素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

梅雨明け!また長居植物園に行ってきました

2010年07月17日 | 日記
 一晩にして、梅雨前線が消えた。朝から夏らしい陽の光と空の雲。先日は、雨を気にしてゆっくりできなかったので、もう一度長居植物園に出かけた。

  太陽をいっぱいに浴びて花はいきいきとしていた。

      

 この前行った時に見逃したものが2つあった。1つは、1本の木に、白とピンクの花をつける珍しいサルスベリ。
まだ、咲き始めで1つずつの花しかなかったが、満開になったらなかなかのものだろう。 

もう1つは、緑のトンネル。大瓢箪、千成瓢箪、鶴首瓢箪、一寸豆瓢箪、百成瓢箪、太へちま、ゴーヤ、おもちゃかぼちゃなどのつるでおおわれ、それぞれの実がとてもユーモラスで気に入った。

      

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習熟度別指導

2010年07月16日 | 日記
 自分の小さな経験を一般化させることには慎重にならないといけないが、私が「習熟度別指導」にこだわるのは、中学の時に、ウルトラ級の英語の「習熟度別授業」(当時は能力別学級と呼ばれていた)を経験しているからだ。当時は、何の疑問もなくその体制の中で学習したが、大学に入ってから「なぜあのような授業が、公立中学校でできたのか」と疑問をもつようになり、「英語の学力向上のためになっていたのか」と自問した。答えは「No!」であった。佐藤さんが「習熟度別指導」に関する結論を総括しているが、私の生徒として経験したことと教師として「学力をつける」というさまざまな取り組みを自分でも試み、多くの人の取り組みを直接、間接的に見聞きした経験からズバリ核心をついていると思うのである。

 ①小学校では「上位」「中位」「下位」のどのグループでも有効性はなく、②中学校では「上位」グループにおいて適切な教育が行なわれた場合に限って有効性を主張する調査研究も存在しますが、③いずれの場合も学力格差は拡大し、④学校全体の学力向上にはつながらず、⑤階級や階層や人種間の学力格差の拡大と差別につながる。

 そのうえ「習熟度別指導」は、教育内容の段階的組織と学習集団の均質化により学びの経験を狭め、競争と失望を促進して歪んだ優越感と劣等感を助長する。


 ただ、現実問題としては、行政レベルにおいて、「少人数指導」の加配教員の財源を確保するために「習熟度別指導」の導入と「少人数指導」を抱き合わせにしていることがこの問題をむずかしいものにしている。私が最後に勤めた学校でも、1年の数学に「少人数指導」を実施していた。1クラスを2つに分けるのだが、教育委員会は学校長を通じて「習熟度別指導」をするように指導してきた。学校、生徒の実態などさまざまなことを出す中で習熟度別のメリットが見出せず、普通のクラス分けと同じように、ほぼ均質な2クラスにして授業をおこなった。しかし、年々そのしめつけは厳しくなってきており、問題を感じながらも「習熟度別指導」を導入せざるをえないようになってきているみたいだ。(そういう意味では、いいタイミングで退職したと思っている。)その場合でも臨機応変に運用し、習熟度別にしても有効と思える単元のごく一部に限定することは可能である。建前で言えば「習熟度別指導」の導入は学校の自主性に委ねられているのだから・・・・

 佐藤さんは「習熟度別指導」に対抗し代替しうるのは「協同学習」と提唱している。そのキーワードは“背伸びとジャンプ”である。佐藤さんが協力し助言して授業を改革し、学校改革をしたのが“富士市立岳陽中学校”である。その実践記録をまとめた「公立中学校の挑戦」を読んだのが6~7年前だったと思う。飾り気のない率直ないい内容であった。参考になるヒントもたくさんあった。しかし、私は「何かをするにはもう時間がない」という結論を出してしまった。学校を変えていくのにさまざまな取り組みがあるが、授業改革は、学校長の見識と度量の広さとリーダーと支えるメンバーの存在が不可欠で、それらがそろっても最低3年はかかる一番困難な取り組みである。
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不安定な天気も今日までか?

2010年07月16日 | 日記
 朝、久しぶりに太陽の光を浴びたという感じである。雨の中のヒマワリは似合わない。花をつけてから初めての日光浴である。フクシアも去年以上の勢いで次々と花を咲かせている。ランタナも負けじとかわいい花を次々咲かす。花言葉は「合意」「協力」「確かな計画性」今の民主党にあげたい花である。

   午前中に、雨の間できなかった庭の手入れをする。昨夜、煮詰まっていた脳も冷やされた。心と体はバランスよく使ってあげないといけない。

 文部科学省が「教育内容の三割削減」を断行し、「学力低下」を憂える批判が巻き起こり、それに対して「確かな学力」を打ち出すという動きの中で、学校に導入されてきたのが“百マス計算”を代表とするドリル学習。「少人数指導」と「習熟度別指導」である。

ドリル学習の普及では「学力低下」を解決できないと、佐藤さんは断じている。今、日本の子どもの学力で低下しているのは“基礎技能”の領域ではなく、“推論的能力”“科学的思考力”“創造的思考力”などの高次の知的領域だからである。それでもドリル学習が普及してしまうことに、佐藤さんは一刀両断、こう言い切っている。

 教師たちが世論や親の不安に追い詰められているからです。教師の「学力低下の克服に取り組んでいます」という身の証のために、多数の子ども達が無意味な作業と競争の犠牲になっています。

 「少人数指導」の有効性も疑わしいと言ってます。一番の問題点は、「少人数指導」に必要な教師を、臨時採用、非常勤採用によって充足していることである。この措置によって、多数の臨時採用と非常勤の加配が必要となり、本来、産休・育休・病休の教師を代替するための講師不足をまねき、結果として専任の教師の業務は多忙化している。

 現場にいた時、感じていたことと一致する。鋭い指摘だと思う。「習熟度別指導」についても手厳しい分析がされているのだが、ここまで書いてきたら、今日は大丈夫で、予報ははずれたとおもっていた空模様が急に怪しくなってきた。雷鳴が聞こえるし、どんどん空の色が黒くなってきた。のんびりブログを書いている場合ではなくなった。明日からは安定するとの予報。ゲリラ的な雨にはウンザリである。

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脳みそがグツグツ煮えています

2010年07月15日 | 日記
 数日前に、授業に『グループ学習』を取り入れることについてどう思うかという質問があった。3日間ぐらいは、自分の思いつくことをノートに箇条書きで書き出す作業をした。

 今日は、本棚から本を引っ張り出し、超速読で読んだ。多分、佐藤学さんの『協同学習』を中心とする授業の改革がベースにあるのではと思ったので、岩波ブックレットの『学力を問い直す』と『習熟度別指導の何が問題か』の2冊。次に佐藤学さんが深く関わった富士市立岳陽中学校の実践をまとめた『公立中学校の挑戦~授業を変える学校が変わる~』

 今、学力問題で理論的にも、実践的にも学ぶべき人は佐藤学さんだと思う。久しぶりに読み返したがうなづく点が多い。その後、「班つくり」の元祖的存在の大西忠治さんの『討議つくり上達法』読む。大西さんが中心になって推し進めた班をベースにした集団つくりには、個人的には抵抗があり続けた。この本を書いた頃は「ゆるやかな集団つくり」を提唱していたと思う。それで、実践家としての力量は一目おいていたので読んでみようと思って買った本である。

 ゆっくりペースで本を読む生活をしていたので、短時間に4冊の本に目を通すと“脳みそが煮えたぎる”という状態である。一晩ゆっくりと冷ます必要がある。おやすみなさい。
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民主党敗北。「和」の精神?

2010年07月14日 | 日記
 今回の参議院選挙の結果“衆参真性ねじれ現象”となった。自民党与党時代末期の“ねじれ現象”では参議院で否決されても、衆議院で再可決ができたが、今回はそれも無理。法案を通すためには、各党との綿密な討論が不可欠になった。しかし、これこそ究極の日本流かもしれない。

 井沢元彦さんの「井沢式・日本史入門・講座」を継続して読んでいるが、その中で井沢さんは『日本人が知らない日本固有の信仰ーそれが“和”である!』と断じている。井沢の目・歴史の眼・その(36)でこうまとめている。

 日本人に宗教がないというのは、間違いだ。空気を吸っているように、普段は意識しないほど当たり前になっている「日本人の宗教」がある。それが聖徳太子の憲法十七条の第一条にある「和」である。「和を以って貴しとなす」の意識は、この時代に既にあった

 憲法十七条の制定は、604年だが、「和」の原理はそれ以前から存在し、脈々と現在まで日本人の根底に流れているという。この指摘は納得できる。これからの国会は与党、野党という二者択一的な発想では進めないない。日本に二大政党制もなじまないということがこの10ヶ月の動きを見ていて確信できた。各党どういう形で議論に参加し政治を責任持って動かしていくのか興味あるところである。

 本の中で、中村 元さんという文化勲章も受章された日本を代表する仏教学者の方の、聖徳太子の真意にできるだけ沿う形での憲法十七条の現代語訳を紹介している。「和」に関する第一条と第十七条である。

 【第一条】おたがいの心が和(やわ)らいで協力する事が貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何事も成し遂げられないことはない。

 【第十七条】重大なことがらはひとりで決定してはならない。かならず多くの人びととともに論議すべきである。小さなことがらは大したことはないからかならずしも多くの人々に相談する必要はない。ただ重大なことがらを論議するにあっては、あるいはもしか過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人びととともに論じ是非を弁(わきま)えてゆくならば、そのことがらが道理にかなうようになるのである
               (『日本の名著 聖徳太子』中村 元)

行き詰まり感のある今の日本。意識的ではないが、結果として単純に採決して決めることのできないシステムを選択した形になった。粘り強く議論するのか、再編して大連立をつくろうとするのか、なにはともあれ思いつきに見える唐突な提案ではなく、きちっと説明をするということを望みたい
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