まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

尾崎豊忌/雑句雑感Ⅴ~プロローグ4の始まり(その55)

2015-04-18 03:12:51 | 雑句雑感Ⅴ
尾崎豊忌誰待つでもなく待っている  鳩の糞だらけの少年尾崎豊の忌  ドーナツショップは春禽の巣か尾崎豊の忌  テロリストも尾崎豊忌のI LOVE YOU  尾崎豊忌の渋谷の何が消えたのか  尾崎豊忌の雑記帳にわたしの名  体育館ライブは不発尾崎豊の忌  春火桶尾崎豊忌の冷めやらず  聖母子像の白熱尾崎豊の忌  太陽の破片ちりとなる尾崎豊の忌

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オザキの日/一言絶句・愛こそすべて~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-16 05:22:10 | 一言絶句・愛こそすべて
百歳まで生きてオホーツクを見てみたい   赤尾兜子の弔旗はこの世のものならず   だいたいでいいから堕胎は罪なのか   金原まさ子は半旗を何本揚げたのか   まさか死んでも初恋はつづくのか   ドラムカンに詰めても魂は浮上する   JUJUだけが知ってる摂氏0度の見分け方   強制終了かけても無駄だオザキの日(4月25日)   黄金比1:1なら プラトニックで終る恋   桐生選手の9.99・・まだ春なのか

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名無しの鳥/雑句雑感Ⅴ~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-16 05:12:11 | 雑句雑感Ⅴ
ポコハラム黒南風は黒のまま寂し  鬼打ち木打ち合ふたびに空仰ぐ  春の雷蒼氓と書いてむしと読む  サイレント・プアなら春寒と言はぬはず  ニーチェ本誰が買っていつ死んだか  神は死んだニーチェはたまげた男なり  桜果て地獄の何から話そうか  春望や人は死ぬとは限らない  御柱打たれ名無しの鳥が翔ぶ  春猫はもう戻らないと三面記事  げんげ摘み空に呑まれるまで蒼し

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無口な薔薇/連衆70号を読む(3)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-14 21:32:04 | エッセー・評論
同人作品は特別作品とレギュラーの10句に分けられる。まず夏木久の『無口な器』(45句)である。

その口が入口春の器への
花器に挿し無口な薔薇にしてしまふ
入口を月にしてより出口なし
裏口の時雨に待てり継走者
器には口のうるさき冬日向
入口を出れば出口や春隣


何より《口》の一語が入った句群が目に止った。タイトルも《無口な器》とやはり《口》が入っている。思うに作者は己のある想いを言葉にして盛る器としての俳句型式を日常の中で自在に使いこなし、発語(詩)との距離感を最初から無きものとすることを夢想している。そのことによって人間と世界とのダイレクトな交感が成立し、反言語(世界)としての定型言語の過渡的な役割は終わる。その成否は「湯豆腐をつつく空席」を悔やみながら「裏口の時雨」の止むのを待つ他ない。継走者とはもとより俳句の奥深く在り続けている作者自身なのだから。

特別作品の二人目は新参加の宮崎干呂の『凍るよコール』(22句)である。自己紹介で《世界の壊れ具合》と《ヒトの心の冷え》に思いを馳せ、字数と音数の一致した和語を超えた自由な音数律による新たな表現媒体を講想する。

ジェラルミンに映して角出すなめくじら
泉浚いし小人らのシャベルにバーコード
森と泉に囲まれて廃址よ猛きベクレル
聖霊や木枕たたかれ戦みち
エボラの結界破りしに冬未曾有
宮城は護憲のとりで霜をふむ


ジェラルミン、バーコード、ベクレル、エボラ、護憲・・と《うつつ》なるものの残滓が遂に何ものも果たし得なかった無念を発散する。しかしそのどうにもならない沈黙の渦中にあっても俳句型式はやさしい。これらも俳句以外の何ものでもあり得ない。まるでわたしたちの存在の根から吹き上がるひとときの生の熱気を表徴しているかのようだ。

夢一俵うつつよりマシか落葉つむ

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ひとときによく似た鳥/連衆70号を読む(2)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-14 01:27:50 | エッセー・評論
二人目の招待作家は現代川柳の内田真理子である。口語体で一見日常語に近い語り口だが、ここでもやはり定型言語に乗る前の自我は曖昧模糊としたつかみどころのないものである。それがいったん定型性を持ち始めると出処不明の揺らぎを孕み、読み手の言語意識をも巻き込んでいく。

波頭ざぶんと日付変更線
信号が長くて春は遅れます
ありえへん言葉ぽっつり梅の花
これは海これはひまわり口移し
彼方にはこちたくねたく薊咲く
晩夏考まばらに椅子が置いてある
静止画像に取り残されるしろうるり
くじらを森に帰す時間だ鐘が鳴る
神の木を蝕んでゆく神の虫
ひとときによく似た鳥を茹でている

作者の日常とは波頭のざぶんという音、信号が長いと感じたり、その時々の意表をつく言葉、口移しに等しい身近な発語・・と意識の内外を予期せず貫く言い知れない存在感に満ち溢れている。そこから時折意識の表層に降りかかって来る彼方や未来の浮遊する薊や誰が座るのか不明な椅子に混じって、まるで静止画像のようにそこにあったかのように取り残される自我像(=しろうるり)が見え隠れする。その自我像の揺らぎがふと黙示する普遍なる大きな時間の予兆【くじらを森に帰す時間】に次なる自我の在り処を作者は見ている。神の宿る木を蝕む時間の変容をかいま見ながら、すでに虚空に消え去った鳥のようなひとときを密やかに定型言語の記憶として止めようとしている。ことさらに儚いが愛しい至福の光景の手触りの中で作者は世界を俯瞰し続けている。・・《続く》

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