'ゆうゆう"と

 岩手の小さな街の山間から、自然やサッカーのこと、思うがままにゆうゆうと。話題を提供していきたいと思います。
 

一関藩

2010-12-26 23:59:13 | sinbou_san
 昨夜は、妻と忠臣蔵を見ましたが、何時見ても「大石内蔵助」の忠・誠・義・智には驚かされますね。
今の時代にないものがありますね。先日までの立役者を「証人喚問」「政倫審」挙句のはてに、離党勧告と時代は、延命策を考える。末期ガン状況の内閣で、自ら倒れた後の将来がなく、びっくりしています。
「大石内蔵助」のような部下を育てられなかった責任も大きいのかもしれませんね。

小沢一郎も涙を通り過ぎ、何も言うことなしだったと思いますが、最近では相当堪忍袋の緒が切れてる状態ですね。
 情けない世の中になった。してしまった責任の大きさを痛感しているでしょう。
テレビの中で、一関藩上屋敷で浅野長矩の切腹がありましたが、一関藩というより一関藩田村家というべきでしょうか。

私自身も、一関藩の歴史がわかりませんので、ウィキぺディアを参考に編集して見ました。
 一関藩は、仙台藩主伊達綱宗の叔父伊達宗勝(伊達政宗十男)が3万石の分知を受けてこの地に陣屋を置いたことに始まるが、伊達騒動により失脚しその領地は仙台藩に返還された。この時代は、一関伊達家。

 その後、田村家の再興のため、仙台藩2代藩主伊達忠宗がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。
宗良は、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となり、陸奥岩沼にて3万石の大名に列した。
建顕は宗良の子であり、外様ながら奥詰として将軍徳川綱吉の側近として仕えた。

 松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野長矩を預かり、江戸上屋敷(藩邸)内で切腹させたことでも知られる。
藩邸跡の日比谷通りの新橋四丁目交差点脇の歩道に、切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉之地」の石碑がある。
 これは、一関藩というより田村家時代の一関藩ということになる。
田村家菩提寺である祥雲寺には浅野長矩の供養塔がある。祥雲寺は、臨済宗ですね。

近くに願成寺がありますが、境内には、伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝公とその一族の墓があります。
一関伊達家ですね。こちらは、曹洞宗。
なんかよくわかりませんが。
 さて、今日、高校駅伝があり残念ながら一関学院は入賞できませんでしたが、達成感でいっぱいだったに違いありません。
今年も折り返し地点には、「パタパタ」がありましたが、陣取りがイマイチでしたね。
、親からの自立・自律を促す年齢ですから、ひとりでも多く応援団を参加させるべきと思います。
 支えるのは、親から友人になる世代ですからね。

大石内蔵助 辞世 「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。

頑張って行きましょう。