戦後七十年。
今日の日本の繁栄は
ひとえに
高齢者の皆様の
努力と忍耐の賜物でございます。
国民を代表して
深く感謝申し上げます。
高橋(晴の国民の祝日にて)
戦後七十年。
今日の日本の繁栄は
ひとえに
高齢者の皆様の
努力と忍耐の賜物でございます。
国民を代表して
深く感謝申し上げます。
高橋(晴の国民の祝日にて)
ぼく
個人は
デモには参加しない。
そして
参加したことはない。
何となれば
フランス革命やロシア革命において
王座を崩壊に導いたのは
まぎれもなく
デモが発端だったからだ。
それは
むかしの百姓一揆だからだ。
バスチーユ監獄に向かったデモ隊は
暴徒化し、フランスを地獄絵図に陥れた。
すなわち
それは
暴力革命論の
戦術のひとつなのだ。
仮に
デモの主張に正義があるとしても
現在の政治ルールは
議会制民主制である。
つまり
議員になるか
ロビー活動をするか
陳情か請願をするか
国家公務員になるか
公益事業コンサルティングをするか
言論活動をするか
であろう。
この世は
ゲームだとすれば
やはり
ルールを守らなければ
公平でない。
現代は
近代の制度、ルールである。
近代のルールで
勝ち
新たなルールを作るまでだ。
正義を性急に実現せんとする
営為が
良い実を結んだためしがない。
良いものは
カタツムリのように進むそうである(ガンジー)。
高橋(歩み牛歩の如し)
孔子さまは
堯、舜の時代や
周の時代が良かったと
現状を憂い
嘆いていた。
よって
仁義礼など徳の大切さを
訴えた。
しかし
よく考えれば
同時代に名宰相の晏嬰がいたのであり
孔子さま自身
歴史に名を残し
長きにわたり東アジアの道徳の柱となった。
つまり
この時代にも
偉大な人物となりうる
原石のような人がいるのだ。
ただ
一般大衆や
周りのひとが
それに気付かず
原石のまま
野に埋もれ
宝石のように輝く機会を
失っているだけだ。
田中角栄総理。
吉田茂総理。
野田総理。
枝野幹事長。
政党は
関係ない。
その時
トップの役を担う人々を
一般国民は
応援し
有り難き幸を
感謝し奉ったか。
どこかで
いつか
偉大な政治家や指導者が
現れるだろうが
今ではない
と思い込んでいないか。
今から
橋下市長をはじめ
偉大な人物の
原石たる方々が
澎湃と世に出てくるだろう。
野田総理が現れたとき
仏様のようだと
誰もが
一度は思ったはずだ。
おそらく
それぐらいの徳を持っておられたに
違いない。
あの時
私達国民は
仏様を信じきる必要があったのだ。
国民が
渾身の気持ちで
支え
感謝するならば
奇跡は起きた(はずだ)。
すなわち
今
安部総理は
弥勒菩薩になりうるのである。
それは
私達国民の
安部総理に対する
信頼
感謝
愛にかかっている。
高橋(菩薩行)
旧約聖書に描かれている古代ユダヤ人は
他民族と
戦争(聖戦)ばかりしていた。
キリスト様(ユダヤ名ヨシュア)が
現れ
非暴力を唱えられ
自らもそれを貫かれたので
キリスト教が出来(しゅったい)した。
しかし
キリスト教の教父
アウグスティヌスあたりから
現実やギリシャ的な知に
妥協し始め
限定的な戦争を
正しい戦争として容認した。
トマス・アクィナスに至り
正戦は
理論的に確立された。
すなわち
正しい戦争の条件が充たされれば
存分に戦争しても善いとされた。
しかし
異教徒との戦いは
何の制約もない
残酷な天使のテーゼであった。
オランダのグロティウスは
宗教戦争に明け暮れる
ヨーロッパを救うため
正戦の条件を少し厳しくして
平和実現を図ろうとした。
しかし
フランス革命や第1次、第2次世界大戦は
宗教に向けられていた十字軍的熱狂が
国家という頼りない主体に向けられた
全体戦争となり
正戦もなにもない修羅場と化した。
すなわち
現下のイスラム過激派とされる組織の
言動と同じである。
現在の
カトリック教会は
ヨハネ23世の回勅「パーチェム・イン・テリス」以降
正戦の概念を否定して
対話協調を再確認された。
今
西欧人の心の奥底に沈潜する
正しい戦いという
昏い情念の残滓に
火を着けんとする
エリートの野望があるならば
その過ちを
明確に指摘せねばならない。
高橋(地上の平和)
ぼくは
基本的に貧乏なので
あまり
移動はできません。
しかし
却って
沈黙と静謐のうちに
思索が深まって参りました。
又吉さんが
貧乏なときに読書をして
自らを深めたようにです。
ぼくの最近の研究テーマは
過去と現在の指導者のあり方
もしくは
どうすればこれから
偉大な指導者を戴く社会ができるか
です。
かつて
神農氏や黄帝
堯、舜、禹が
中国で素晴らしい活躍をし
聖なる指導者となれたのは
個人のカリスマだけでなく
民百姓の心が
素直で純粋だったからではないでしょうか。
一方で
平将門公や
西郷隆盛公の
周辺の人々
社会の空気観は
どうだったのでしょう。
つまり
指導者の聖性が完全に発露されるには
周りの人々も
応援し協力する気持ちを
持ったほうがよいと
思います(気持ちだけでも)。
現在の国政は
安部総理が指導されています。
安部総理を
社会がどう評価しても
総理には
役徳があり
国民は決定には従う必要があります(従順の徳)。
すなわち
アイデアを献策したり
諫言するのは
臣下の務めであり
倫理的にも正しいと思います。
しかし
国民が
「駄目や」という思いや
批判の念を抱くと
やはり
良くないと思います。
天の声は
選挙ではっきりするので
とにかく
指導者を
国民が支えていく姿勢が
大事だと思います。
日本が
もし
他国に誇れるとしたら
王権を
品のない形で革命しなかったことだと
思います。
ぼくが
晏嬰を尊敬するのは
使えた3代の君主は
暗愚だったにも関わらず
忠節を貫いた点です。
つまり
もし仮に
日本に素晴らしい人が現れて
総理になっても
今の国民の醸し出す空気では
その聖性や才覚を活かせるか微妙だと思います。
日本には
ビートたけし氏や中田英寿氏などの
立派な人物がいますが
日本国民は
彼らの才覚、カリスマを活かせていないと思います。
国民が
みんなで頑張り
聖なる人が増えていけば
安部総理も
いい方向に変貌されると
思います。
高橋(草莽崛起)