素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

柳原 白蓮(本名:〈あき〉子)と戦争

2011年12月14日 | 日記
 NHK朝ドラの『カーネーション』は、戦争を庶民生活の視点から巧みに描いている。全体的にはカラッと明るいが、戦争によって普通の生活を奪われていく憤り、悲しさが随所に織り込まれている。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」がベースにあるように思う。

あゝおとうとよ、君を泣く    
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ


 柳川で出会った“夢爺”こと安達敏昭さんの書かれた『竹久夢二 大正ロマンの世界“夢二の旅”~九州から巴里へ』の中で“夢二と白蓮”についてふれている。夢二にとって白蓮は永遠のマドンナであったということを、さまざまな資料から読み解くというのが本の主題であるが、私は白蓮その人の記述に興味を持った。

 明治45年に25歳年上の炭鉱王 伊藤伝右衛門と結婚させられ愛のない生活を好きな歌作りで満たしながら銅(あかがね)御殿と呼ばれた豪華な邸宅で暮らしていたが、大正9年に戯曲の出版依頼をするために銅御殿を訪れた東京帝国大生宮崎龍介(28歳)と白蓮(34歳)は恋に落ち、翌年に伝右衛門との訣別を告げる“白蓮の絶縁状”を新聞紙上に公表して福岡伊藤邸から出奔したという話は“白蓮事件”と呼ばれよく知られている。幾多の確執と苦難を乗り越え、2年後の大正12年に、白蓮の産んだ香織さんが龍介の庶子であることを裁判所で宣告され、親子3人での生活が正式に認知され“白蓮事件”は解決したという。

 安達さんの本には、昭和28年、出奔以来三十余年ぶりに福岡を訪れた白蓮へのインタビュー記事が紹介されていた。ここの部分が一番印象的であった。白蓮の人柄を偲ばせてくれる言葉を拾いだしてくれている。

 インタビューの冒頭で 「34,5年ぶりに福岡にやってまいりました。ご覧のように頭は真白になり、なんだかすまないような、ご免なさいと謝りたいような気がします。・・・はじめからその人の人生は、そう決ってたんだと、・・・“女とは 世とは道とは うきつらき 生ける限りの 謎にあらじか”つまり女の宿命でしょう。」と語った後、博多の印象や一番好きな歌などの質問に答えていく。そして、夫龍介の近況を述べた後に、鹿児島の特攻基地鹿屋で終戦4日前にB29の爆撃をうけ戦死した長男香織についてしみじみ語った。

「早稲田在学中の香織を、学徒出陣で勇ましく送り出しました。・・・首を長くして待っているのに来たのは戦死の報せで今後どうして暮らして行ったらいいのか判らなくなり一時はやぶれかぶれになり、泣くにも泣けず・・・人心も大分落ち着いたころ、貴女の気持ちを放送してくれと頼まれ『子どもを失った母の悲しさと、戦争のない平和な世界への願い』を生まれて初めて放送しました。どこにどんな因縁があるかまったく判りません。とにかくその反響の大きいのにびっくりしました。これが慈母の会のはじまりなんです。』
そして、〈香織戦死す 昭和20年8月11日〉と題する白蓮の短歌を紹介している。

もしやまだ帰る吾子かと脱ぎすてのほころびなほす心うつろに

わが肩に子がおきし手の重さをばふと思ひいづる夏の日の雨

ただ一人ぬれそぼつらむ鹿児島の山のはざまの吾子のおくつき


おかげで白蓮という人の見方が深まった。

 
 
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事始め

2011年12月13日 | 日記
 夕方のニュースで、今日が“事始め”であること足しもを知った。祇園や各神社での新年に向けての動きが紹介されていた。たまたまではあるが私も今日から年末年始を意識して動き出した。一番整頓したいのは自分の部屋であるが、そのためには外掘りから順番にやっていかないとなぜかとりかかれない。1週間ぐらいかけてボチボチと片付けていこうと思っている。このあたりは仕事から離れたありがたみである。

 しばらく道路を走っていなかったので、夜に1時間走をやってみた。思っていたより楽に走ることができた。正確ではないが感覚的には8.5km~9kmの距離をいけたように思う。

 私は“復習タイプ”(行動してから考える)の人間に属するので、フルマラソンにチャレンジした後からランニングについて本を買って読んでいる。金哲彦さんの『ランニング・メソッド』である。体幹を意識した走りを強調されている。そのためには体の3つの部位を意識すべきであると指摘している。 ①肩甲骨 ②丹田 ③骨盤である。これらはランニングだけではなく声楽でも武術、伝統芸能などさまざまな分野に共通する重要な要素であるように思う。

 昨夜は“肩甲骨”をちょっと意識して書かれてあることを確かめてみた。なんとなくわかった気がする。丹田についてはフロイデでの発声練習以来かなり意識して取り組んでいるのでいいのだが、まだピンときていないのが“骨盤”。よくわからないがジムで“ピラティス”の講座もあるので参加してみようかと考えている。

“事始め”という響きは気持ちを前に向けさせてくれる。

 金さんは本の中で“5kmのレベル別推奨タイム”を紹介している。(5kmを何分で走ったかではなく、1時間で走った距離から5kmのタイムを算出するようにとのこと)

レベル  1km    5km     フルマラソン

初 級   8分    40分      約6時間

中 級  6分    30分      約4時間30分

上 級  4分    20分      約2時間50分

一 流  3分    15分      約2時間06分 

 何となく大阪マラソンに向けて、自分の感覚から設定した値と同じなので「よし よし」である。明日は“むくげ”の木の枝を切ることがメインとなる。

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“ことば”の重み

2011年12月12日 | 日記
 買い物のついでに本屋をブラブラしていると、ベニシアさんの書かれた『ベニシアの 京都 里山暮らし~大原に安住の地を求めて~を見つけた。

 ベニシアさんが折にふれて書かれたエッセイをまとめたもので、ご主人の梶山正さんが美しい日本語に翻訳されている。ちょっと時間が空いた時に読むのにほど良い長さである。本の中にある梶山さんの撮られた写真もなかなか良い。

 エッセイを読んでいると、ベニシアさんの生きてきた道のりが伝わってくる。BSの「猫のしっぽ カエルの手」を見て感じていたより、その歩みは平坦ではなかった。語られている言葉は平易だが、なぜか心に伝わってくるのは、言葉を紡ぎだすベニシアさんの人生の深みが源になっているからだろう。

 貴族の家に生まれ、イギリス中北部のダービシャー州にあるケドルストン・ホールと呼ばれる大きな屋敷に暮らしていた。写真があったが屋敷というよりは城である。領地が約6000エーカーとあるが、1エーカーは4046.9平方メートル・1224.2坪なので途方もなく広い。
 しかし、そこでの生活は幼い子供にとっては寂しいものだったという。6人兄弟の一番上で、生活のすべてはフランス人乳母に任され、母親と一緒の時間は一日の中で、おやすみのあいさつをする数分間だけであったという。両親は離婚していたので父親と会えるのもごく限られた時しかなかった。

 19歳の時、貴族社会に疑問を持ち、数人の仲間と中古のバンを買い、二ヵ月間かけてインドに着いた。そこで瞑想道場での生活を10ヶ月ほどした後に帰国する仲間と別れ日本に向かった。ひと時の旅のつもりが、いつしか日本での生活の中で多くの人と深く関わるようになり、来日3年目に日本人男性と結婚して3人の子供が生まれた。

 しかし、結婚して13年目に、どうにも折り合いのつかない問題から離婚を決め、36歳で3人の子供(12歳と11歳の娘と8歳の息子)を抱えたシングルマザーとなる。

 離婚してからの6年間は、ひとりで父親と母親の役割を果たそうとしたという。日本人男性と再婚するなど夢にも思ってなかったが、1991年に今のご主人である梶山正さんと出会った。梶山さんも離婚していたが、彼の子供を産んで新しい家族を一緒に作りたいと思い、再婚を決める。

 そして、息子の悠仁さんが生まれ、1996年から3人で今の大原の家での生活が始まった。映像は再婚して16年目の今の姿を映す。しかし、発する1つ1つの言葉は61年の人生から出ている。本の中にある響きの重いベニシアさんの言葉。

 Nothing in the world happens by chance.

Believe in your own journey through this life.

For me,life on earth is all about learning to grow as a person.



この世で偶然に起こることはない。

 あなたが進む人生の旅の道を信じて。

 私にとって、この地上での人生は、

 全てひとりの人間として、成長することを学ぶためにある。
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年末の恒例イベント「第九コンサート」

2011年12月11日 | 日記
 近所の人で、“大東第九をうたう会”に入っている人がいる。毎年、チケットをいただく。今年は2枚いただいたので私も行くことにした。会場の大東市立総合文化センター『サ-ティホール』までは車で20分ほどで行くことができる。
 第一部は高校1年生である星野勇輝さんのピアノでショパン作曲♪ピアノ協奏曲 第1番ホ短調 作品11♪。この曲は1829年に完成し、翌年にショパン自身の演奏により大成功したそうだが、その時のショパンは20歳。恋人である歌手のコンスタンティア・グラドコススカも一緒に出演してショパンはとても緊張していたと曲目解説にあった。2歳ほどしか変わらない星野さんのフレッシュなタッチでの演奏を聴きながら、当時もこんな感じやったんかなとも思った。

 都はるみの♪北の宿♪の出だしの「あなた かわりはないですか?」のメロディーは、この協奏曲のモチーフを使ったことはまちがいのない事実だろう。それだけ日本人にとっても心地よい響きとなって伝わってくる協奏曲である。

 第2部はおなじみベートーヴェン作曲♪交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」♪2年前のことも思い出しながら、年末が近いことを実感した。第1楽章から第4楽章までを通して溢れ出てくる苦悩と歓喜の響きを新鮮な感覚で聴いた。

 音楽でも、文学でも、その作品には作者を通じて時代が投影されている。1770年に生まれたベートーヴェンはフランス革命とナポレオンのヨーロッパ征服そして敗退、政治反動と復古という激動の時代を“自由で自立した個人”を貫いて生きた。1814年のウィーン会議を経てからのウィーンはヨーロッパの反動の中心としてメッテルニッヒ宰相による恐怖の思想・言論弾圧が吹き荒れ、ベートーヴェンの庇護者や友人の多くは獄につながれて行った。

 その弾圧の対象である詩に、曲をつけて謳い上げたベートーヴェンの芸術に対する思いは想像をはるかに超える強いものがあったのではないかと推察される。1822年、52歳の時からおよそ2年かけて完成し、ウィーンのケルントナートーア劇場で1824年5月7日に初演されて以来(日本での初演は1924年、それより6年前に徳島で第一次世界大戦によるドイツ人捕虜たちの演奏はある)200年近く演奏され続けてきた。

 それは時代や地域によって異なる形で現れてくるが、人間が生きていく上で避けることのできない“苦悩と歓喜”(昨日の談春は鬱と躁という表現していた)が支柱になっているからではないのだろうか。

 帰りの車の中から見た山から上がったばかりの月は大きく美しかった。「自分なりの1年の締めにとりかからないとな」と思った次第。
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落語と酒と満月に酔う

2011年12月10日 | 日記
  森ノ宮ピロティーホールでの立川談春独演会、初めて談春の落語を聴くので比べようがないので違っているかもしれないが、師匠の談志を亡くした喪失感が心の奥底に沈澱しているように思えた。

 談志については多くを語らなかった(否、語れなかった)が、喪失感の大きさは伝わって来た。よく“死んでも心の中に生きている”と言われるが、そのためには、その人の死を受け容れることが必要である。談春も最初にふれたが死に臨んでの儀式はそのためにあるのではないか。逝去を知らせる紙切れ1枚だけを受け取った談春にとっては、談志師匠の死を現実感のあるものとして受け容れていないということである。

 葬式を始めてとする儀式は死んだ人のためより残った人のためにあるのでは?

 つらい高座やなと感じた。しかし、落語はうまかった。『赤めだか』を読み終わった時と同じ心持ちになった。大いに笑って楽しんだのに哀しみが心に広がるという具合。2席、2時間の予定が3席を15分の休憩だけで入れて3時間を一人で演じきった。

 最後の演目の“ねずみの穴”は「大阪では何をやっても受けなかったのでやけくそにやったら初めて大うけした」と珍しく談志が話してくれたと枕をふっての熱演。時々、談春が談志に見えることがあった。

 開口一番「師匠の談志が死んで“躁”になっている!今日は長いよ。」と宣言したが、支柱がなくなり揺らぐと多弁になることと同じかなと思った。でもしゃべってもしゃべっても心は満たされず、次はむなしさが押し寄せ黙りこくる。「“躁”の次は確実に“鬱”が来る」とも言っていたが、それは真実である。

 来年は、神戸と大阪で12ヶ月連続独演会を試みるみたいである。半年ぐらい間をあけて聴きに行こうかなと思っている。喪失感を埋め、死を受け容れるのには時間が必要であろう。

 落語の後は、美味しい食事と酒。それに、満月しかも皆既月食付きという贅沢さ。あと3週間で2011年も終わり。1日ぐらいこんな日があってもいいだろう。

 
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