかし、一ヶ月以上も、高線量のなかに留め置かれた不安は大きく、佐藤さんたちは、「愛する飯舘村を還せプロジェクト 負げねど飯舘!!」(以下、「負げねど飯舘!!」)を作ります。
「負げねど飯舘!!」は、さまざまな活動をしましたが、「健康生活手帳行動記録」を19歳以上の村民全員に無料配布は特筆されるべきでしょう(費用は「負げねど飯舘!!」に寄せられた全国からの寄付、また18歳以下は「負げねど飯舘!!」が村に提案し、村から「までいなからだ健康手帳」が配布)。

手帳は、日記形式で、どこにいたかを記録していく、記憶の手助けになるように、毎日毎日の村での出来事が詳細に記録されています。放射線被爆についての専門知識も掲載され、またさまざま領収書などの書類を貼れるようにもなっています。
それから、御高齢のかたでも開きやすく、勝手に閉じないよう、バインダー方式になっています。

当事者なら不安になる、気になることへの、こまやかな配慮がなされて、佐藤さんから見せていただいたとき、その配慮にとても驚きました。

(写真:健康生活手帳 行動記録)

*佐藤さんは、昨年の村会議員選挙で当選。今は、 村会議員としても活躍されています。

佐藤さんの話――
「5センチの深さにはぎ取った表土の代わりに、山の砂を入れる。ぱっと見たところきれいな明るい砂地のように見えているところがそこらじゅうにありますよね。あれが、除染跡です。
でも、あれは田畑ではないんです。開拓して、長年かかって土地を育ててきた。その土地がはぎ取られたあとなんです。そして、そのはぎ取られた土を入れた黒いフレコンバッグの中身が、開拓以来の農家によって作られた『ふるさと』なんです」

表土をはぎ取ったあとのことについて、思いだしていただきたいのは「石」のことです。
飯舘村の開拓は「石との闘い」でした。表土をはぎ取ったあとの、田畑、特に、牧草地は石だらけの層が、再び、現われてしまったのです。また、開拓当初に戻ったのです。

また、除染あとに「地力回復」の耕うんも行われたはずなのですが、その耕うん作業を行ったのは、農業専門の業者ではなく、建設業者。根切りや土砕きなどの、農業用の耕うんではなく、建設用の整地そのもののやり方だったのです。

「待ってる時間と費用は無駄だったかも。私たちが、また0から耕し直しだね」。ある農家さんのつぶやきです。

黒いフレコンの中身は、ゴミではないのです。半世紀以上もかけて、耕され、育ててきた住民の宝だったものなのです。森を開き、石だらけの固い土から作り育て続け、子々孫々まで残したいと夢見た「故郷」そのものなのです。

ここを離れるということは、単なる「引っ越し」ではありません。村への思いは単なる「郷愁」ではありません。自分たちの、また仲間たちの、先人たちの苦労の歴史を捨てる、ということなのです。

佐藤健太さんは、これから何年、いや何十年とかかる、村の未来の復興のことを考えると、絶望的な思いに何度もかられたと言います。でも、そのたびに思い出し、前進の糧にするのは、飯舘村の大先輩のことばです。

「わしらには、『一代飛ばし』ということばがある。開拓は、子の時代までには間に合わないだろう、だから孫の時代までの尺度で、結果が出ればいい。焦る必要なない。林業なんて、100年後にならないと木はできない。二代飛ばしだよ」

松川仮設でも、「わしらが一代飛ばしでがんばる。開拓の決死隊だ。孫たちが大きくなったら、その時、帰ってきたらいい」と仰るかたが多くいらっしゃいました。
開拓農業や林業は、努力の成果が現われるのは、自分の代ではなく、孫子(まごこ)の時代なのでしょう。その思いで、今までがんばってこられたのでしょう。その長期的なスケール、そしてそれを現実にする、倦まずたゆまずの努力。今、「性急さ」に追い立てられる私たちの社会には、もっとも必要なものです。学ぶものは、とても大きい。

でも、それを美談で終わらせてはいけないと思います。

現実の飯舘村や浪江町、葛尾村の「今」について、私たちは、その思いや行動を傍観するだけでいいのでしょうか?
「もう終わったもの」と、視野から消していいのでしょうか?

佐藤健太さんは「とにかく、飯舘村に来て欲しい。来て見て知って欲しい。そして、そこで感じたことを、自分の住む場所で、なんらかの形で、実践して、社会を変えていって欲しい」と、語っていらっしゃいます。

仮設住宅で、たまたまお昼ご飯をご馳走になっていたとき、同じ仮設のご近所さんが訪ねてこられました。いろんな、世間話のなかで、こんな話がありました。

震災後あちこちの大学の学生とか、役所らしき人(誰が何だか分がらね!)アンケート調査に来て、いつも同じような質問で、答えることが煩わしかった。
自分たちが「実験動物」みたいで、いやだった。
どうしても、役者みたいに被災者を演じる答えを書いてしまう。
相手が書いて欲しい答えを書くんだよな。

 

戦後、岩手県の農村に、自分たちの生活を自分たちの手で、記録していこうという活動が生まれ、活発に展開していきました。
その活動の先駆者であり、リーダーだった大牟羅良さんは、著書『ものいわぬ農民』のなかで、うわべだけの調査や取材では、「ものいわぬ農民」と見える人たちが、炉辺の雑談のなかで、大声ではなく淡々とですが、とても饒舌に本音を語ってくれる経験を、なんども記しています。

「『これはお上(かみ)の調べでがんすか、アメリカさんの命令だべすか?なじょに書けばよがすべ?』と相談を受けたことがあります」「統計の中には、現実に生きている農村や農民の姿とは、縁もゆかりもない数字が出ていることがあるような気がしてならないのです」(大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書)

数字だらけの統計やクリシェ(決まり文句)を繰り返すニュースなどでは、分からないことがたくさんあります。
佐藤健太さんが切望しているように、是非、「その場」に足を運んで欲しいと思います。

膨大な人々の「炉辺の声」を記録してきた民俗学の巨人、宮本常一はこう語っています。

「一般大衆は声をたてたがらない。だからいつも見すごされ、見おとされる。しかし見おとしてはいけないのである。記録をもっていないから、また事件がないからといって、平穏無事だったのではない。孜々(しし)営々として働き、その爪跡は文字にのこさなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、そのほかあらゆるものに刻みつけられている。
人手の加わらない自然は、それが雄大であってもさびしいものである。しかし人手の加わった自然には、どこかあたたかさがありなつかしさがある。わたしは自然に加えた人間の愛情の中から、庶民の歴史をかぎわけたいと思っている」
――宮本常一「庶民の風土記を」(『風土記日本』第二巻月報)

営々と、石だらけの土地に刻みつけられた豊かな人々の営み、数多(あまた)の無念さを内封した豊かな歴史を、かぎわけたいと思っていま す。

だから、また、飯舘村に行ってこようと思います。浪江町にも。飯舘村は、もう村内で宿泊できるので、村営施設か、知り合いの家に泊まってこようと思っています。


(写真:飯舘村の春 一昨年、4月15日)

(写真:飯舘村の春 一昨年、4月15日)

 


解説
黒いフレコンの中身は、ゴミではないのです。半世紀以上もかけて、耕され、育ててきた住民の宝だったものなのです。森を開き、石だらけの固い土から作り育て続け、子々孫々まで残したいと夢見た「故郷」そのものなのです。

ハッとする指摘です。


「わしらには、『一代飛ばし』ということばがある。開拓は、子の時代までには間に合わないだろう、だから孫の時代までの尺度で、結果が出ればいい。焦る必要なない。林業なんて、100年後にならないと木はできない。二代飛ばしだよ」

松川仮設でも、「わしらが一代飛ばしでがんばる。開拓の決死隊だ。孫たちが大きくなったら、その時、帰ってきたらいい」と仰るかたが多くいらっしゃいました。
開拓農業や林業は、努力の成果が現われるのは、自分の代ではなく、孫子(まごこ)の時代なのでしょう。その思いで、今までがんばってこられたのでしょう。その長期的なスケール、そしてそれを現実にする、倦まずたゆまずの努力。今、「性急さ」に追い立てられる私たちの社会には、もっとも必要なものです。学ぶものは、とても大きい。

共感します。

いろいろ学ぶところの多いレポートでした。
このシリーズは、ひとまず終了します。

 

獅子風蓮