1月13日、長野・群馬の県境にある車坂峠(標高1973m)から入山し、黒斑山(同2404m)、蛇骨岳(同2366m)を4時間ほどかけて歩いてきた。
(地図をクリックすると大きくなります。)

これまで黒斑山には4回、蛇骨岳には1回、いずれも積雪期に登っていて、今回は自宅から日帰り可能な山として選んだ。
この日の天気予報では、朝夕が晴れで、正午頃が曇りとなっていた。道中、関越自動車道から浅間山がきれいに見えていて、期待が大きく膨らんだ。
さて、黒斑山は初心者でも登りやすい雪山として、雑誌などで度々紹介されている。また蛇骨岳は巳年の干支と絡んで、今年は人気が出ている。そのためハイカーの数は多いと予想していたが、その予想が当たり、私が到着した8時には駐車場がほぼ満車となっていた。何とか空いていた所を探してクルマを駐めた。
8時18分、車坂峠から登山開始。今回は最初からアイゼンを着けて歩いた。

標高を上げていくと左手に黒斑山が見えてきた。

この日は曇っていて写真は白黒画像のようなものがほとんどとなった。その中でたまに陽が差した時間ではカラーらしい写真が撮れた。正面に黒斑山が見えていた。

9時40分、標高2294mの槍ヶ鞘(やりがさや)に着いた時は、上空が雲に被われ浅間山は下半分が見えていた。この後晴れることを期待して先へ進んだ。

槍ヶ鞘からトーミの頭へ向かう登りは一番の急坂だが、短いのでいっきに登れる。汗をかかないようにゆっくり登った。

9時52分、標高2320mのトーミの頭に到着した。短い間に浅間山はまったく見えなくなっていた。

トーミの頭から黒斑山の頂がぼんやりと見えていた。

黒斑山を目指して登っていく。夏道を離れて浅間山に対峙した崖の上の道を歩いたが、まったく浅間山は見えなかった。
10時10分、黒斑山に着いた。小雪が降り始めていた。何も見えなかった。

(参考:これまでに黒斑山で撮影した浅間山の写真)
2020/02/01:

2019/12/21:

2018/01/19:

黒斑山の先の森の中でザックを下ろし、菓子パンとパウチの飲料で昼食を摂った。それほど寒くなくて良かったが、暖かい飲料を持参できなかったのは失敗だった。
天気回復の兆しはなかったものの、この後晴れるかもしれないと微かな期待を胸に、蛇骨岳へ向かった。
10時40分、蛇骨岳に到着した。辺り一面が真っ白だった。

蛇骨岳ではほとんど休憩をとらず、黒斑山へ引返した。
途中で一時青空が覗き、陽が差してきた。黒斑山の稜線が見えていた。

しかし浅間山が顔を出してくれることはなかった。
黒斑山の山頂を過ぎて、噴火監視カメラが設置されている近くで休憩した。10分あまりいたが浅間山が見える気配はなかった。
帰路は中道を通って、12時26分に車坂峠に戻った。
千葉への帰り道、遠くに富士山がきれいに見えていた。浅間山はどうかと振り返ると、半分ほどが見えていた。
(参考)
浅間山の成り立ちと噴火の歴史についてまとめてみた。浅間山北麓ビジターセンターの資料を基に要約すると、次のようになる。
①およそ10万年前に、標高2800mほどの成層火山(黒斑火山)ができた。
②およそ2万4千年前に、黒斑火山が大爆発し、山頂の東半分が山体崩落した。西半分は外輪山として残った(最高峰が黒斑山)。
③およそ2万年前に、新しい噴火とともに平たい山の仏岩火山が誕生した。溶岩円頂丘(溶岩ドーム)である小浅間山・離山(はなれやま)も、この頃に誕生した。
④およそ1万3千年前に、再び大噴火が起こり、大量の軽石と火山灰が噴出し、大規模な火砕流も発生して、浅間高原の広い大地が作られた。
⑤およそ1万年前から、前掛火山が成長を始めた。
⑥天仁元年(1108年)に大噴火し、追分火砕流、上の舞台溶岩流が流れた。山頂が陥没し、内側外輪山ができた(最高峰が前掛山)。
⑦天明3年(1783年)に大噴火し、吾妻火砕流、鎌原土石なだれ、鬼押出し溶岩流などにより、大きな災害となった。前掛火山の内側に中央火口丘ができた(釜山)。
なお現在、浅間山にはレベル2の火口周辺警報が出され、火口から概ね2kmの範囲へは立入は禁止となっている。そのため釜山や前掛山には登ることができず、到達可能な最高地点は黒斑山の2404mとなっている。
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これまで黒斑山には4回、蛇骨岳には1回、いずれも積雪期に登っていて、今回は自宅から日帰り可能な山として選んだ。
この日の天気予報では、朝夕が晴れで、正午頃が曇りとなっていた。道中、関越自動車道から浅間山がきれいに見えていて、期待が大きく膨らんだ。
さて、黒斑山は初心者でも登りやすい雪山として、雑誌などで度々紹介されている。また蛇骨岳は巳年の干支と絡んで、今年は人気が出ている。そのためハイカーの数は多いと予想していたが、その予想が当たり、私が到着した8時には駐車場がほぼ満車となっていた。何とか空いていた所を探してクルマを駐めた。
8時18分、車坂峠から登山開始。今回は最初からアイゼンを着けて歩いた。

標高を上げていくと左手に黒斑山が見えてきた。

この日は曇っていて写真は白黒画像のようなものがほとんどとなった。その中でたまに陽が差した時間ではカラーらしい写真が撮れた。正面に黒斑山が見えていた。

9時40分、標高2294mの槍ヶ鞘(やりがさや)に着いた時は、上空が雲に被われ浅間山は下半分が見えていた。この後晴れることを期待して先へ進んだ。

槍ヶ鞘からトーミの頭へ向かう登りは一番の急坂だが、短いのでいっきに登れる。汗をかかないようにゆっくり登った。

9時52分、標高2320mのトーミの頭に到着した。短い間に浅間山はまったく見えなくなっていた。

トーミの頭から黒斑山の頂がぼんやりと見えていた。

黒斑山を目指して登っていく。夏道を離れて浅間山に対峙した崖の上の道を歩いたが、まったく浅間山は見えなかった。
10時10分、黒斑山に着いた。小雪が降り始めていた。何も見えなかった。

(参考:これまでに黒斑山で撮影した浅間山の写真)
2020/02/01:

2019/12/21:

2018/01/19:

黒斑山の先の森の中でザックを下ろし、菓子パンとパウチの飲料で昼食を摂った。それほど寒くなくて良かったが、暖かい飲料を持参できなかったのは失敗だった。
天気回復の兆しはなかったものの、この後晴れるかもしれないと微かな期待を胸に、蛇骨岳へ向かった。
10時40分、蛇骨岳に到着した。辺り一面が真っ白だった。

蛇骨岳ではほとんど休憩をとらず、黒斑山へ引返した。
途中で一時青空が覗き、陽が差してきた。黒斑山の稜線が見えていた。

しかし浅間山が顔を出してくれることはなかった。
黒斑山の山頂を過ぎて、噴火監視カメラが設置されている近くで休憩した。10分あまりいたが浅間山が見える気配はなかった。
帰路は中道を通って、12時26分に車坂峠に戻った。
千葉への帰り道、遠くに富士山がきれいに見えていた。浅間山はどうかと振り返ると、半分ほどが見えていた。
(参考)
浅間山の成り立ちと噴火の歴史についてまとめてみた。浅間山北麓ビジターセンターの資料を基に要約すると、次のようになる。
①およそ10万年前に、標高2800mほどの成層火山(黒斑火山)ができた。
②およそ2万4千年前に、黒斑火山が大爆発し、山頂の東半分が山体崩落した。西半分は外輪山として残った(最高峰が黒斑山)。
③およそ2万年前に、新しい噴火とともに平たい山の仏岩火山が誕生した。溶岩円頂丘(溶岩ドーム)である小浅間山・離山(はなれやま)も、この頃に誕生した。
④およそ1万3千年前に、再び大噴火が起こり、大量の軽石と火山灰が噴出し、大規模な火砕流も発生して、浅間高原の広い大地が作られた。
⑤およそ1万年前から、前掛火山が成長を始めた。
⑥天仁元年(1108年)に大噴火し、追分火砕流、上の舞台溶岩流が流れた。山頂が陥没し、内側外輪山ができた(最高峰が前掛山)。
⑦天明3年(1783年)に大噴火し、吾妻火砕流、鎌原土石なだれ、鬼押出し溶岩流などにより、大きな災害となった。前掛火山の内側に中央火口丘ができた(釜山)。
なお現在、浅間山にはレベル2の火口周辺警報が出され、火口から概ね2kmの範囲へは立入は禁止となっている。そのため釜山や前掛山には登ることができず、到達可能な最高地点は黒斑山の2404mとなっている。