散歩者goo 

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昨日記170215水(美術評論を読む 食材購入 ジムで筋トレ)

2017年02月16日 12時40分34秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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午前中フェースブックの投稿記事の中で、ニュースサイトニューズウイークの中の長文の美術コラム記事が気になり、読んだ。
各コラムは8千字から1万字近くあり、外来語も多く使われていて、たまにわからない語句を調べたり、知らない作家のことについて調べたりして、読むのにかなり時間をとられたが、いい勉強になった。

読みながら考えたのだが、以前から主張していることでもあるが、美術というのは作品を直接見ることで成立する視覚芸術である。
音楽の場合は、音響装置を使ってかなりの部分まで再現できるが、美術の場合は、作品の質感やスケール感や展示環境(造形やインスタレーションでは環境も作品の一部となる可能性がある。)が問題となり。きちんと作品を鑑賞する場合は、展示している場所に行って作品と、対峙する必要がある。
従って、美術の世界的流れを知ろうとする場合、できるだけ多くの作品を観る必要がある。
ということは、それだけ作品を観るためには、それだけの場所を訪問する必要があるということになる。
画集やネット等である程度の議事鑑賞はできるが、音楽鑑賞の場合と比較すると、美術の場合は本質的な表現の要素を印刷物や映像では十分な鑑賞できないのだ。(質感、立体感、スケール感・・・・)
美術作品は、世界各地で膨大な数日々生み出されているに違いない。
そうした物をすべて見ることはできないし、日本に限っても、首都圏や大都市圏では、作家の数やギャラリー数も多く、その一部を、作家のファンといった人間関係とか、評論家からの評価や情報とか、ギャラリーのレベルを信じて多数開かれている展覧会中の一握りの展覧会を観に行っているに過ぎないのだ。
そうしたことを考えると、美術の流れや全体像を知ることは難しいと思った。
そのように考えると、音楽ですら無数の楽曲が日々生まれている。
そうしたことを考えると、我々は芸術のごく限られた分野の限られた地域のごく一部を鑑賞しているに過ぎないと言えそうだ。

午後にネットの通信状況を調べていて、WiFiのネットが、我が家に設置されたルーターでは2回線のいずれかを使っているが、1回線しか表示されていなかった。
調べてみるとスマホとメインPCのそれぞれに違う回線が使用されていて、ルーターには今まで通り2本の回線が来ていて、スマホとめいんPCでそれぞれ、回線を分け合っていることが分かり、問題は解決した。
そもそも事の発端は、このときスマホの画像をメインPCのクラウドに画像をアップしようと調べ出したことから調べて判明した。
結局画像は、私の操作ミスでアップできなかったことに気付き、その後正常にクラウドにアップできた。

その後、昨日記を書き投稿してから、副食の食材の買い出しに出かけ、3軒のスーパーを回り、1時間以上費やした。
今回は買い物数が、比較的少なかったので1時間で済んだが、購入する食材の多い時は、数回家とスーパーを往復することになるので、2時間ぐらいかかることもあり、大きな時間的肉体的負担でもある。

夜になってジムに行き筋トレを行ったが、トレーニングする人が多く、腹筋関係のトレーニングができなかった。
結局トレッドミルが空いていたので1.5km近くをトレッドミルで走った。
このとき時速9kmから11kmで走った。
ところで、同じ時に腹筋をしようと考えていたのだが、新顔の女性の仲良しコンビは、おしゃべりしつつ休んだり考えたりお互い助け合ったりしながら、トレーニング器具を占有して時間がかかり、腹筋が出来なかったので、ほほえましくなごむが多少迷惑でもあった。
少し待てば終わったが、急いでいたので、腹筋をせずに帰った。

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