獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『脳外科医 竹田くん』の恐怖 その3)

2024-04-10 01:09:44 | 犯罪、社会、その他のできごと

マンガ『脳外科医 竹田くん』について、別の雑誌も取り上げていました。

d-マガジンから引用します。

 


週刊現代2024年3月9日号

戰慄スクープ
大阪・兵庫 連続医療ミス事件
疑惑の脳外科医の正体
ネット上で話題になった、医療界騒然のマンガ『脳外科医 竹田くん』。
主人公は口だけうまく、やたらと手術をしたがるが、手術はミス続き。
そのモデルになった医師本人が初めて口を開いた――

 

「脳外科医 竹田くん」 より、
Xさんの母の手術をモデルとした場面

 

 

なぜあの人が担当に

〈四肢麻痺〉〈重度の聴力障害〉〈穿孔に起因する頭蓋内出血〉〈死亡退院〉
手術やカテーテル治療で失敗を重ね、こうした取り返しのつかない事態を招きながらも、開き直って周囲を振り回す外科医を描いたマンガ『脳外科医 竹田くん』が、医療界で波紋を広げていることをご存じだろうか。
'23年1月からブログ上で連載を始め、同7月まで更新されていたこのマンガは、早くから「ある実在の医師」をモデルにしているのではないか、と指摘されていた。それ が、'19年7月から'21年8月まで兵庫県の赤穂市民病院に勤務していた脳外科医のA医師(40代・男 性)である。
同病院の脳神経外科では、A医師が着任してわずか半年あまりで8件の 医療事故が発生、3名の患者が亡くなった。市と同病院は原因などの検証を行ったものの、A医師が病院を去ったこともあり、地元では早くも事件は風化しつつあった。
ところが今年2月、事態は急展開を見せる。赤穂を離れたA医師が、その後勤務していた医誠会病院(大阪市、現・医誠会国際総合病院)でも医療事故にかかわり、搬送された男性を死亡させた疑いがあるとして、遺族から提訴されたのだ。
この遺族が語る。
「大病院で治療を受けられると安心していたのに、A医師は苦しむ父に診察も、必要な処置もしなかったのです。父を担当したのが、赤穂で複数の医療事故に絡んで追及されている医師だったことは後から知りましたが、医誠会病院はなぜそんな人を救急の医長にしていたのかと、やりきれない思いです」
今回、本誌はA医師を訴えた二組の患者家族と複数の赤穂市民病院関係者、さらにA医師本人からも話を聞いた。そこから見えるのは、医療ミスが疑われても十分に検証も反省もされない、医療界の「闇」だった――。


ドリルに神経が巻き付いて

「私は、A先生には医師をやめていただきたいと思っています。母が重い後遺障害を負ったにもかかわらず、先生の言動からは思いやりが感じられませんでした。非常に、自己中心的なお考えをお持ちだと思いました」
こう吐露するのは、兵庫県に住むXさん(50代・女性)である。4年前、Xさんの母(当時74歳)はA医師の執刀する手術のあと、下半身が麻痺する重い障害を負った。以下、Xさんの証言と裁判資料をもとに、その主張を追っていこう。
きっかけは'19年末、Xさんの母がひどい腰痛を訴えたことだった。
「母はかかりつけ医の紹介で、赤穂市民病院に行くことになりました。診察したA医師は、年明けすぐに検査入院するよう勧めてきました」(Xさん)
検査は1月6~8日に行われた。同17日に結果を聞きに出向いたXさんに対して、A医師はこう滔々と述べたという。
「お母さまは重度の脊柱管狭窄症なので、早く手術したほうがいい。20日に入院、22日に手術でいかがですか」「早く手術しないと、人工透析になる可能性があります」
あまりに急な提案にXさんは戸惑ったが、A医師の勢いに押されて承諾した。そして提案どおり、1月22日の朝9時ごろからA医師と、その上司で診療科長のB医師の執刀により手術が行われることとなった。
Xさんの母が受けたのは、「腰椎後方除圧術」という手術だ。脊柱管狭窄症では、背骨が中に通っている神経を圧迫して痛みが生じる。背骨の一部を削り取って圧迫をなくすのが「除圧術」である。
「当日の朝、A先生は病室にやってきて、母に笑顔で『退院する頃にはスタスタ歩いて帰れますからね!』と声をかけてくれました。そのときは、とても頼もしい先生だと思いました」(Xさん)
手術ではA医師が主に執刀し、ベテランのB医師が助手を務める予定だった。ところが、のちにXさんがB医師から聞いたところによると、手術が始まったとたん、A医師は「この手術は初めてなので自信がない」などと言い出した。そのため、2ヵ所あった患部のひとつをまずB医師が執刀して手本を見せ、A医師に引き継いだという。
それからほどなく、悲劇は起きた。A医師がドリルで骨を切削していたとき、刃が脊髄の一部を巻き込んでしまったのだ。裁判にあたってXさんが入手した手術中の映像には、刃先に白っぽい神経が絡みつく痛ましいようすが映っている。
「手術は昼すぎには終わると聞かされていましたが、ミスの処理のためか、母が病棟へ戻ってきたのは19時半すぎでした。病院側から、何が起きているのか説明は全くありませんでした」(Xさん)
手術を終えて出てきた A医師は憔悴していた。別室へXさんを連れてゆき、説明を始める。 「手術中に問題が起こりました。ドリルの先端が硬膜(脊髄を覆う膜)に 当たってしまい、神経が飛び出したので、もとに戻したのです。現段階では神経が切れたかどうか、後遺障害が残るかどうかわかりません」
だが、実は手術終了直後から、Xさんの母は「足が動かない」と訴えていた。しかも、後日開示されたカルテには、A医師自身がこう記している。 
〈硬膜損傷後1時間ほどしてMEP(注・手足の筋肉が動くときに神経に流れる電流)が消失した〉〈術後、右足関節の動きが低下。 右下腿末梢部以遠の感覚脱失していた〉
A医師がXさんに伝えたのは、控えめに言っても「希望的観測」としか言えない説明だったのだ。
この手術の後、Xさんの母は両足に重度の麻痺が残り、自力での排尿・排便も難しくなったほか、断続的に続く神経性の激痛にも苦しめられるようになってしまった。
Xさんはしばらく「リハビリをすればよくなる可能性はある」と語るA医師を信じていたが、日に日に弱る母を見ると、とても回復するとは思えない。その後の説明会でA医師が「もともとかなり神経が傷んでいたわけだから、(障害を負ったのは)手術とは関係ない」などと言うのを耳にして、不信感を募らせていった。
A医師への信頼が決定的に崩れたのは、手術から3ヵ月あまりが経った、'20年5月初めのことだったという。
「当時、A先生に母の退院を勧められていたのですが、動けなくなった母を介護するには準備も必要です。それなのにA先生は『うちの看護師には、面倒な患者(Xさんの母のこと)の世話をさせて申し訳ないと思っている。早く退院してほしいという気持ちもある』と言い 放ったのです」(Xさん)

(つづく)


解説

Xさんのお母さんの手術のことは、マンガ『脳外科医 竹田くん』でも詳しく書かれていました。

Xさんの発言と合わせて考えると、あのマンガは、ほとんど事実ではないかと思われます。

それにしても、経験もなく自信もないのに、脊椎を削る危ない手術をするとは……。

それをしくじり、神経の束をドリルで巻き込むとは……。

そして、後遺症の残った患者を、転院させ、自分の責任をなかったことにしようとするなど、ひどい医者にもほどがありますね。

 


獅子風蓮


『脳外科医 竹田くん』の恐怖 その2)

2024-04-09 01:42:39 | 犯罪、社会、その他のできごと

ブログで『脳外科医 竹田くん』という4コマ漫画の連載があるそうです。

私は、d-マガジンのこの記事で読んではじめて知りました。

引用します。

 


FLASH 3月12日号

医療事故を8件起こした「赤穂市民病院」
漫画『脳外科医 竹田くん』モデルの脳外科医が
転職先でも“裁判沙汰”報道――

現役医師たちの衝撃座談会 「こんな医師が〝ヤブい〟」!
手術ミス連発であだ名は“殺人鬼”
あなたの主治医も「竹田くん」かも!

(つづきです)

重大な医療ミスを連発しても、なぜ男性医師は白衣を着続けられていたのか。現役医師が衝撃の実態を語った!

医師A(都内の総合病院内科に勤務)「どうやって医師になったんだ?」みたいな人はいますよね。「竹田くん」は、ウェブで連載が始まってすぐ、医療関係者の間で話題になりました。似たような医師が、みんな一人は思い当たるんじゃないでしょうか。

医師B(全国展開する大手病院外科に勤務)私が知っている“竹田くん”は、胃がんの手術のときに腹腔動脈を根元から切ってしまい、術後に胆管が腐った患者さんを、死亡させてしまいました。

医師A うわ……絶対に切ってはいけない箇所ですし、内臓血管でいちばん太い血管ですから、あり得ないですよね。

医師B ええ(苦笑)。運よくというか、そのときの患者さんの家族は、彼の説明に納得し、訴訟にはなりませんでした。しかし、ほかの医師は「マジか……」とドン引きしていました。当時、彼は40代で、医師になってすでに15、16年はたっていたと思いますが、本当にヤバかったです。

医師C(東京近郊で内科外科クリニックを開業)僕が勤務していた総合病院では、気管にチューブを挿入する際に肺に穴を開けてしまい、患者さんは術後に人工呼吸器を一度も外すことができないまま亡くなったケースがありました。しかも、執刀した医師が患者の様子を診るのが当たり前なのに、その中堅医師は、外科志望の研修医に診察をまかせていたんです。


心電図で縦一列に“クリリン貼り”

医師A 漫画の『竹田くん』では逆に、研修医がやることになっていたカテーテルを竹田くんが横取りして、患者の容体を悪化させていましたね。検証委員会の報告書では、技術が未熟すぎて病院長から「手術をしてはいけない」と禁止されていたのに、本人は手術が大好きという……。

医師C どっちが迷惑なんでしょうね。僕の勤務先のケースでは、遺族はさすがに納得がいかなかったようで、看護師に「おかしくないですか?」と詰め寄っていました。看護師たちは、裏でその医師に“殺人鬼”とあだ名をつけていましたよ。

医師B 今なら“竹田くん”というあだ名になっているかもしれませんね。

医師C 本当ですよね。そのときは、訴えるには知識や証拠が足りず、遺族は泣き寝入りしたようです。

医師A 手術だけではなく、診察や検査でも医師の資質が問われるケースはありますよね。心電図の読解は、専門とする科にかかわらず、臨床に必要な知識ですよね。

医師B 大きな病院だと、心電図は検査技師さんにまかせがちで、あんまりふれる機会がないんですけどね。

医師A まかせるぶんにはいいんですよ。心電図検査では、電極を貼る位置が重要ですよね。とくに胸部誘導は、電極の位置が一肋間ずれるだけで、記録される波形が大きく異なってしまいます。ところが、ある医師はいつも一直線に電極を貼っているのが話題になって……。“クリリン貼り”とネタにされて、けっこう噂になっていましたよ。

医師B ? ああ、たしかにあの額にある点みたいですね(笑)。私の所属する病院は、人数が多いぶん、一定数はヤバい医師がいるんですよ。グループの病院のひとつで、手術がすごく下手なのに、執刀を黙認されていた医師がいたんです。

医師C 『竹田くん』では、臨床工学技士が“殺人行為に加担したくない”と、手術への参加を拒否していましたよね。どうして、その先生は不問に付されていたのですか?

医師B その医師が担当するのは、みんなもう手の施しようがなく、ほかの病院でも「手術はできない」と告げられた患者さんだけなんです。それでも最後の望みに懸ける家族にとって、その医師は“厳しい状態でも手術に挑む名医”なんです。彼は術後、「最善を尽くしました」と言い、患者さんの家族からは感謝されていました。

医師A 病院としては、そういった患者さんを集められれば、儲かりますもんね。

医師B そうなんです。 皆さん、術後はICUに入って、ほどなく亡くなるんですけどね。当然、それらは医療事故や「ヒヤリ・ハット事例」にはカウントされていませんが、助かる見込みの患者さんを手術したら、重大な事態を招いているはずです。

医師C その先生は、今もその病院に所属しているんですか?

医師B その後、依願退職になりました。手術だけではなく、あまりにもミスが多かったんです。今は地方の病院にいるそうですが、さすがに手術はしていないと思います。ちなみに、その医師の後任の先生も、外来の患者に抗がん剤を半年も処方していて、大騒ぎになっていました。

医師C 長期間、毎日飲ませるなんて考えられませんね。でも、僕も過去に数年間、医療過疎地の病院で勤務した経験がありますが、医師不足で指導医のチェックが入らないこともありますからね。さきほど、術後の診察を研修医にまかせていた中堅医師について話しましたが、通常はそんなことはあり得ない。でも、研修後3~5年めくらいの若手医師が、“竹田くん”化していくことは、地方の病院だとあり得る話だと思います。

医師B 私は、離島の病院に勤務した経験があるんですが、その島には名物院長先生がいました。たぶん今も現役だと思いますが、その当時80歳くらいでした。

医師A その先生、知っています。有名ですよね。

医師B 耳が遠くて、補聴器をつけているんですが、その上から聴診器をつけて「おーぉ、問題ないね」とか言って診察しているんです。“ちゃんと聞こえてないだろ!”って内心思っていました(笑)。もともと外科医だったので、傷の診察で攝子(せっし=ピンセット)も使うんですが、手が震えているから、ガーゼとかも落としちゃうという。


逮捕歴があっても医師を続けられる

医師A で結局、看護師さんが処置してる(笑)。でも、そうなっても診察を続けられているのは、まさに医師免許が“プラチナカード”だからですね。

医師B 赤穂市民病院の“竹田くん”も、普通に別の病院で働けていましたしね。逮捕歴があっても同じ。私が知っているだけでも、患者にわいせつ行為をした小児科医や、出会い系サイトで知り合った未成年とわいせつ行為をした形成外科医がいますが、2人とも、逮捕された後も医師を続けていますからね。

医師C わいせつ、多いですよね(溜め息)。話を戻すと、“竹田くん”のような危ない医師を見分ける方法ってありますかね……。'14年に、群馬大学医学部附属病院で、一人の医師による腹腔鏡手術で8人が亡くなっていたことが明らかになったじゃないですか。あのときも、手術をやめさせるよう同僚が進言していたのに、上司である教授が聞き入れなかったんですよね。

医師A 本来、大学病院や今回の“竹田くん”が勤務していた赤穂市民病院は、地域医療の拠点ですからね。こんなことがあった後で言うのは説得力に欠けるかもしれませんが、やはり大学病院や地域の大きな病院のほうが、信頼はできると思います。

医師C 医師が多くいますし、指導医が経験の浅い医師をチェックできる仕組みになっているはずですからね。医療事故って、経験の少ない医師が、事前検査をおろそかにして、いたずらに新しい手技に挑んだりするときに起こりがちですから。

医師B そもそも、手術に出身大学や成績はあまり関連ないと思います。手先の器用さは影響するとは思いますが、手術ロボットを使えれば手ぶれを補正してくれますし、多少下手な医師でも問題はないと思います。

医師C 「専門医」だと安心と思う患者さんは多いかもしれませんが、「外科専門医」の資格を取得しているからといって、手術の腕が保証されたわけではありません。定められた年数の経験と、研修を修了して試験を受ければ、取得できますから。

医師A 専門医のなかにも、「どうして、この場面でそんな動きをするの?」という予想外の行動を取る先生もいますしね。

医師B 車の運転と同じで、どうしても向いていない人がいるんです。一方、「技術認定医」を取得している医師は信頼できると思います。たとえば、日本内視鏡外科学会は、手術を映した動画などをもとに、技量を審査して認定していますから。


“竹田くん”を主治医にしないためにも、まずは病院のホームページで「技術認定医」かどうかを調べてみてはどうだろうか。

 


解説

現役医師たちの話も、恐ろしいですね。

竹田くんのような外科医が、いたるところにいる可能性があるわけです。

とくに、技術の未熟な外科医に身を任せる患者の立場になることを思うと、身の毛がよだつ思いです。

 


獅子風蓮


『脳外科医 竹田くん』の恐怖 その1)

2024-04-08 01:58:22 | 犯罪、社会、その他のできごと

ブログで『脳外科医 竹田くん』という4コマ漫画の連載があるんだそうです。
知っていましたか?

これですね。
脳外科医 竹田くん
あり得ない脳神経外科医 竹田くんの物語


私は、d-マガジンのこの記事で読んではじめて知りました。

引用します。

 


FLASH 3月12日号

医療事故を8件起こした「赤穂市民病院」
漫画『脳外科医 竹田くん』モデルの脳外科医が
転職先でも“裁判沙汰”報道――

現役医師たちの衝撃座談会 「こんな医師が〝ヤブい〟」!
手術ミス連発であだ名は“殺人鬼”
あなたの主治医も「竹田くん」かも!

 

'23年1月に「はてなブログ」で連載が始まった4コマ漫画『脳外科医 竹田くん』。
赤池市という架空の町にある市民病院に赴任してきた竹田くんだが、手術を受けた患者は後遺症に苦しみ、死亡事故も発生する。その描写が、'19年から兵庫県の赤穂市民病院で立て続けに起きた医療事故と酷似している――。
ネット上でそう話題になると、地元紙「赤穂民報」も登場人物の名前や顔立ちも実在する関係者を連想させるものであることを報じた。

 

 

 

軽微な脳腫瘍があった患者が、竹田くんの執刀の後、死亡。赤穂市民病院で'20年2月に起きた医療事故が連想される 『脳外科医 竹田くん』製作委員会

 

今年2月、竹田くんのモデルとされる40代の男性医師が、赤穂市民病院を依願退職後に勤務していた大阪府内の病院でも患者を死亡させ、遺族から民事訴訟を起こされたことを「赤穂民報」が続報。


千種川対岸から赤穂市民病院を望む。'23年10月には、男性医師が上司だった前院長や科長、 赤穂市を提訴するなど、現在も余波は続いている。



(つづく)


解説
この恐怖の脳外科医竹田くんですが、気になったので調べてみました。

脳外科医竹田くん、セカンドシーズン開幕
どんなホラーよりも怖い


赤穂市民病院の広報誌に竹田くんのモデルとなった医師の顔写真と実名が載っています。

 


問題の4コマ漫画を読んでもらうと分かるのですが、この脳外科医竹田くん、とんでもない医者です。
腕はなく手術が下手なくせに、手術をやりたがる。
手術の失敗をなんとかごまかして家族を黙らせ、後遺症の残った患者を転院させる。

なんでこんな医者が医師免許停止処分を受けないのか不思議です。

不思議といえば、赤穂市民病院で脳外科にこの医師を受け入れた脳外科の古荒科長です。
普通なら、温情あふれる後輩思いのいい上司なのですが、竹田くんの手術ミスの尻拭いばかりして、手術をやり続けさせるのです。
結局は、院長から手術禁止のお達しがでるのですが、竹田くんは、手術ミスの責任を古荒科長に被せる作戦をたて、なかば成功してしまうのです。

私は、4コマ漫画を読んで、そら恐ろしく感じました。
竹田くんは確かに異常です。
サイコパスと言っていいでしょう。
すぐに医師免許を剥奪するべきです。

でも、それ以上に問題なのは、そのような医師に手術を続けるのをとめられなかった古荒科長と、病院の管理部門です。
院長・事務長をはじめとする管理部門は、問題が発覚したあとも、事件の隠ぺいをはかったふしがあります。


こういう問題は、日本の他の病院でも起こる可能性は高いです。
必然的に、患者は、そういうハズレの医者に当たることがあるのです。

目の前に問題の医者がいて、患者に不利益を起こす可能性が高いなら、医者の上司や病院の管理部門は、問題を正面から取り上げて、適切に指導すべきでしょう。
問題の医師をやめさせればいいというものではないはずです。

病院をかわった問題医師は、赴任先の病院でまた問題を起こします。

実際に、竹田くんのモデルの医師がそうしたように。

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その17)

2024-04-07 01:07:04 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
■6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論


6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論
張作霖爆殺事件以降、とくに1928年(昭和3)の秋から冬にかけて、国内では「満蒙独立論」が高まり、この問題が日中関係の一大懸案となるや、湛山の言論上の立場はより鮮明となった。もちろん湛山は年来の満州放棄論に立脚した「満蒙放棄論」を唱え、以下のように満蒙独立論者と対決する構えを見せた。
第一に、山本条太郎満鉄社長の「満蒙経済開放論」は田中外交の計画の一環であり、田中外相の計画とは「一種の独立国」を満蒙に作ることである。これは「満蒙併合」という危険な道を踏まずに、事実においてわが国が「併合」と同じ利益を収め、また列国にもその利益を開放することにより国際的非難を免れるという利点がある。なぜ田中内閣が山東出兵をし、南北妥協に苦情をつけ、東三省政府には新借款に応ずる姿勢を示したか、そして今回の満蒙開放論を唱えさせたかの経緯が判明する、と現状を分析した。
第二に、しかしそのような日本政府の方針は、中国側が「決して快しとせぬ」から「到底実現の望みがない」。もし間違ってそれが実現して満蒙が中国から独立することになれば、日本は永遠に中国国民の恨みを買い、列国との関係が悪化する。それゆえ、このような対中国外交を推進する現内閣の存続は危いし、「田中外相の後に如何なる外相が据るとも、右一般の政治家資本家等の頭が変らぬ限り、対支外交は永遠に行詰りを打開することは出来まい」と警告した(9月22日号社説「満鉄社長の満蒙経済開放論」『全集⑥』)。
第三に、大隈内閣の加藤外相以後「累代の外相は大抵面をかぶり、猫撫声を使うて支那に対した」が、わが対中国外交を支配している伝統とは「満州は我国の保護領土だ、支那の完全な統治権下にある領土ではない」との見解や強い感情にほかならない。しかし中国が統一され満蒙がその権力の下に包括せられた今、わが国の対中国外交の伝統は事実上維持できなくなる。強硬論者は満蒙をわが国の手で開放し、中国の統一外に置き、「共和的の新自由国」の樹立を図っているようだが、それは伝統を逐ういわゆる「満蒙特殊地域論」の延長ないし完成にほかならない。これは「帝国主義の出遅れ」であり、「引込みのつかぬ夜明けの幽霊」と同じである(12月1日号社説「対支強硬外交とは何ぞ――危険な満蒙独立論」『全集⑥』)。湛山はこのように軍部や右翼が推進する満蒙独立論の危険性を簡潔に論じ、田中政権のいわゆるサーベル外交を手厳しく批判した。要するに、「満蒙特殊権益」の擁護という点では田中外交も幣原外交も共通しており、ただその「特殊権益」を武力を用いて防衛するか否かの程度に差異があったにすぎないという見方である。換言すれば、満蒙問題はもはや日本側が考えるような「特殊問題」ではなく、しかも中国内部が分裂抗争を繰り返す時期であるならばともかく、全中国の統一が実現した現在、日本の対中国外交の伝統を変換する以外に日中衝突を回避する方途はない。これが湛山の現状分析であった。満蒙独立論などは「恐らく一人として相手にするものはあるまい」(同上)との結論は、湛山の単なる予見にとどまらず、強い願望が込められていたのである。
したがって湛山は、1929年(同4)7月、田中首相兼外相が張作霖爆殺問題の処理をめぐり退陣を余儀なくされたことを当然視する(7月6日号時評「田中内閣倒る」ほか『全集⑦』)一方、幣原外交の再登場について、「幣原外相は田中外相の如き無茶は遣るまい。……併しながら、幣原男も南満に於ける我が既得権益問題に関しては、現状通り支那に尊重せしめる立場を固執し一分一厘も譲るべき道理なしとの見解を取れる点に見て、其の体質は、田中外交と間一髪の相違に過ぎない」と酷評し、中国革命の波が満蒙にも押し寄せており、そのため幣原外交は「益々困難期に入れることを痛感する」との悲観的見通しを明らかにした(7月27日号社説「対支外交は益々困難期に入る」『全集⑦』)。
もはや湛山の眼には日中衝突は時間の問題と映った。ここに軍部の暴走ないし満州事変の予感が示されたといってもよい。ただし以後の2年余の肝心な時期、湛山の言論から満蒙権益放棄論が消える。それは彼が金解禁論争に忙殺されるからである。

 


解説
もはや湛山の眼には日中衝突は時間の問題と映った。ここに軍部の暴走ないし満州事変の予感が示されたといってもよい。

湛山の慧眼には恐れ入るばかりです。

 

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その16)

2024-04-06 01:52:56 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
■5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論


5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
1927年(昭和2)4月、わが国では若槻憲政会内閣が倒れ、代わって田中義一を首班とする政友会内閣が成立した。政友会は野党時代に幣原外交を「軟弱外交」と罵倒し、帝国の威信や利権擁護を叫び、「自主強硬外交」を提唱した。そこで田中新内閣が中国の排外的ナショナリズム運動にいかに積極的に対処するかが大いに注目された。
はたして5月、北伐軍が山東半島に接近すると、田中内閣は在留邦人保護を理由に山東出兵を断行した。湛山は「心ある国民の等しく恐れた所が遂に実現した」と感想を述べ、田中「サーベル外交」への不信の念を強めると同時に、幣原時代の対中国「和親方針」が崩れたことを嘆いた。さらに今回の措置がシベリア出兵の「覆轍(ふくてつ・前回の失敗)を踏むもの」であり、この出兵がわが国民に「大災害をもたらす」と予言した(6月4日号時評「ああ遂に対支出兵」『全集⑤』)。
周知のとおり、6月末に田中内閣は東方会議を開き、対中国方針に関する中央と出先との意思の疎通を図った。そして7月最終日には外相より「対支政策綱領」と題する訓示がなされ、極東の平和確保と日中共栄の実を挙げることをその根幹としながらも、実行方法は中国本土と満蒙では自ら異なるとして、中国本土における政権争奪の内戦には中立的態度で臨むが、満蒙に対しては日本の特殊な地位を尊重し、政情安定を支持および援助するとした。中国側は日本政府がこの会議で満蒙への積極策を決定したものとみなし、「田中メモランダム」と称する怪文書を公表するなど、列強の間に少なからぬ疑惑をもたらした(外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典』611~2ページ)。
実際田中内閣は翌28年(同3)4月、再び開始された大規模な北伐に対処するため第二次出兵を断行した。その結果北伐軍との武力衝突事件(済南事件)が発生し、1万5000の増援部隊派遣を決定せざるをえず、5月、第三次出兵が実施された。湛山はこのような日中間の緊迫した事態に対し、「支那に於ては、内外人を問わず武力を用うるものは、総て反感を買い、斥せられる。この点を、我が国民は深く考えねばならぬ」と訴え、「結局対支政策は好むにせよ好まぬにせよ、放任の外に取るべき方法はない」と持説を繰り返して、即時撤兵を主張した(5月5日号社説「無用なる対支出兵」『全集⑥』)。
こうして山東出兵は日中両軍の衝突という最悪の事態を招いたが、北伐軍は日本軍との戦闘を回避し、北京の張作霖政権打倒を第一義としたため危局は去った。南北両軍の全面対決が間近となった6月、満蒙利権の確保を図る田中政権は、張に対して根拠地東三省への帰還を要求し、最終的に張もこれを受諾した。ところが満蒙の分離独立を目指す河本大作大佐ら関東軍の一部が決起し、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)が発覚する。ここに北伐は完了、蒋介石を首班とする南京政権が誕生した。しかも同年末には満州の新しい支配者張学良のいわゆる易幟(えきし)により、十数年ぶりに全中国の統一が達成されるに至った。
この時期、湛山から初めて中国批判が起こった。それは7月に南京新政権が不平等条約破棄および臨時弁法実施を宣言し、日本に対しても日華通商条約の破棄を一方的に通告した時であった。湛山は、①今回の通告は甚だ遺憾である。②不平等条約改訂は当然の要求であるが、事には順序がある。③中国の不平等条約は一面「列国の飽くなき帝国主義的野心の結果」であるが、他面「其罪の最も大なるものは支那国民自身に存す」。④第一革命以来の国民運動は言葉の立派さに比して実行力なきを証明した。「総て政治は実力(兵力の意味ではない)だ。実力を伴わぬ主張は、何んな立派な主張であっても、空言だ」。⑤新政府は現在北伐に成功したばかりで、その跡始末は何もできていない。「そこに突如として条約破棄、臨時弁法の実施を声明したとて、世界の何国が直ちに之に応じ得よう」。⑥それどころか、中国との通商といった事態となれば、貿易に従事する外国人と同様に中国国民も損害を受ける。したがって、今回の要求は「支那自身として経済的に実行不可能の事柄であって、……折角の南方政府の事業を破綻に導くものである」(7月28日号社説「支那は先ず其実力を養うべし」『全集⑥』)と説いた。
しかしながら湛山の予想ははずれた。7月下旬、アメリカ政府は他国に先駆けて新中国政府と新関税条約を締結し、中国の関税自主権回復を認めたばかりか、11月には蒋介石政権の承認に踏み切ったのである。この劇的な米中接近は、国務長官ケロッグ (Frank B. Kellogg) の判断とその意志を受けた国務次官補ジョンソン (Nelson T. Johnson) の働きが深く関与した(入江昭著『極東新秩序の模索』66頁)。しかも12月にはイギリス、フランスもアメリカに追随したため、日本のみが取り残される結果となった。この新事態に対して湛山は次のように手厳しく論難した。中国国民は「内に自ら実力を養うを計らずして、常に他力に頼って我に利せん」とする「やくざな駄々っ子」であり、アメリカは「支那国民の耳に愉快に聞えそうな声明」を出し、「其駄々を募らせる。而して……其実力の発達を遅滞せしむることは、やがて米国民に取っても決して利益でない」(8月4日号社説「駄々ッ子支那」『全集⑥』)。米中関係の急展開に日本政府と同様、湛山もまた戸惑わざるをえなかったのである。

 

 

 


解説
この時期、湛山から初めて中国批判が起こった。それは7月に南京新政権が不平等条約破棄および臨時弁法実施を宣言し、日本に対しても日華通商条約の破棄を一方的に通告した時であった。

リアリスト湛山は、中国べったりという訳ではなく、理不尽な中国の行動には、堂々と非を唱えていたのですね。

 

獅子風蓮