泣かせる味に会いたい MONODRAMA 五箇山編/The BERICH
ぼくは
本田健さんの
著作を渉猟してきた。
そして
好きなことをすることにした。
毎日がボランティア活動である。
しかし
社会貢献と趣味
投資と消費の違いは
厳密には
よく分からない。
何となれば
私的に
ディズニーランドに行くことは
その方の心身の健康につながり
会社で
いつもけんかばかりしていたのが
穏やかな人物に変貌すれば
お客様や取引先の好感を上げ
売り上げ向上に貢献するからだ。
つまり
厳密に
掛け捨ての消費というのは
あまりない。
要は
ペイが発生するか否かは考えず
好きな興味のあることを
するのである。
ぼくは
物書きに
なりたかったので
なった(ブロガー)。
正直
いくつか文学賞に応募しているが
棒にもはしにも掛からないので
ここで
ショートショートを書き
政治哲学や森林学の自説を述べることにした。
しかし
以外にも
出口なおの御筆先の如く
際限なく文字が
溢れてくるのである。
ブログは
考えを整理するのにも役立つので
芸術的なgooブログをお薦めします。
♯welovegoo
高橋(アマブロガー)
近代の特徴は
構造主義
制度主義ともいえる。
システムや
明文化が完成すれば
人間が
幸福になるという説である。
しかし
むかしは
無文字文明であり
政治社会システムも
時々の指導者の
才覚、カリスマに
左右された。
だが
指導者の才覚や恣意に
翻弄される
政治は駄目なのか。
ギリシャの僭主政
ローマ帝国の暴君
始皇帝
ナチス
大日本帝国といった
悪い事例ばかり参照するから
駄目なのではないか(それが近代政治システムの動機)。
むしろ
卑弥呼
推古天皇
聖徳太子
神農氏
黄帝
堯舜
二宮尊徳
上杉鷹山
前田正甫公を
参照すれば
良いのである。
すなわち
悪人は目立つが
偉人は
轍跡なしで
目立たないのだ。
本物の経営者
ウォルマートの社長は
いつも
軽トラに乗っており
普通だったのだ。
明君を戴くためには
それに相応しい
国民になり
麒麟鳳凰が現れ
布袋さんや大黒さんが活躍する
穏和な日本を作るしかない。
いつの世にも
神がかった聖なる人物はいるが
周りの人々の人間力により
活かせるか否かが
決まる。
日本国民が
見識と人格を陶冶し
朝鮮や中国
ロシア、アメリカ
世界の人々と
仲良くすれば
近代の政治的な杞憂は
雲散霧消するのであります。
おわり
高橋
今般の安保法制等の
国政の変化に対して
民間公益部門は
如何なる社会貢献が
出来るだろうか。
本来
政府の定義は
政府及び公益団体を
指すようだ(ひるおび)。
よって
既に
NPO法人や公益法人は
政府なのである。
自ら非政府と称する
無意味な謙虚さは
要らないのだ。
元々
本会が
任意団体からNPO法人に移行したのは
貧乏なため
最適な公益法人として
NPO法人を選んだのである。
そして
敢えて
政治的なイデオロギーや
宗教活動を客観視し
世俗的な事業、ボランティアに特化した感じが良かったのだ。
ぼく個人は
60年安保を
はじめとする
左翼学生運動(民青及び中核・革マル・革労協、並びに全学連・全共闘等)や
伝統右翼及び新右翼(葦津珍彦、三島由紀夫、野村秋介、鈴木邦男氏の著作を渉猟した)を
不断に研究してきた。
その上で
自ら政府にならむと
野望したのである。
最近のデモ等を拝見すれば
かつての活動家世代
団塊世代が
昔の情熱に回帰しているように
見える。
プラトンは
次善の策(最悪のパターン)として
民主主義
大衆の多数決を
取り上げたに過ぎない。
近代の啓蒙主義が
敢えてその説(ギリシャ人の政治的センスは今も昔も低い)を取り上げたのは
カトリックの意思決定システムが
優れたるを知悉した上で
各国の王権を毀損するためであり
(大衆を煽動するレーニンのイメージ)
フリーメイソンリー及びイルミナティー等の世界政府組織は
イエズス会の如く
トップダウンの縦社会である。
話が
脱線したが
要するに
直接民主主義や
間接民主主義は
いずれも
最適な指導者がいない
ユダヤ人以外の異邦人世界を
想定した(だらにした)
政治システムなのである。
結論を言えば
学識と見識を高め
日本の王権(天皇陛下)を
輔弼し
政府になって
国政に参画するまでである。
高橋(ベンチマーク・CFR)
本会の
地域福祉の
概念に込められた
重要なメッセージの一つは
被差別問題の解決である。
おそらく
この問題は
法律と制度
解放運動団体においては
解決済みと
見なされているかもしれない。
関西では
同和教育が必須だが
他の地域では
どうだろう。
ぼくの
現時点での私見では
差別問題の本質には
聖なるものへの嫉妬と
愛情の枯渇がある。
芸術や芸能
外国人(渡来人)は
中世、室町までは
むしろ
普通に尊敬されていた。
王座と祭壇の崇敬と
同じメンタリティーとして
である。
突出した美貌の人が
歌や踊りを披露する。
新たな宗教を携えて
大陸から渡来する
異邦人。
王権を担保する
王の尋常ならざる
武勇と知略。
崇高な理想と
それを実現する
人徳と人望を持った聖人・上人。
刑場に勤め
介錯をせねばならぬ
仕事。
葬祭に関わる
聖なる人。
聖なる箒をもって
居住まいを掃き清める清掃人。
それらの役を遂行する人々は
尊敬されていたのだ。
にも拘らず
何ゆえに
差別と抑圧の対象に転じたか。
それは
近代社会に至り
人間の目が曇ったからだ。
聖なるものを
直観し
尊いものとして
認識することから
遠ざかったのだ。
ある意味
古代、中世までの人々の
眼は
真実を認識していた。
いつから
目が曇ったか。
いくさ、暴力の世に
転落してからだ。
昨今のいじめも
本質は同じである。
本当は仲良くなりたかった聖なる人。
それが叶わぬと分かったとき
人は
反対に差別と攻撃性を露呈する。
原初の情念は
苛烈な愛情の枯渇からくる
求愛なのだ。
これは
暴力の起源でもあり
あらゆる虐待と
テロリズムの
深奥に横たわる
昏い情念である。
好きな人に
辛く当たるのは
人間の性であり
業である。
なぜ
近代は神を否んだか。
それは
神の愛を求めている
証左である。
高橋記
古くなって
壊れるから
新しいものを新調できる。
最近の日本や世界の
情況は
混乱と混沌であり
考えても
訳が分からない。
よって
寧ろ
一人静かに
瞑想し
只管打坐するのが
賢明である。
今大事なのは
静寂と沈黙である。
テレビばかり
見ていても
真実が観えなくなる。
昔のような
趣のある番組は
少ないので
精査していい番組だけを
観るべきだ。
そして
テレビは
インターネットに
吸収され
公益に資することのない
番組や放送メディアは
激しい荒波に呑み込まれ
その船が
泥船であったことに
気付くだろう。
高橋(シングルメディア)