かつて、中学校に勤めていたことがありました。
その頃は、バブルが崩壊した頃で、どんどん雇用などが厳しくなっていった時代でした。
がんばっても、努力しても、優秀な生徒でも、働ける機関がない。夢も人生設計も立てられない。
ある年までは、その子たちに関する無力感で、非常に心を痛めておりました。
が、ある学年を担任したとき、その考えは変わりました。
非常に、人を「なめきった」、ありていに言えば、「荒れた」学年を、卒業まで担任したのです。
今思い出しても、彼らの価値観に一石を投じることもできずに卒業させてしまったことが悔やまれます。
都合の悪い話は聞かない、人当たりはよさそうだが、お互いの内面には食い込まず、表面では争わず、陰で悪口を言い合う。しかも相当ひどい。クチは達者だが、コモンセンスというものを無視しようとしている。真面目は叩かれ、服装を含め、全て、ゆるんでいることによって自分にむちを打たず、回りから期待されないようにしている。
…表面上は、一部を除き、それなりの中学生活を送っている彼らでしたが、内面はかなりすさんでいました。
こんな甘ったれの生活が続くはずないじゃないか。先輩たちを見てみろよ。非常に厳しい雇用の中で現実と戦っているぞ。
と話しても、わかってもらえるはずがありません。
5年後、彼らが成人式のとき、会場で彼らを見かけました。残念ながら、ほとんど変わっていませんでした。
で、あれから2年。
世の中、求人ラッシュです。当時の私には、7年後の現在を予想する力はなかった。あの学年の子たちは、「生活科元年」いわゆる、本格的なゆとり教育が始まった年の入学生です。
世の中と人をなめきったまま、あの学年の子たちは社会人になっていく。
いやだなあ。あと10年もすれば、あの子たちに日本を託してしまうのか。
…と愚痴ってみました。もちろん、あの学年の全てがあんな状態でなかったことは言うまでもありません。立派な子たち、たくさんいます。
ただ、あれから7,8年たっていますが、やはりあのあたりの世代は、どことなく、自分の都合のために、極力コモンセンスの重要性から逃げている世代のように思えます。まあ、品性と謙虚さががないと言えばしっくりくるかな。
なぜあの世代の子たちに、試練は待っていないのだろう、と、複雑な心境になります。しかし、同時にもっと重要なことに気づきます。
それは私たちの世代です。おそらく、私たちもそういわれてきた世代に違いない。
最も日本中の中学校、高校が荒れた時代に私たち(正確には、少し後輩たち)は育ちました。中学、高校を無法地帯化して責任は取らずに卒業し、大学に入った頃は「女子大生ブーム」。就職すればバブルが待っていて、やりたい放題。
生まれて初めて自分の思うようにならなかったものが、自分の産んだ子ども。子どもにはひどく当たり、入学させたあとは、いわゆる「モンスターなんとか」と呼ばれるような保護者になっている。
責任は取りたがらないから、PTAの役員をやることには、命がけで抵抗する。こんな私たちに、あの子たちは似ているのかもしれません。
さあ、私たちも、「やりにげ散らかし世代」から、「責任もって後始末世代」へと変わっていかなければなりません。そして、世代レベルとして徳を積み、いずれやってくる老後に、人々から愛されるだけの資格をもてるようになりましょう。
その頃は、バブルが崩壊した頃で、どんどん雇用などが厳しくなっていった時代でした。
がんばっても、努力しても、優秀な生徒でも、働ける機関がない。夢も人生設計も立てられない。
ある年までは、その子たちに関する無力感で、非常に心を痛めておりました。
が、ある学年を担任したとき、その考えは変わりました。
非常に、人を「なめきった」、ありていに言えば、「荒れた」学年を、卒業まで担任したのです。
今思い出しても、彼らの価値観に一石を投じることもできずに卒業させてしまったことが悔やまれます。
都合の悪い話は聞かない、人当たりはよさそうだが、お互いの内面には食い込まず、表面では争わず、陰で悪口を言い合う。しかも相当ひどい。クチは達者だが、コモンセンスというものを無視しようとしている。真面目は叩かれ、服装を含め、全て、ゆるんでいることによって自分にむちを打たず、回りから期待されないようにしている。
…表面上は、一部を除き、それなりの中学生活を送っている彼らでしたが、内面はかなりすさんでいました。
こんな甘ったれの生活が続くはずないじゃないか。先輩たちを見てみろよ。非常に厳しい雇用の中で現実と戦っているぞ。
と話しても、わかってもらえるはずがありません。
5年後、彼らが成人式のとき、会場で彼らを見かけました。残念ながら、ほとんど変わっていませんでした。
で、あれから2年。
世の中、求人ラッシュです。当時の私には、7年後の現在を予想する力はなかった。あの学年の子たちは、「生活科元年」いわゆる、本格的なゆとり教育が始まった年の入学生です。
世の中と人をなめきったまま、あの学年の子たちは社会人になっていく。
いやだなあ。あと10年もすれば、あの子たちに日本を託してしまうのか。
…と愚痴ってみました。もちろん、あの学年の全てがあんな状態でなかったことは言うまでもありません。立派な子たち、たくさんいます。
ただ、あれから7,8年たっていますが、やはりあのあたりの世代は、どことなく、自分の都合のために、極力コモンセンスの重要性から逃げている世代のように思えます。まあ、品性と謙虚さががないと言えばしっくりくるかな。
なぜあの世代の子たちに、試練は待っていないのだろう、と、複雑な心境になります。しかし、同時にもっと重要なことに気づきます。
それは私たちの世代です。おそらく、私たちもそういわれてきた世代に違いない。
最も日本中の中学校、高校が荒れた時代に私たち(正確には、少し後輩たち)は育ちました。中学、高校を無法地帯化して責任は取らずに卒業し、大学に入った頃は「女子大生ブーム」。就職すればバブルが待っていて、やりたい放題。
生まれて初めて自分の思うようにならなかったものが、自分の産んだ子ども。子どもにはひどく当たり、入学させたあとは、いわゆる「モンスターなんとか」と呼ばれるような保護者になっている。
責任は取りたがらないから、PTAの役員をやることには、命がけで抵抗する。こんな私たちに、あの子たちは似ているのかもしれません。
さあ、私たちも、「やりにげ散らかし世代」から、「責任もって後始末世代」へと変わっていかなければなりません。そして、世代レベルとして徳を積み、いずれやってくる老後に、人々から愛されるだけの資格をもてるようになりましょう。
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