先日、私の話の節々に“道”への思い入れが強いということを言われた。自分自身はごく普通に、無意識にしゃべっていたのだが、言われて思い返してみると「そうかもしれない」「そうなんだ」と自分自身のことではあるが初めて意識のレベルに上がってきた。
教師になって2年目に担任をした。とびこみの3年の担任であった。学校の事情で仕方のないことではあったが、ずい分無茶なことだった。当人は経験もなく、何も知らないことが強みで「若さ」だけで突き進んでいった。今考えると、恥ずかしいこともたくさんあり、まわりの人たちの寛大さに感謝の限りである。
その時の学級通信の名前は『道』だったと思う。あの時は、通信にいろいろな人の詩を掲載して自分の気持ちを代弁してもらっていた。タイトルの決め手になったのはヘルマン・ヘッセの『独り』という詩であった。教師生活第1号の学級通信に載せた。
地上には
大小の道がたくさん通じている。
しかし、みな
目ざすところは同じだ。
馬で行くことも、車で行くことも
ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない。
だから、どんなつらいことでも
ひとりでするということにまさる
知恵もなければ、
能力もない。 (ヘッセ詩集 高橋健二訳 新潮文庫)
この詩を読んで、どのような話をしたかは記憶の淵に沈んでしまっている。学年通信の場合は対象が広いので「公」の度合いが強いが、学級通信になると「私的」な感じになりタイトルにしても無意識に自分好みが前面に出てくる。 “風鈴”風まかせ、無風であれば鳴らないというところが好きである。 “やじろべえ”絶妙の不安定さが大好き。などがなつかしいタイトルである。
「季節も良くなってきたので“道”が呼んでいる。」と言うと、苦笑いする聖母の顔が浮かんでくる。
教師になって2年目に担任をした。とびこみの3年の担任であった。学校の事情で仕方のないことではあったが、ずい分無茶なことだった。当人は経験もなく、何も知らないことが強みで「若さ」だけで突き進んでいった。今考えると、恥ずかしいこともたくさんあり、まわりの人たちの寛大さに感謝の限りである。
その時の学級通信の名前は『道』だったと思う。あの時は、通信にいろいろな人の詩を掲載して自分の気持ちを代弁してもらっていた。タイトルの決め手になったのはヘルマン・ヘッセの『独り』という詩であった。教師生活第1号の学級通信に載せた。
地上には
大小の道がたくさん通じている。
しかし、みな
目ざすところは同じだ。
馬で行くことも、車で行くことも
ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない。
だから、どんなつらいことでも
ひとりでするということにまさる
知恵もなければ、
能力もない。 (ヘッセ詩集 高橋健二訳 新潮文庫)
この詩を読んで、どのような話をしたかは記憶の淵に沈んでしまっている。学年通信の場合は対象が広いので「公」の度合いが強いが、学級通信になると「私的」な感じになりタイトルにしても無意識に自分好みが前面に出てくる。 “風鈴”風まかせ、無風であれば鳴らないというところが好きである。 “やじろべえ”絶妙の不安定さが大好き。などがなつかしいタイトルである。
「季節も良くなってきたので“道”が呼んでいる。」と言うと、苦笑いする聖母の顔が浮かんでくる。