獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その9

2025-01-23 01:45:21 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 ■日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


日露関係の経緯

小難しい話になって恐縮だが、ここで少し日露関係の経緯について説明しておきたい。
1945年8月、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を侵犯して、日本に戦争を仕掛けてきた。ポツダム宣言を受け入れ、日本は無条件降伏をしたが、法的には平和条約が締結されてはじめて戦争が終わる。平和条約には、戦争状態が終わり、外交関係が再開されることと、領土・国境問題がある場合には、その解決について記されるのが通例である。アメリカ、イギリスなどほとんどの国とは51年のサンフランシスコ平和条約で戦争状態は終結した。ロシア(ソ連)との間には、未だ平和条約が締結されていない。56年の日ソ共同宣言で、両国間の戦争状態は終結し、外交関係が再開された。しかし、領土問題が解決されないので平和条約は締結されなかったのである。その後、ロシアに対して歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島の北方四島が日本領であることを確認して平和条約を締結することが日本の国家目標となった。

北方領土問題の絡みで重要な文書は三つある。
第一は、今述べた56年の日ソ共同宣言(鳩山一郎首相、ブルガーニン首相らが署名)で、ソ連は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことを約束している。しかし、60年にソ連政府は、日本からの全外国軍隊(具体的には米軍)撤退という追加条件を付け、この約束を一方的に反故にしてしまった。共同宣言という名前ではあるが、これは両国国会で批准された国際条約で、法的拘束力をもつ。
第二は、93年の東京宣言(細川護熙首相、エリツィン大統領が署名)で、北方四島の名前を列挙し、四島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結すると約束している。
第三は、2001年のイルクーツク声明(森喜朗首相、プーチン大統領が署名)で、56年の日ソ共同宣言を「平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認」し、同時に東京宣言の内容も確認している。
イルクーツク声明は、戦後の北方領土交渉の成果を最大限に盛り込んだ、日本にとって最も有利な外交文書である。ただし、東京宣言とイルクーツク声明は、重要な政治的合意ではあるが、法的拘束力はもたない。

73年の田中・ブレジネフ会談では、日ソ共同声明が発表され(同年10月10日)、そこには「双方は、第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の解決に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する問題について交渉した」と記されている。
日本側の理解では、「未解決の諸問題」は北方四島問題のことであり、田中角栄がブレジネフ書記長に「未解決の諸問題には北方四島問題が含まれるか」と質(ただ)したところ、ブレジネフは「ヤー・ズナーユ(私は知っている)」と答え、更に田中氏が念押ししたところ、ブレジネフは「ダー(そうだ)」と述べたという。ところがソ連側はブレジネフはそのような確認はしていないという。私自身が聞いた話だが、この時ソ連側通訳をつとめたチジョフ氏(後の駐日大使)は、ある懇談の席で「ブレジネフは領土問題に関して田中角栄があまりに激しい剣幕なので、驚いてウオー、ウオーとうなっただけで、確認などしていない」と述べていた。 
もちろん私は日本側の言うことが歴史的事実だと思う。しかし、外交の世界では、双方が合意した上で文書にきちんと記録したこと以外は「言った、言わない」の水掛け論になった場合、それを解決することは不可能である。田中・ブレジネフ会談以降、日ソ(露)関係は冷え込み、18年後のゴルバチョフ大統領の訪日まで首脳会談は実現しなかった。外相レベルの平和条約交渉ですら10年以上も中断してしまうのである。
いずれにせよ、田中・ブレジネフ会談は冷戦時代の象徴であり、田中女史がこの会談を今後の日露関係の基礎にすると述べたことをロシア側が小泉新政権の対露外交政策の根本的変化と受け止めたことにはそれなりの根拠がある。

 


解説
小難しい話になって恐縮だが、ここで少し日露関係の経緯について説明しておきたい。

鈴木宗男氏と佐藤優氏への国策捜査を検証する上では、少々複雑でも日露関係の経緯を理解することは必須です。

 

獅子風蓮



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