春愁の流され神を追ふ汀 花雪洞少年ひとり走り出す 片恋はかなわぬがよし紙風船 ふらここの時に死処たる蒼さ持つ 半仙の戯れ発熱はいつからか 野に遊ぶ私がわたしである不幸 春火桶クーデターは一度きり 春の風邪どこで誰から移ったか 桜湯に首まで浸かれば未生なり 私ではない誰か春星のごとくあり
松田優作の二人の息子啄木忌(二男翔太が啄木を演じる) あいまい宿の造花一輪啄木忌 エロスの愛の清浄たらんと啄木忌 一握の砂あの世にまかれ啄木忌 啄木は27才で死す忌は知らず コムデギャルソンの古着となりし啄木忌 山頭火放哉きょうは啄木忌 片恋はかなはぬがよし啄木忌 東北で生まれて死んだ啄木忌 二十歳の原点まもり通して啄木忌
手許に連衆70号がある。代表の谷口慎也氏をはじめ論客揃いの当誌とあって、巻頭言あたりから何か感想を述べてみたいが、何よりもまず作品鑑賞から入りたい。毎回外部よりの招待作家の連作が巻頭を飾る。今号は俳人の後藤貴子と川柳の内田真理子の各22句である。まず後藤作品は『荒寥と』と題するもので表題の通り作者の意図しての荒寥とした心象風景を1句々々に落し込んでいる。
蝶二頭重なる沼の荒寥に
乳母車霧の重さのあかんぼう
ポッキーの日の大倭折れてゐし
まぐわえば空気の抜けるマリア像
積分の解けぬどじょうの荒ぬめり
春暁のひだるきものにのどちんこ
爆発の予兆の空のいいにおい
意味鮮明でなおかつ心に残るものを抜粋してみた。もとより現実の光景ではない。作者にとって対象となるものの独りよがりな擬似認識などどうでもよく、外界との一次的な交感の渦中で違和感とも一体感とも違う何らかの空間性を言葉(喩)に定着することが目指されている。蝶二頭の交尾の姿の荒寥さ、乳母車のあかんぼうにかかる霧の重量感、聖マリア像の俗なる空虚、どじょうに仮託した己れの存在の荒々しいぬめり感。そのあげく春暁のひだるさの実感の元凶として言葉を発する異物としての「のどちんこ」に思い到り、全ての荒寥さの一瞬の帰結としての「爆発」の予兆の空のにおいに達する。そこで初めて《いいにおい》として外界と分け隔てない己の生存の証しに遭遇する。荒寥とは作者の内部と外部をつなぐ不分明さを〈俳句〉という定型の現場でかろうじて言い止めることに他ならない。・・《続く》
蝶二頭重なる沼の荒寥に
乳母車霧の重さのあかんぼう
ポッキーの日の大倭折れてゐし
まぐわえば空気の抜けるマリア像
積分の解けぬどじょうの荒ぬめり
春暁のひだるきものにのどちんこ
爆発の予兆の空のいいにおい
意味鮮明でなおかつ心に残るものを抜粋してみた。もとより現実の光景ではない。作者にとって対象となるものの独りよがりな擬似認識などどうでもよく、外界との一次的な交感の渦中で違和感とも一体感とも違う何らかの空間性を言葉(喩)に定着することが目指されている。蝶二頭の交尾の姿の荒寥さ、乳母車のあかんぼうにかかる霧の重量感、聖マリア像の俗なる空虚、どじょうに仮託した己れの存在の荒々しいぬめり感。そのあげく春暁のひだるさの実感の元凶として言葉を発する異物としての「のどちんこ」に思い到り、全ての荒寥さの一瞬の帰結としての「爆発」の予兆の空のにおいに達する。そこで初めて《いいにおい》として外界と分け隔てない己の生存の証しに遭遇する。荒寥とは作者の内部と外部をつなぐ不分明さを〈俳句〉という定型の現場でかろうじて言い止めることに他ならない。・・《続く》
呼吸とはまず吐いて吸ふ花疲れ 携帯からスマホへ花に疲れをり 花疲れ一句も詠めずうすれけり 花疲れ内蔵助は何故来ないのか 花疲れまさかのマグニチュード7の揺れ 句の軽さは人の軽さか花疲れ 放哉はイケメン花の疲れ消ゆ 花疲れカレーとラーメンどっちが好きか どの猫のどの闇なのか花疲れ ボールペンの赤失せしまま花疲れ
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