2000年の夏の画廊廃業後に、職安の紹介で第三セクターによる工業団地への企業誘致の仕事にかかわったが、これは中堅や中小企業のトップや幹部と面談する仕事で、面白かったしやりがいもあり、同期の中ではトップの実績も上げた。
循環バスがあることを知らずに、指定された臨海工業地帯の先端の会社まで、1日がかりで歩いて往復したこともあり、コンビナートの大きさを実感した。
この仕事では、私の技術者や管理職・幹部としての知識や経験が非常に役立ったし、同時に様々な製造業の業種の一端を垣間見ることが出来た。
(最初にUPした原稿では、私の勘違いで企業誘致と、このUSJの話の順番が入れ替わっていた。前年から続いていた企業誘致のプロジェクトが3月で終了する直前からの話である。)
企業誘致のプロジェクトが3月末で終了する直前の頃に、西天満の画廊回りをしていると、偶然画廊によく来られていたお客さん出会った。
その人の紹介で、USJ関係の期間限定の仕事で、コンピュータの入力関連の仕事をした。
そこでは、USJの舞台裏も見ることが出来た。
今思い出したが、USJ準備室がポートタウン(多分今の府庁の建物?で当時大阪市役所の部署が多く入居していた。)にあって、企業誘致の訪問先リストに指定されていた。
その場所に行ったが、当時事務所は移転後だった。(そのビルからの大阪湾の見晴らしはすばらしかった。)
当時、私はUSJが単なる外資系の中小零細企業のひとつと思っていた。
ところがその後オープンしたUSJを知り、その訪問先の会社が今のUSJジャパンであったことに気付いた。
USJの仕事を終えた後、職安を通じ、技術者として東大阪の2社のブラック企業?で技術者として働くことも経験した。
最初の会社では、契約社員のため、低賃金で残業手当も無く、夜11時までが当たり前で仕事をした。
その会社では、電子冷却等の設計開発関係の仕事もしたが、前任者の仕事の抱え込みその他でうまく進まず、一般の設計では、CADが使いこなせなかったため退社した。
(私が技術者だった30年近く前は、CADは非常に高価で、大企業しか使っていなかったので、CADの使用経験がなかった。)
その会社を退職後は仕事が無かったので、職安に相談して、ホームヘルパー2級の職業訓練を受け資格を取った。
資格取得後、ホームヘルパーの仕事を探したが、当時男はダメという事業所が多く、資格を陳腐化させないために、ある施設に頼んでデイサービスのボランティアを1ヶ月程させてもらった。
しかし、お金も無くいつまでもボランティアは出来ないので、介護の仕事をあきらめ、再び職安で技術者の仕事を見つけた。
その仕事は、東大阪の大手照明器具下請け会社での工場改善の仕事だった。
この会社でも契約社員のため残業休日出勤手当ては無く、日曜日も工場改善で出勤し、汚れを落とし塗装してピカピカに清潔にし、工場ラインを変え大幅な改善を図りラインの効率を良くしたにもかかわらず、新米のワンマン・独裁社長から理不尽なクレームを付けられ、怒鳴り散らされ、挙句の果て自己都合で契約期間終了とともにやめさされる始末。(やめる前の業績評価で、他の役員から私の改善業績が認められ、わずかな報奨金をもらったのがせめてもの救いだった。)
更に会社をやめるときには、会社都合でやめた形になっているのに、職安では自己都合で処理された。
(多分高齢者採用やトライアル雇用の補助金等もらっている可能性があるのかも知れない。社労士関連の会社に行って、補助金のことを知った。)
ブラック企業?で働いた後、保険や企業の業務支援をする会社で、正社員として社労士と共同して作業する営業関係の仕事を数年間した。
このとき数年かけて、雨の日も風の日も毎日スーツ姿で自転車に乗って、大阪市内から尼崎や伊丹市まで住宅地図を片手に、すべての中小零細企業(主に製造業関係)をしらみつぶしに訪問し営業した。
基本的には、毎日廻っている地区の駅の駐輪場に自転車を預け、朝はたまに会社で朝礼してから担当地区まで行くが、通常は家から担当地区へ直行し、自転車で一軒ずつ会社回りをし、帰りは電車で御堂筋にある会社へ戻り、成果を報告するという毎日だった。
このときも、営業でそれなりの実績を上げた。
そのほか、特殊な事例では、技術・経営管理の知識や経験を生かし、経営革新の仕事(当時は取得がかなり難しかった)も、元銀行員の社労士と協力して認定の支援に成功したこともあった。
その後、社労士と共同で行う仕事は、制度上の問題で、その仕事が続けられなくなり、退職し自営業を目指すことにした。
退職後、産創館の起業講座にも通い、企業経営の基礎や総合的(人、物、金、市場・ニーズ、販促)経営計画の立案を改めて勉強した。
当時は、起業し販売代行をしようと仕事に励み、多くの講習会や異業種交流会にも参加し、人脈を広げるため若手経営者の卵とも積極的に名刺交換した。
(多分今でも成功しているのは、ほんの一握りの人だけであろう。)
また、様々な商材を売ろうと商品関連のことを勉強し販売資料を作り、関係先に売り込みを図ったりして必死で努力したが、思うように実績は伸びず、B to B と B to C の違いを思い知らされた。
その後ネット販売を考え、資金不足のため、お金を使わずに自力である程度本格的なネットショップを構築し、販売代行を続けようとしたが、SNSが普及する直前でネット展開がうまく進まず、その間に自己破産してしまい、起業の夢は終わり、今に至っている。
今までずっと独身だったため(ずっと独身のためよく疑われ、又訊ねられますが、私は決して男色の傾向があるとか、女嫌いとか、病気があるわけではありません。心身共に健康な男で体力もあります。)、2000年より前に同居していた両親が他界してから一人暮らしになったが、逆に自己破産してだれも巻き添えにすることなく、身内や親戚や他人にも迷惑をかけなかったのが幸いであったと思っている。
古い資料を見て、ふと2000年から今までの経過をいろいろ思い出したので、資料を引っ張り出しながら概要をメモした。
思い出すと、この間のそれぞれの時期の面白い体験はいろいろあるが、気が向けば書いてみたい。
循環バスがあることを知らずに、指定された臨海工業地帯の先端の会社まで、1日がかりで歩いて往復したこともあり、コンビナートの大きさを実感した。
この仕事では、私の技術者や管理職・幹部としての知識や経験が非常に役立ったし、同時に様々な製造業の業種の一端を垣間見ることが出来た。
(最初にUPした原稿では、私の勘違いで企業誘致と、このUSJの話の順番が入れ替わっていた。前年から続いていた企業誘致のプロジェクトが3月で終了する直前からの話である。)
企業誘致のプロジェクトが3月末で終了する直前の頃に、西天満の画廊回りをしていると、偶然画廊によく来られていたお客さん出会った。
その人の紹介で、USJ関係の期間限定の仕事で、コンピュータの入力関連の仕事をした。
そこでは、USJの舞台裏も見ることが出来た。
今思い出したが、USJ準備室がポートタウン(多分今の府庁の建物?で当時大阪市役所の部署が多く入居していた。)にあって、企業誘致の訪問先リストに指定されていた。
その場所に行ったが、当時事務所は移転後だった。(そのビルからの大阪湾の見晴らしはすばらしかった。)
当時、私はUSJが単なる外資系の中小零細企業のひとつと思っていた。
ところがその後オープンしたUSJを知り、その訪問先の会社が今のUSJジャパンであったことに気付いた。
USJの仕事を終えた後、職安を通じ、技術者として東大阪の2社のブラック企業?で技術者として働くことも経験した。
最初の会社では、契約社員のため、低賃金で残業手当も無く、夜11時までが当たり前で仕事をした。
その会社では、電子冷却等の設計開発関係の仕事もしたが、前任者の仕事の抱え込みその他でうまく進まず、一般の設計では、CADが使いこなせなかったため退社した。
(私が技術者だった30年近く前は、CADは非常に高価で、大企業しか使っていなかったので、CADの使用経験がなかった。)
その会社を退職後は仕事が無かったので、職安に相談して、ホームヘルパー2級の職業訓練を受け資格を取った。
資格取得後、ホームヘルパーの仕事を探したが、当時男はダメという事業所が多く、資格を陳腐化させないために、ある施設に頼んでデイサービスのボランティアを1ヶ月程させてもらった。
しかし、お金も無くいつまでもボランティアは出来ないので、介護の仕事をあきらめ、再び職安で技術者の仕事を見つけた。
その仕事は、東大阪の大手照明器具下請け会社での工場改善の仕事だった。
この会社でも契約社員のため残業休日出勤手当ては無く、日曜日も工場改善で出勤し、汚れを落とし塗装してピカピカに清潔にし、工場ラインを変え大幅な改善を図りラインの効率を良くしたにもかかわらず、新米のワンマン・独裁社長から理不尽なクレームを付けられ、怒鳴り散らされ、挙句の果て自己都合で契約期間終了とともにやめさされる始末。(やめる前の業績評価で、他の役員から私の改善業績が認められ、わずかな報奨金をもらったのがせめてもの救いだった。)
更に会社をやめるときには、会社都合でやめた形になっているのに、職安では自己都合で処理された。
(多分高齢者採用やトライアル雇用の補助金等もらっている可能性があるのかも知れない。社労士関連の会社に行って、補助金のことを知った。)
ブラック企業?で働いた後、保険や企業の業務支援をする会社で、正社員として社労士と共同して作業する営業関係の仕事を数年間した。
このとき数年かけて、雨の日も風の日も毎日スーツ姿で自転車に乗って、大阪市内から尼崎や伊丹市まで住宅地図を片手に、すべての中小零細企業(主に製造業関係)をしらみつぶしに訪問し営業した。
基本的には、毎日廻っている地区の駅の駐輪場に自転車を預け、朝はたまに会社で朝礼してから担当地区まで行くが、通常は家から担当地区へ直行し、自転車で一軒ずつ会社回りをし、帰りは電車で御堂筋にある会社へ戻り、成果を報告するという毎日だった。
このときも、営業でそれなりの実績を上げた。
そのほか、特殊な事例では、技術・経営管理の知識や経験を生かし、経営革新の仕事(当時は取得がかなり難しかった)も、元銀行員の社労士と協力して認定の支援に成功したこともあった。
その後、社労士と共同で行う仕事は、制度上の問題で、その仕事が続けられなくなり、退職し自営業を目指すことにした。
退職後、産創館の起業講座にも通い、企業経営の基礎や総合的(人、物、金、市場・ニーズ、販促)経営計画の立案を改めて勉強した。
当時は、起業し販売代行をしようと仕事に励み、多くの講習会や異業種交流会にも参加し、人脈を広げるため若手経営者の卵とも積極的に名刺交換した。
(多分今でも成功しているのは、ほんの一握りの人だけであろう。)
また、様々な商材を売ろうと商品関連のことを勉強し販売資料を作り、関係先に売り込みを図ったりして必死で努力したが、思うように実績は伸びず、B to B と B to C の違いを思い知らされた。
その後ネット販売を考え、資金不足のため、お金を使わずに自力である程度本格的なネットショップを構築し、販売代行を続けようとしたが、SNSが普及する直前でネット展開がうまく進まず、その間に自己破産してしまい、起業の夢は終わり、今に至っている。
今までずっと独身だったため(ずっと独身のためよく疑われ、又訊ねられますが、私は決して男色の傾向があるとか、女嫌いとか、病気があるわけではありません。心身共に健康な男で体力もあります。)、2000年より前に同居していた両親が他界してから一人暮らしになったが、逆に自己破産してだれも巻き添えにすることなく、身内や親戚や他人にも迷惑をかけなかったのが幸いであったと思っている。
古い資料を見て、ふと2000年から今までの経過をいろいろ思い出したので、資料を引っ張り出しながら概要をメモした。
思い出すと、この間のそれぞれの時期の面白い体験はいろいろあるが、気が向けば書いてみたい。