神足勝記は、大正6年に御料地測量事業の完成を見て退職を決意し、辞表を提出しました。
辞表全文は『神足勝記日記』483ページ下の5月30日の注に挙げておきましたが、その主要部分は「過般来病気に付き加療罷在候処、今に全治不仕、何分執務に堪へ兼ね候間、・・・」です。
これについて、同時に提出された「診断書」に、病名が「慢性気管支加答児〔カタル〕」とあり、それを説明した部分には「明治42年以来、寒冷の時期に感冒に罹り易く・・・本年2月以来・・・再発、・・・容易に全治の見込無之・・・」と書かれています。
神足が蒲柳の体質の持ち主であることは、日記を編纂したものとして知っていましたから、とくには違和感はありませんでしたが、しかし、「こういう医学判断になるのか」、とは思ったものです。
ところが、『進退録』(御料局などの職員の採用・退職・異動・昇叙などの記録を綴じた簿冊:宮内公文書館蔵)を見ていて、不思議に思ったことがあります。それをいくつか紹介することにします。
(1)H・K氏は、大正6年に20歳の頃に職員講習試験を受けて雇員に採用されました。当時の高等小学校卒ほどの学歴で、職歴ほとんどなかったと見られます。その後、名古屋支局で働き、大正10年依願退職します。
細かいことを措いて、「退職願」と同時に提出された「診断書」を見ると「脳神経衰弱症」とありました。
最初、私は、本当に脳神経を患っているのかと思いましたが、見ていると、ほかの人でも、類似名の「神経衰弱症」とか「脳神経衰弱」というのが結構あるのです。
この意味するところをまだ突き止められてはいませんから、推測ですが、病気でもないのに、「生涯一職業に専念できない」で「中途退職するのは頭がおかしい」という判断に見えます。
これは、この当時はそういう判断が一般的だったのかどうかわかりませんが、今でも、変わったことや犯罪を犯すと、頭がおかしいとか、狂人扱いの判断をすることがありますから、興味深いところです。
実際、「家業の都合」とか、「老親の孝養のため」などという場合は、「慰留した」が「事情やむなく」という判断が書かれているようです。
(2)M・K氏は、昭和15年に東京帝大農学部林学科を卒業して、技手〔ぎて〕として採用され、木曽支局に配属されました。その後、2年従事して、17年に依願退職します。25歳です。
この人の「診断書」を見ると、「神経衰弱症」でしたが、そこには付箋があり、「三菱系東山農事会社に入り南方へ赴く予定」と記されていました。
そうすると、この場合の「神経衰弱症」の意味はどういうことでしょうか。
「安全な御料地で働くことを止めて、危険な南方へ行くなど正気の沙汰でない。神経が衰弱している」
といっているようにも解釈できますが・・・。ひょっとして反戦?
(3)T・I氏は、愛知県の安城農林学校林科を卒業し、技術雇員として採用され、木曽支局に配属されます。その後、13~15年は徴兵され、16年~18年の間、最初は技術雇員として、のちに昇進して技手補〔ぎてほ〕として従事します。そして、18年8月に依願退職します。26歳です。
そこで、その辞表をみると「胸部疾病、脚部不具」とあります。これは自分で書いたものでしょうけど、その実際のようすがよくわかりません。そこで「診断書」にどうあるかを見たところ、つぎのようにありました。
「右背部育管(肺胆損傷)、両大腿軟部育管、右下腿腓骨骨折兼右腓骨神経損傷、手榴弾破片創」
徴兵でケガをしたようですけど、詳しいことはわかりません。でも、おもしろいですねえ。どんな様子なのか、見てみたいです。
(4)S・T氏は、明治39年愛知県立農林学校を卒業して、1年間小学校の先生をやり、のち樺太庁で働いて、43年に技手として名古屋支局に採用されます。その後、61歳で技師に昇給して同時に依願退職します。50代くらいで退職が多い時代に、61歳まで在職したのは長期です。
この人の「退職願」をみると、
「61歳と相成候処、近年健康を害し、専ら摂養を要し候条・・・」
とあります。いまのように定年ではないのですね。でも、ほとんど年齢的に限界です。
こういう人の場合はどうかというと、「診断書」に
「心臓冠状動脈硬化症」
とあります。この説明も読んでみますか?
「体格中等度、栄養稍々衰ふ、呼吸器尋常、心音稍々不純〔ママ〕にして規則的ならす、時々衝心様発作ありて、胸内苦悶甚しく、次第に高進して就寝時も発作を見るに至る」
どうですか。おもしろいですね。
まだ、これから検討する所ですが・・・。こういうことも含めて、人までよく見ないと、御料局や後の帝室林野局の動向はつかめません。
前途程遠し 思いを北桔橋門の夕べの雲に馳す
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