散歩者goo 

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昨日記121207金(9/2晴 ジム ランニング 29分間 走行距離4.6km )

2012年12月08日 13時28分44秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
今まで昨日記を書きながら、その場で思いついたことをつらつらと書いてきた。

121206で美術史に絡んだ感想もその一つであるが、その感想はある意味非常に不正確である。
例えば、美術史という観点からすると流れを完全にはしょっているのは間違いなく、バロックやロマン派や印象派や抽象絵画の同時発生的発生のきっかけとか、キュビズムやダダ以降の現代の様々な流れといった美術史の流れと、写真の影響は簡単に語れないことは言うまでもないが、大きい目で見れば、絵画と写真や動画を含む映像技術との関係性はいろいろ議論されてきた。
いまや、平面のみならず、IT技術は超精密立体の複写やデータ入力による制作も可能にしていて、美術の分野では彫刻も平面と同様の芸術的問題が発生するであろう。
こうした議論では、芸術の本質が問われる。

少なくとも、一つの有力な見方としては、芸術はコミュニケーションであるという見方だ。
コミュニケーションである限り、そこには、表現者と鑑賞者の存在が不可欠である。
そもそも、芸術は人間の存在なくしてありえない。
その人間は、自然の産物で、地球環境なくしては存在し得ない生命体である。
人間は、脳によって外界を認識していて、その認識が人間同士共通のものとして認識や情報を共有し集団を作り、言語を基本として様々な情報を言語のかたちで保存した。
さらに人間は、言語の蓄積保存で時空を超えて体験を共有し、文化文明を生み出し、その中から更に医学、法律、科学技術、文化芸術芸能を生み出したのだ。
このように考えると、芸術は、人間の創造した頭の中の世界の一つで、その基本は内面の表現でありコミュニケーションである。
その意味において、大きくくると写真や動画とその他PCを駆使した画像表現も同列に見る見方もあるだろう。
そのような立場(パラダイム)のものから見れば、過去の絵画表現は、歴史的価値=骨董品の価値ということになる。(岡本太郎の富士山の八の字芸術論にも関連する。?)
無論価値観が違えば違った見方になることは、言うまでもないが、人間の価値観は、自然科学と違って、各人、風土、民族で異なっていて、絶対ということはありえない。

今までこの昨日記に上記のようなことや、政治や科学もここに書き込んだ。
当初はそうした議論は、個別のブログにする予定であった。
過去の昨日記から、少し掘り下げて考えたことを見つけ出そうとすると困難であることが分かった。
今後、このような話は、当初の予定通り、それぞれのカテゴリーとして書きたいと思う。
ただ、昨日記が昨日の行動記録になると、外出しない場合は、一行で終わるので、出来るだけ日常生活の感想を書いていくようにしたい。


さて昨日は、昨日記を書きながら、上記のような議論が絡み始め、書く内容が複雑になり、かつ、先ほど書いたようにはしょって書いても、複雑になり午後も含め、多くの時間を費やしてしまった。
結局、必要最小限の食材の買物を済ませた。
間の時間は家事(調理や片付け)が待ち構えていて、結構時間がかかる。
どうしてもランニングをしておかないと、来週の火曜日までブランクが空くので何とか時間を作ってジムに行った。
とにかく、準備運動も抜きで、29分間走った。
時速9.7kmで10分間、時速9.5kmで19分間、計29分間約4.6km走った。
本当は、できる限り時速9.7kmで走ろうと思っていたが、10分が限界だった。
疲れはあったが、直ぐに回復した。
昨夜、眠りについてから、下半身に熱を持ち下半身がほてったが、沈静化。
その後、今朝は、ぐっすり寝込み目覚めは8時50分ごろで、寝覚めは爽快だった。

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12月7日(金)のつぶやき

2012年12月08日 02時06分19秒 | 携帯メール投稿・つぶやき twitter

昨日記121206木(12/3晴 西宮市大谷記念美術館 上前智祐展・BBプラザ 現代絵画のいま・兵庫県美 ) goo.gl/DW56V


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