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昨日記121206木(12/3晴 西宮市大谷記念美術館 上前智祐展・BBプラザ 現代絵画のいま・兵庫県美 )

2012年12月07日 16時44分50秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日は、案内状をいただいたり、チケットをもらったりしたので、以前から予定を組んで西宮市大谷記念美術館とBBプラザ美術館で行われている上前智祐展に行くことにした。

昼食を速めに済ませ、大急ぎで出かけた。
西宮市大谷記念美術館へは、何度か行ったことがある。
「40周年記念 フランス vs 日本 近代絵画」が開催されていた。
美術館所蔵の近代美術作品を、人物 静物 風景に分類して展示してあった。
こうした、近代の作品を見て特に日本の作家に関しては、骨董品的古さを感じた。

美術・芸術の本質とは何かを考えた。
中世まで、人類は芸術の概念が無かった。
古代の世界は、すべての芸術は、神への捧げ物だった。
皆で楽しむ踊りや音楽でさえ、神や先祖への感謝や祈りの表現であったり、部族間の団結を高めたり作業歌であったりした。
神を賛美・奉仕する芸能から、人間中心の芸術に変化するのは、ルネッサンス以降、近世になってからだろう。

ただ、西洋哲学の源流であるギリシャローマでは、美について議論されたが、「美」と現代において使われている「芸術」とは同一ではないだろう。
表現や存在や芸術ということを考えると、単なる美の議論だけではすまない。
現代では「芸術」の中に、表現者と鑑賞者の関係性が含まれていて、ある程度双方の共通のコードが必要であり、哲学的にはコミュニケーンの一形態と考えられているのではないか。

また、美の意識も、各個人の実存的背景(例、宗教、気候、風土、民族、伝統、社会階層、教育レベル・・・・)で全く異なる。
例えば、同じ日本人ですら、伝統芸能の雅楽や浄瑠璃のよさは、多くの人が分からないと思われる。
国や、気候風土が違えば、お互いのコード(紐解き理解するための文法文脈といったキーになるもの・価値)が違うので、同じ文化を共有している人同士は良く分かるが、お互いに違う文化を持っている人たちの間では、学習しないと理解し、感情移入したり、感じることはできないのだ。

近代の美術は、ルネッサンス以降の哲学の影響も大きく受けているようだ。
日本を含む西欧以外の地域では、西欧文明を受け入れ、近代哲学や西欧の価値観を理解するまでは、芸術という概念すら無かったのではないか。
因みに、日本で芸術という言葉は、明治時代に西周によって意味を付加されたという。
それまで、日本では美術も技だったのだろう。

そうした中にあって、明治以後西洋絵画を受容し、ヨーロッパ美術を模倣し追いつこうとした日本の画壇は、多くの美術団体を作り、競い合ってきた。
その結果、団体上層部の意向に沿ったよく似た傾向の作品がたくさん作られ、現在も続いている。

人類は、写真を開発する前までは、自然主義等の影響で物語や神話を描いた作品と並び写実も芸術だった。
少なくとも、絵画は特権階級のもので、その中に肖像画や室内装飾のための風景画や静物画も含まれていた。
しかし、写真が開発され、絵画はその存在や芸術性を問われ、様々な具象系絵画が発生し、抽象絵画も誕生した。

現代では、IT技術により写真も動画も満ちあふれ、その意味で映像画像を見慣れている現代人にとって、写実絵画(風景・人物・静物)とは何だろうという疑問を持った。
無論、美術の基礎技術としての写実は分かるし、絵画の中に駆使された技術やこめられた意図も理解できるが。・・・


話が変な方向に走ったが、元に戻そう。
西宮市の美術館の庭園は、美しかった。
思ったより早くみ終えたので、BBプラザに行こうと阪神電車に乗ったが、下車駅を間違え大石駅で降りた。
なんとなく周囲の風景が、以前見た風景と違うので、案内状を見ると岩屋駅下車であった。
慌てて道を引き返し、阪神電車で岩屋駅に向かった。

阪神沿線の兵庫県立美術館に行く途中にあるBBプラザ美術館で開かれている上前智祐展に行った。
上前さんは、ギャラリーで何度かお会いしたことはあり、先生は私のことを覚えておられないだろうが、私にとっては身近な作家でもある。
上前さんについて、具体に加入する前のことは断片的にしか知らなかったが、今回上前さんが具象を描いていた頃の情報も初めて知った。

上前さんの作品をみながら、なんとなく安心感とか開放感を感じた。
西宮の美術館で、具象作品を見ていたときとは、全く違う刺激的な感覚を肌で感じた。
その差はなんだろうと問い続けた。
写実絵画に特徴的な技巧にこだわる姿勢が、映像技術が一般化した現代では、単なる写実であれば、PC上の映像で再現できるよううになり、画像としてみた場合、絵画で描写技術にこだわる意味がなくなり、多くの人をあっと言わせる感動がなっているのかもしれないと感じた。
その点、現代抽象絵画では手描きの痕跡そのものも作品の重要な一部になる。
上前さんの展覧会を見終えて時間があったので、兵庫県立美術館に行くことにした。

兵庫県立美術館では「現代絵画のいま」を開催していた。
西宮の美術館から上前さんの作品、そして現代美術と駆け巡ってきた。
「現代絵画のいま」の様々な作品を見ながら、大きな型にはまらない開放感と、知的興奮を覚えた。
現代美術は、空間も含め具象絵画とは、はるかに違った複雑な知的作業を必要とするものもあるし、見たまま笑えるものもある。
なにより見ていて面白い。

昨日は具象絵画と現代絵画を見てきたが、その違いがなんとなく見えてきた。
だが、現代美術については、簡単に一まとめでくくることは出来ないし、いろんな方向性があるので、作品を見る場合にはそのパラダイムなり文法・文脈で見なければしっかりとした面白さが伝わらないのも事実だ。
その点、この展覧会では、作家ごとに数行程度の短い解説がしてあるリーフが渡されるので、理解しやすい。
今回具象絵画と現代絵画を見比べて、改めて実感したことは、少なくとも現代絵画では、どう表現し描くといった表現の技法(フォルム、色、マチエール)ではなく、何を描き伝えるのかが重視されることが分かった。

例えば、何もない空間だと思っていたら、薄く枠が書いてあり、その中に非常に小さなドットで絵を描いているとか、一見ただの風景画に見えるが仕掛けがあったり、部屋一面の大絵画でそこに人物の顔や姿があったり、絵が解けて流れたり、とにかく見ていて面白いし、刺激が伝わってくる。

3つの展覧会を見て、改めて近代美術と現代美術の差や芸術について考えさせられた。

帰りに京橋のダイエーによって、冬物の衣類を見て廻った。
今日も室温が10度を切り、底冷えがする。
もう少し防寒対策を強化しなければと考えている。
昨日は、歩き回って少し疲れた。

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12月6日(木)のつぶやき

2012年12月07日 02時04分04秒 | 携帯メール投稿・つぶやき twitter
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