獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その12

2025-01-26 01:46:55 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 ■「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「ロシアスクール」内紛の構図

さて、話を元に戻そう。
一部の外務省関係者が「佐藤優は、鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプーチンだ。組織を健全化させるためには、早く佐藤を追放しなくてはならない」という話を新聞や週刊誌の記者に流しているということは私の耳にも入っていた。既に数種類の怪文書も出回っており、その中には、外務省の「ロシアスクール」関係者しか知らない内容も含まれていたので、この時、田中女史に働きかけて私を追放しようと画策する人々の中心になっていたのが小寺次郎前ロシア課長だということは、すぐに分かった。
私は、外務省関係者とは、仕事を離れてはそれ程深い付き合いをしないようにしていた。仕事に絡むことならばいくらでも社交的になるが、もともと人見知りが激しく、本当に気を許すことのできる人以外とは食事や酒を共にしたくないのである。
小寺氏とはモスクワで一緒に仕事をしたことがあった。特に親しくもなかったが、敵対していたわけでもない。小寺氏がロシア課長に就任する前に一度、二人で食事をしたし、課長に就任した後も外務省内の喫茶店で何度も密談をするなど、それなりの関係は維持できていた。それが崩れ、小寺課長と私、そして東郷局長の関係が決定的に悪化したのは2000年秋からである。
97年11月、橋本龍太郎首相とエリツィン大統領がシベリアのクラスノヤルスクで会って「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と合意した。東京宣言では、北方四島の帰属問題を解決するということが明記されている。つまり、クラスノヤルスクの合意とは、2000年までに北方領土問題を解決するために全力を尽くすという約束を日露両首脳が取り交わしたことに他ならない。そして、98年4月、静岡県伊東市川奈で橋本首相はエリツィン大統領に対して、北方領土問題を基本的に解決し、平和条約締結が可能になる大胆な秘密提案を行った(「川奈提案」)。
しかし、その後、2000年夏時点で、両国の首脳も替わり、年末までに北方領土問題を解決することは非現実的な状況になっていた。プーチン大統領が9月に訪日することが予定されていたが、その際にプーチンが「川奈提案」を正式に拒否することになるという感触を日本側はつかんでいた。
日露関係の停滞を招いてはならないと考えた両国の政治家、外交官は水面下で様々な接触を行った。そして、東郷和彦欧亜局長は、1956年日ソ共同宣言に注目して、北方領土問題を「川奈提案」とは別の切り口で解決する道を真剣に探究した。私は東郷氏の腹案について、かなり早い時期、2000年の初夏に相談を受けた。その腹案に対して私なりの意見を述べた。そのことについてはまだ読者に紹介するタイミングではないと私は考えている。なぜなら、東郷氏の腹案は、私が見るところ、今もプーチン大統領と噛み合う形で北方四島問題の解決を図ることのできる実効性をもった戦略だからだ。従って、その手の内を明かすことはできない。ただし、外交秘密に触れない範囲で東郷氏の腹案の大枠について読者に説明することは可能だ。小難しい話になるがお許し願いたい。

巷では東郷氏の考え方は「二島返還論」もしくは「二島先行返還論」で、日本政府の方針から外れているとの批判がなされたが、これらは為にする批判で、ピントがずれている。1956年日ソ共同宣言第九項では、「ソ連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定されている。
前にも述べたが、日ソ共同宣言は、「宣言」という名前だが、両国の国会で批准され法的拘束力をもつ国際条約だ。それにもかかわらず、ブレジネフ書記長、ゴルバチョフ大統領は、ソ連が歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す義務を負っていることについては頬被りをしていた。
エリツィン大統領も56年日ソ共同宣言の有効性について間接的には認めたが、歯舞群島、色丹島の引き渡し問題には踏み込まなかった。56年以降、日本政府の立場は四島に対する日本の主権(もしくは潜在主権)を確認することで日露(ソ)平和条約を締結するということで一貫している。平和条約が締結されれば、北方四島の内、歯舞群島、色丹島の二島が日本に引き渡されることについては既にロシア(ソ連)との間で合意している。
従って、日本の立場からすると国後島、択捉島が日本領であるということを確認することが平和条約交渉の要点なのである。日本はまず56年宣言の二島引き渡しをロシア(ソ連)に認めさせ、その上で国後島、択捉島の日本の主権を認めさせるというのが日本政府の冷戦時代からの伝統的戦略だった。いわば江戸から東海道を通って京都に行こうとするアプローチだ。
しかし、56年日ソ共同宣言の二島引き渡しという「川」をどうしても渡ることができなかった。91年4月のゴルバチョフ大統領訪日に関する新聞記事を見れば、56年日ソ共同宣言を確認できなかったことが関係者に大きなショックを与えたことがわかる。
東海道をいくら進んでも大井川を越えることができないので、日本政府は今度は中仙道から京都に行くことを考えた。これが「川奈提案」だ。
四島一括という立場でぎりぎりの譲歩をしたのが「川奈提案」だった。「川奈提案」の内容は今でも秘密にされているので、踏み込んだ説明はできないが、プーチン政権の誕生で、中仙道よりも東海道で京都に行き着く可能性が高まったと東郷氏は考えた。その後、ロシア側の予測される反応について種々の情報を収集した上で、私も東郷氏の考えを心底支持するようになった。東郷氏が「二島返還」で平和条約を締結することを考えたことは一度もない。東郷氏が「二島先行返還」すなわち、歯舞群島、色丹島を先に返還し、国後島、択捉島の帰属が決まらなくても平和条約を締結することができるなどと考えたこともない。歯舞群島と色丹島についてはロシアから日本への引き渡しについて合意しているのだから、「返還の具体的条件」について話し合い、国後島、択捉島については帰属について交渉するという「2+2方式」が日露平和条約交渉を加速する現実的方策と東郷氏は考えたのである。
東郷氏の腹案が、日本政府のこれまでの方針の枠内で構築されたものであることを、私は自らの良心に賭して保証する。当時、小寺課長を含め、外務省関係者は誰ひとりとして東郷局長のこの考え方に異議を唱えなかった。
2000年9月のプーチン大統領訪日直前に、大統領訪日時に合意しようとしていた重要文書の日本案が朝日新聞に漏れてしまった。これに対して森喜朗首相が激怒。外務省では東郷氏が中心となりかなり本気で「犯人探し」をしたが、漏洩者を最終的に特定することはできなかった。
プーチン訪日後、東郷局長は、ロシア課では機微な情報工作を行うことは無理だと判断し、当時私がチームリーダーをつとめ、国際情報分析第一課内に設けられていた「ロシア情報収集・分析チーム」に対して、いくつかの特命案件の処理を命じた。
この「チーム」は、小渕政権下の98年夏に官邸からの特命を受けて活動を始め、99年4月に省内決裁を得て正式に発足したのだった。2000年までという期限を設けて日露平和条約の締結を目指すという特殊な事情を背景に、国際情報局長と欧亜局長の指揮監督の下で、外に見えない形で、機動的に任務を果たすことを求められた。こうした官邸主導の対ロシア外交を政治の側から実務的に支えてきたのが鈴木宗男自民党総務局長だったので、この「チーム」が鈴木氏と行動を共にする機会も少なからずあった。
これまで「チーム」の活動について、職制上はロシア課長に対して報告義務はなかった。しかし、「黒衣」であるわれわれが無用な誤解をロシア課員から抱かれないようにするために、私はロシア課長にはできるだけ「チーム」に与えられている仕事の内容を説明するようにつとめた。
小寺氏の前任ロシア課長、篠田研次氏との間では、意思疎通がよくできたので、大きなトラブルはなかった。小寺課長になってからも意思疎通はできていたが、肝胆相照らすという関係にはならなかった。私は、ロシア課の中に鈴木宗男氏、東郷和彦局長、そして、私を中心とする「ロシア情報収集・分析チーム」メンバーに対する不満が蓄積されているのを感じていた。

 

 


解説
一部の外務省関係者が「佐藤優は、鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプーチンだ。組織を健全化させるためには、早く佐藤を追放しなくてはならない」という話を新聞や週刊誌の記者に流しているということは私の耳にも入っていた。既に数種類の怪文書も出回っており、その中には、外務省の「ロシアスクール」関係者しか知らない内容も含まれていたので、この時、田中女史に働きかけて私を追放しようと画策する人々の中心になっていたのが小寺次郎前ロシア課長だということは、すぐに分かった。(中略)
私は、ロシア課の中に鈴木宗男氏、東郷和彦局長、そして、私を中心とする「ロシア情報収集・分析チーム」メンバーに対する不満が蓄積されているのを感じていた。

なるほど、外務省、それも同じロシアスクールの中でも内紛があったのですね。
そのため、佐藤氏を追放しようという動きが外務省内から出てきたのですね。

 

獅子風蓮



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