獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『居場所を探して』を読む その11

2024-08-21 01:46:17 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

■第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
 □第1部「福祉との出合い」
 ■第2部「司法と福祉のはざまで」
 ■第3部「あるろうあ者の裁判」
 ■第4部「塀の向こう側」
 ■第5部「見放された人」
 ■第6部「更生への道」
 □第7部「課題」
□第2章 変わる
□おわりに 


第2部「司法と福祉のはざまで」

=2011年9月24日~10月8日掲載=

1)異変
 “逆転勝訴”再び刑猶予――明るくざわめく法廷

諫早市のスーパーで食料品を万引きして窃盗の罪に問われた菊永守(32)=仮名=の控訴審判決が言い渡された。……

菊永には障害がある。診断名を「広汎性発達障害」という。
社会性やコミュニケーションに関する力が低いとされる障害である。
菊永の場合、これまで十分な福祉を受けられる環境に置かれてこなかったことが、犯行を繰り返す人生に陥った背景になっている。……

(以下省略)


第3部「あるろうあ者の裁判」

=2011年12月15日~17日掲載=

1)“旅行”
  社会より安心できる

橋本貞明(64)=仮名=は福岡市で生まれた。両親と弟もろうあ者。
ろう学校を卒業し、塗装関係の仕事をしたこともあるが、20代の前半には、盗みを繰り返すようになった。
犯行を繰り返し計19回、通算で22年余り服役した。

(以下省略)

 


第4部「塀の向こう側」

=2011年12月19日~24日掲載=

1)安住の地
  行き場のない者の砦

取材班が9月に訪れた長崎刑務所は、諫早市小川町の住宅地の一角にある。……
社会に居場所のない障害者や高齢者たちを収容してきた刑務所は、時に「最後の福祉の砦」と呼ばれる。

長期連載「居場所を探して」第4部「塀の向こう側」では、刑務所の実態やそこに身を置く障害者、刑務官たちの思いに迫る。

(以下省略)

 


第5部「見放された人」

=2012年2月2日~16日掲載=

1)福祉と無縁の常習犯

ある日、取材班の会議で、記者の一人が言った。
__置き去りにされたままの障害者を探しだし、福祉につなぐことができないか。
……
ある男の情報が寄せられた。
彼は累犯障害者だった。
男性の名は、宮沢春男(32)=仮名=という。

(以下省略)

 


第6部「更生への道」

=2012年4月7日~17日掲載=

1)鉄道好き
  無賃乗車、さい銭盗へ

物心が付いたころから、浜村昭久(26)=仮名=は鉄道が好きだった。
……

(以下省略)

 

 


解説
興味深い記事が続きますが、割愛させていただきました。
関心のある方は、ぜひ本書をお求めのうえ、読んでください。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その54)

2024-08-20 01:23:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

「清沢君、今度、大蔵大臣になった石渡荘太郎氏に働きかけて、大蔵省の中に『戦時経済特別調査委員会』を設置することになった」
湛山がにんまり笑いながら言うと、清沢はその意図を察して笑顔を返した。
「戦時特別……ですか。そりゃあいい。東条たちに分かったところで、まさか戦後の日本再建案を研究・立案する会合だとは気づきますまい」
「しかし、当面極秘の会合とする。変に右翼だとか、国粋的な軍人に狙われてもたまらないからね。僕の身体は一人じゃあないんだから」
「そう、日本の将来を担う大事な身体です」
「いや……。そういうことじゃあなくて……」
珍しく湛山が言いよどんだ。清沢が察したように声を上げた。
「あっ、そうか。和彦君との……」
「うん、うん。そういうことだ。だから極秘に、ね」
この年の10月から翌年の4月まで、終戦を睨んでの会合は1ヵ月に2、3回、合わせて二十数回開かれた。湛山が実質的な議長役を務め、メンバーは他に、東大教授の荒木光太郎、油本豊吉、大河内一男、東京産業大教授の中山伊知郎、日銀調査部長の井上敏夫、興銀調査部長の工藤昭四郎、正金銀行調査部長の難波勝二、事務局として大蔵省総務局長の山際正道が加わった。
こんな論争が、湛山と中山伊知郎との間で交わされたこともあった。
「あの、カイロ宣言やヤルタ協定ですがね」
カイロ宣言は、昭和18年11月に米英中の三国が「日本の無条件降伏」を要求した宣言である。またヤルタ協定は翌年2月に、クリミア半島のヤルタで開かれたチャーチル(英)、ルーズベルト(米)、スターリン(ソ)の三巨頭会談で成立した協定である。
「日本が朝鮮も台湾も満州もすべてを失って、残された本土の4島だけで果たして国民が生きていけるでしょうか。私は無理だと思います」
「いや、中山さん、それは違います。本土の4つの島だけになったら、それで生活すべきなんですよ」
「石橋さんはそんなことをおっしゃるが、この本土だけでこんなに多くの人口を抱えて食糧はどうするのですか」
「それはやり方ですよ」
「具体的におっしゃってもらわなければ分かりません」
「いいですか、領土について考えてみましょう。領土が大きいということの利益は、その中で思い切った分業が出来るということなんですよ。逆に領土が小さくて分業が出来ずに困るのは食糧の生産だけです」
「そうでしょう? だから……」
「まあ、聞いてください。その食糧生産の問題だけ克服できればですよ、今度は領土を広く持っているためにかかる費用が少なくなるのですよ」
「例えば台湾や朝鮮を持っていることは、大きな費用負担をしていることになるんです。だからヤルタ協定でもカイロ宣言でも、そうした負担を免れると考えれば、これは日本にとって大きな利益になりませんか?」
「何か詭弁ではありませんか。手品のようだ」
「違います。これは私が駆け出しの頃から、『東洋経済新報』の社論でもありました小日本主義の応用なんですよ」
「小日本主義……」
「今まで植民地にしていた国を解放することで、その国も国民も喜ぶし、日本は負担してきた費用から逃れられるではありませんか。つまりそれが利益です。その利益分のひとつを外国との貿易に使い、またひとつを国内の産業の活性化、開発に使えばいいんです。そうすれば、こんな小さな国であっても、やがて世界の経済大国として堂々とやっていけるようになりますよ。小さな領土で、大きな利益を生むのです」
中山は遂に圧倒された。他のメンバーも二人のやりとりを聞いていたが、敗戦必死の情勢の中で、湛山の堂々と、信念を持って日本経済の再生の道を説く姿に感動した。
「日本の復興は必ず成ります。そこに希望をかけて、今という最大の危機を乗り越えましょう。日本は必ず経済をもって立ち直りますよ」

20年3月9日、東京大空襲。
4月1日、米軍の沖縄上陸。
5月、ソ連が日ソ中立条約不延長を通告。
8月6日、広島に原爆投下。9日、長崎にも投下。
空襲で湛山の芝・西久保町の自宅は焼失した。
だが、湛山はこの年の4月に、このまま東京に東洋経済新報社を置いたら焼け出されてしまうとして、秋田県横手町(現在は横手市)の小さな印刷工場を買い上げ、そこに編集局の一部と印刷部門とを疎開させた。湛山は、そのまま梅子と長女の歌子、その二人の娘、 朝子と総子を連れて行った。
その直後の5月21日、清沢洌が急逝する。横手町で知らせを受けた湛山は親友の死に顔を覆って号泣した。愛児の死にも淡々としていた湛山が、である。
そして8月15日のポツダム宣言受諾と敗戦。
「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え……」
ラジオから流れる天皇の終戦の言葉を湛山が聞いたのもまた、秋田県のこの横手町であった。

 


解説

大蔵省の中に「戦時経済特別調査委員会」を設置することになった

 

湛山は、戦時にあって、敗戦後の経済を立て直すための会議を立ち上げました。

そこで、湛山は持論の「小日本主義」を披露するのでありました。

 

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その53)

2024-08-19 01:16:06 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

湛山はこんな歌を作っている。

  此の戦 如何に終るも 汝が死をば
   父が代りて 国の為め生かさん

戦後、公職追放に遭った時に湛山が書いた書簡がある。これを読んだ経済学者の大熊信行を号泣させたという書簡である。

〈私は昭和19年2月一人の男児をケゼリン島に於て戦死せしめた(中略)1年遅れてその公報を受けた私は、昭和20年2月彼のために追弔の会合を催したが、その席上で次の如く述べた。「私はかねて自由主義者であるために軍部及びその一味の者から迫害を受け、東洋経済新報もつねに風前の灯のごとき危険にさらされている。しかしその私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」と。私も、私の死んだ子も、戦争には反対であった。しかしそうだからとて、もし私にして子供を軍隊にさし出すことを拒んだら、恐らく子供も私も刑罰に処せられ、殺されたであろう。諸君はそこまで私が頑張らなければ、私を戦争支持者と見なされるだろうか。東洋経済新報に対し帝国主義を支持した等と判決を下されるのは、正にそれであると私は考える〉

書簡のなかの「私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではない」は、湛山の絶唱でもある。
この時期の湛山について、清沢はその日記(後に「暗黒日記」として出版)の4月3日に書いた。

〈日本人は戦争に信仰を有していた。日支事変以来、僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戦争論者であった。(中略)これに心から反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾ぐらいのものではなかっかと思う〉

7月7日にサイパン島守備隊が全滅した。
その11日後、東条内閣が総辞職し、代わって小磯国昭内閣が誕生した。
清沢は湛山の依頼で東洋経済新報社の評議員になっていた。毎週月曜日の評議員会には必ず出席する。その日の話題の要旨を日記に書き記しているが、戦争中の言論弾圧とスパイ横行の中での東洋経済新報の評議員会について、こう記す。

〈自由に話しうるのはこの会くらいのものである。他では2、3人の会でも断じて正直は言わぬ。そこには常にスパイがいるからである〉

(つづく)


解説

戦時下、言論統制の暗い世相が湛山を苦しめます。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その52)

2024-08-18 01:02:27 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

ガダルカナルからの撤退を、新聞は「転進」と報道した。
「どうしてこんな姑息な表現をするのだろう。これ以上の犠牲者が出たとしたら、その責任の一端は新聞にもある、と指摘されても仕方がないだろうな」
湛山は溜め息をついた。
5月のアッツ島守備兵の全滅は「玉砕」という美化する言葉で報道された。
9月には、それまで徴兵が猶予されていた20歳以上の学生も、理工系・医学部などの学生を除き、ほとんどが兵役を義務づけられた。学徒出陣である。これによって戦場に赴いた学徒は13万人以上にのぼった。
「何ということだ。これからの日本を背負っていかなければならない有能な学生たちを……。若い人たちの将来を、東条という男は何と考えているのだろう?」
湛山は、開戦直前の昭和16年から19年のサイパン島陥落直後まで首相を務めた東条英機に、激しい怒りと憎しみを感じた。これまでの人生で、湛山が腹の底から抱いた初めての他人への憎悪であった。
涙が流れてならなかった。この有為な学生たちの一体何人が生きて、この日本の地を踏むことが出来るのだろうか。そして、何人が敗戦後の日本を建て直すのに力を尽くすことが出来るのであろうか。湛山は、涙を固い拳で拭いながら暗澹たる気持ちになった。

昭和19年2月6日の明け方、湛山は血まみれの和彦を夢に見た。和彦は、それでも律儀に敬礼をしながら、左手には湛山から渡されていた『法華経』を持っている。笑顔は「お父さん、合体だよ」と言っているように湛山には思えた。
「もっと生きていろいろしたかったけれど、今度はお父さんと一緒に生きるよ」
そう言って微笑む和彦の手を握ろうとして、湛山は目覚めた。
「和彦、戦死したな……」
明け方の光が、障子を通して湛山の書斎にも柔らかく射してきた。湛山は、読書をしながら寝入ってしまったらしい。
和彦が出征した内南洋のケゼリン島に、連合軍艦隊が上陸したという知らせが前日あった。湛山はそれを知りながら、梅子にも誰にも黙って、自分の胸にだけしまいこんでいたのだった。
「清沢君、敵艦がね、ケゼリン島の真ん中に来たというんだ。これはもう全滅を疑うしかないだろう? ともかく今は、どうやって家内を狂乱に陥らせないでいられるかが問題なんだよ」
清沢には、愛児の戦死をこうも淡々と口に出来る湛山が信じられなかった。
「石橋さん、あなた……。どうしてそんなに強いのです? 和彦君が亡くなったんでしょう?」
「……。嘆いても、騒いでも始まらないよ。それが運命なんだよ。これからあいつは僕とともに生きていくんだ……。そういうことなんだよ」

(つづく)


解説

悲しみを内に秘め、次男の戦死を確信し受け入れる湛山でした。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その51)

2024-08-17 01:05:25 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

『東洋経済新報』はその後も婉曲な表現を用いながらも言論の自由、戦争の早期終決、自由貿易の必要性を説き続けた。
昭和18年(1943)1月29日夜、海軍主計中尉であった次男・和彦の送別の宴が、 西久保町の自宅で開かれた。すでに中国から戻っていた長男の湛一、梅子、湛山の弟で野沢家に養子にいった義朗、後に東洋経済新報社の会長になる宮川三郎らが集った。
「和彦は昨年9月に築地の海軍主計学校に入校し、明日1月30日に卒業する。時期はいつになるか不明だが、南方戦線に出征することになっている。そこで、今夜は皆さんに集まっていただいて、和彦の前途を祝し、無事を願って送別の宴とします」
湛山がまず、挨拶をした。そんなことはないのだが、湛山には、和彦の出征は自分への軍部の報復のように思われてならなかった。
「こんな時期に南方とは……」
思わず呟きが洩れた。
すでに太平洋戦争が始まって2年、連戦連勝の勢いは初めの半年ほどで、後は昨年のミッドウェー海戦を皮切りに日米間の兵力格差が現実のものとなって現われていた。
12月にはガダルカナル島からの撤退を決定していたし、戦況は明らかに日本軍に不利に働いていた。
湛山の中には、和彦が戦死するかもしれないという覚悟は出来上がっていた。
送別会が終わった後、湛山は和彦と二人きりになった。下弦の月が、研ぎ澄ました鎌のように細い光で照らしている。その端正な顔立ちの和彦に、湛山はぽつりと言った。
「和彦、死ぬなよ。こんな情けない戦争で死んではいけない」
「お父さん、生きるために行くんですよ。結果として死ぬことはあるかもしれませんが、精一杯生きることに専心します。僕もこんな戦争には反対ですから……」
「日本は戦争に負けるよ。ミッドウェー以降、連戦連敗だ。軍だって本気で勝てるとは思っていないだろう。ドイツも勝利することはなかろう」
「そうでしょうね」
「もう戦争を遂行することを考えるよりも、戦後の日本のことを真剣に考えておくべきなんだ。戦後の日本はおまえたちのような若者がつくり直さなきゃあならん」
「分かっています」
「必ず終戦後には平和運動が起こり、何らかの平和体制がつくられるだろう。それに、植民地問題も解決する……」
「日本は中国とどう手を結んで生きるか、ですね? 石橋湛山流の言い方をすれば」
「分かっているじゃあないか、和彦」
「はい」
「この本を持って行け」
「……『法華経』……。日蓮ですね」
「そうだ、父の愛読書だ。表紙は擦り切れているが、常に側に置いておくがいい。父はいつでもおまえの隣にいるから」
「ありがとうございます。お父さん」
「何だ?」
「もしも僕が戦死するようなことがあったとしても、その時にはお父さんと一緒に戦後を生きさせてもらいますが……」
「うん。……死んでも死なない、ということだな?」
「はい。お父さんの人生とともに生き延びさせてください」
「分かった。その時は、そうしよう。おまえの分まで生きて、おまえの分まで日本のために仕事をしよう。それでいい」
「はい。これで安心して行けます」
『法華経』を小脇に抱えて敬礼をする和彦が、湛山には眩しかった。月光が最後の輝きを残して、雲の間に消えた。

(つづく)


解説

「和彦、死ぬなよ。こんな情けない戦争で死んではいけない」
「お父さん、生きるために行くんですよ。結果として死ぬことはあるかもしれませんが、精一杯生きることに専心します。僕もこんな戦争には反対ですから……」

敗戦の色が濃くなる南方戦線に次男を送らなければならない湛山の心の内はどんなものだったでしょうか。


獅子風蓮