散歩者goo 

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昨日記121209日(7/3晴 古代学研究会シンポジウム )

2012年12月10日 16時41分47秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日は,以前から参加を予定していた古代学研究会シンポジウムの日だ。
参加には、会員であるとか予約が必要といった制限はない。
ただ開催が朝10時と早い。

いつもどおり起きて朝食中にご飯を炊き、一昨日に切らしてしまった、ご飯を炊いて10食分程をラップに包み冷凍した。
この作業には時間がかかる。

その後、大急ぎで家を飛び出し、会場の大阪歴史博物館に向かった。
寒く風も少し強くて冷たかった。
会場で、駐輪場探しに苦労し、警備員に聞いてやっと駐輪場の場所を知った。
遅れて会場の受付に向かった。
会費を払い立派な資料をもらった。
「集落から探る古墳時代中期の地域社会」―渡来文化の受容と手工業生産―
というタイトルで180ページプラス数十ページゲラ刷りの資料だ。
そこには15本余りの学術論文が収録されていて、そのうち半分程度が大会で報告されるようだった。
会場内に入ると若い人が多く、いつも行っている古代史の会(多分今週末行く可能性あり)のように中高年は少なかった。
明らかに、大学や教育委員会や遺跡調査会の研究者・専門家の人達だ。
休憩時に、彼らがお互い挨拶したり、自分の論文?のコピーを渡したりしている光景があちらこちらであった。
30年以上前にも、この会に入会して毎年4回送られてくる論文集を読んでいたが、当時はそれほど本格的に読んでいなかったので、今の方がはるかに知識は深まっていると思っている。

古墳時代中期というと5世紀前後で、ここで堺の百舌古墳群や羽曳野の古市古墳群が作られた頃だ。
この頃を境に古墳の埋葬の仕方とか、様々なことに、大きな変化が出てくる。
同時に、この時期は朝鮮との関係が、深くなる時期でもあり、それは日朝の文献にも出てくる。
特に、韓半島南部との係わりが注目されている。
今回のシンポジウムでは、その時期の韓半島からの渡来人(多く来ている)がどのように定住し、集落を作ったかとか、日本の大王や豪族達が、渡来人を配置したか(例:陶邑窯跡群(すえむらようしぐん)、それとも自分の意思で来たのかをどう見分けるのか、といったことも遺跡、遺物の中から考えようというものであった。

渡来人は、土器のみならず、様々な鉄関係を含む様々な手工業を日本にもたらしている。
詳細は、昨日記の範疇を超えるので省略するが、大王と渡来系集団の関係を含め非常に興味あるシンポジウムであった。
特に「韓半島系土器のありかたからみた集落分類」(中野咲・中久保辰夫)の中で提示された「韓半島系土器の受容過程による集落類型」という手法の提示は画期的だと思った。
この件に関し、後の会場とのディスカッションでいくつかの問題点が指摘されていて、確かにその指摘は、当を得ている。
しかし、今まで倭人と渡来人の集落の状態(混じり具合や同化度)を客観的にしめす指標が無かったが、その事をある程度、遺物から定量的に計測し客観的に判断しようという手法の開発は評価されて良いし、今後更に議論や応用をし、精度を高めることにより、より正確な当時の政治・経済・軍事を含む社会像を、考古学の面から検証できると思う。
昨日のシンポジウムは朝10時から夕方4時半まで昼の50分の休憩を挟んでびっしりと続けられたが、参加して本当に良かったと思ったし、内容も非常に充実していた。
注目されることは、発表者の多くが、若手研究者であった。
日本の考古学は、いまや発掘件数の増加と研究者の多さと研究の緻密さで、世界的にも非常に高いレベルにあるという人もいる。
今回の研究発表を見てもそのことが感じられる。

ここでは、邪馬台国といった類の話は一度も出てこなかった。
物から地道にその時代を語らせる手法は、警察の捜査にも似ている。
推理小説の松本清張が、考古学にのめりこんだのも、物から人や社会や出来事を語らせるという、構造的に同じ部分があるからではないだろうか。

このシンポジウムの後、時間があったので、以前行ったことのある本町近くの散髪のチェーン店に寄ってみたら、待ち客が無く少し待っただけで散髪できた。
帰りは再びよく通った産創館の前を通り、上町台地を登り、以前よく行ったことのあるファストフードでお茶を飲み、一休みしてから帰宅した。

帰って、食事するには早いので、7時過ぎからプールに行きトータル6-700m泳いだ。(400m完泳)

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12月9日(日)のつぶやき

2012年12月10日 02時02分20秒 | 携帯メール投稿・つぶやき twitter
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