ジムへ行くと「ノジュール」の2月号が置いてあった。巻頭にある今月の名作は尾形光琳の[紅白梅屏風図]であった。尾形光琳300年忌記念特別展が2月4日より3月3日までMOA美術館で開催されているのに合わせているようだ。
内田篤呉さんによる丁寧な解説があった。対比を楽しむというのが鍵になっている。梅の花の紅と白、木の老と若、両岸の金と川の銀。川は黒?と思っていたが内田さんによると銀を変色させて作っているとのこと。また右側の若木の紅梅の右には小さく「青々光琳」また老木の白梅の左には「法橋光琳」というサインが書かれている。「若々しい光琳」「法橋位を授けられた、老成した光琳」という意味合いであるが、その遊び心にも魅力があるという。
これがまっとうな解説であるが、不幸?にも、若かりし時に全く異なったこの絵の解説を読んだために以後、国宝であるこの屏風図を純粋に鑑賞できなくなっている。「ノジュール」のページを開けた途端この絵が飛び込んできた瞬間、思い出してしまった。
阿刀田高さんの『ユーモア人間 一日一言』(ワニ文庫)にある2月1日「洞察力」という一文である。
『この豊満な水と梅との絵を画いた頃、尾形光琳は京銀座の顧問役中村内蔵助と一人の女をめぐっていささか淫靡な関係にあった。内蔵助は能役者を思わせる美男、光琳のお気に入りである。
そしてその一人の女とは光琳の女。光琳はときおり、たわむれにその女を内蔵助に貸したり、三人でともどもたわむれたりしたのではないか、と思われるふしがある。さて、それだけの知識を持って上の絵を眺めてみよう。小林太一郎氏は「光琳と乾山」の中でこう述べている。
「中央の豊満な水の流れ、それが女体になっていることをなぜ人は見ないのか。仰むけにのけぞった頸から胸、みぞおち、なだらかな腹、恥骨のあたりのやわらかいふくらみにいたるまでを、その正面はこまやかに魅惑ゆたかにあらわしている。また背面は巨大な尻をつき出して後ろからそうっと忍びよる紅梅すなわち内蔵助をはじき返している。驚いた紅梅は両手をあげ、しゃきり立っている。これに反して光琳の白梅は太くたくましく重量感のある大きい根をゆらりゆらり動かして下腹をねらい、その枝は手のように乳の先をまさぐっている・・・・」(角川版「世界の人間像」7より)
さて読者諸賢は首肯されるや、いなや。』
ロールシャッハテストではないがものは見方だ、ということを感じたなつかしい話である。
内田篤呉さんによる丁寧な解説があった。対比を楽しむというのが鍵になっている。梅の花の紅と白、木の老と若、両岸の金と川の銀。川は黒?と思っていたが内田さんによると銀を変色させて作っているとのこと。また右側の若木の紅梅の右には小さく「青々光琳」また老木の白梅の左には「法橋光琳」というサインが書かれている。「若々しい光琳」「法橋位を授けられた、老成した光琳」という意味合いであるが、その遊び心にも魅力があるという。
これがまっとうな解説であるが、不幸?にも、若かりし時に全く異なったこの絵の解説を読んだために以後、国宝であるこの屏風図を純粋に鑑賞できなくなっている。「ノジュール」のページを開けた途端この絵が飛び込んできた瞬間、思い出してしまった。
阿刀田高さんの『ユーモア人間 一日一言』(ワニ文庫)にある2月1日「洞察力」という一文である。
『この豊満な水と梅との絵を画いた頃、尾形光琳は京銀座の顧問役中村内蔵助と一人の女をめぐっていささか淫靡な関係にあった。内蔵助は能役者を思わせる美男、光琳のお気に入りである。
そしてその一人の女とは光琳の女。光琳はときおり、たわむれにその女を内蔵助に貸したり、三人でともどもたわむれたりしたのではないか、と思われるふしがある。さて、それだけの知識を持って上の絵を眺めてみよう。小林太一郎氏は「光琳と乾山」の中でこう述べている。
「中央の豊満な水の流れ、それが女体になっていることをなぜ人は見ないのか。仰むけにのけぞった頸から胸、みぞおち、なだらかな腹、恥骨のあたりのやわらかいふくらみにいたるまでを、その正面はこまやかに魅惑ゆたかにあらわしている。また背面は巨大な尻をつき出して後ろからそうっと忍びよる紅梅すなわち内蔵助をはじき返している。驚いた紅梅は両手をあげ、しゃきり立っている。これに反して光琳の白梅は太くたくましく重量感のある大きい根をゆらりゆらり動かして下腹をねらい、その枝は手のように乳の先をまさぐっている・・・・」(角川版「世界の人間像」7より)
さて読者諸賢は首肯されるや、いなや。』
ロールシャッハテストではないがものは見方だ、ということを感じたなつかしい話である。
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