疾風というべきか,西へ東へ動いている.
金曜日は岡山で講義をしたのち,
次年度から実習施設でお世話になる「岡山リハビリテーション病院」へ.
ゼミ生の小川が就職を決めた.
勉強会に遅れて入り,
症例の運動を現象学的にみて,
認知神経科学的に病態をとらえた.
やはり後頭連合野に問題があり,
そこから導き出される,運動の変容を神経科学からとらえ,
治療仮説を述べた.
4~5つの視点を述べ,
それらの仮説を臨床で検証しないといけない.
嵐のようにしゃべったので,解釈できないしれないが,
僕はそれほどに複雑に考えている.
物をつかめることができればいいじゃないかと終わってしまえば,
進歩がない.
なぜ,あのような異常運動になるのかを深く洞察する「知識」が臨床のセラピストもいると思うし,
それを教える教員が必要だと思う.
教育力が問われる時代だが,
これほどまで学校が増え,
深く,自分に鞭をうち考えている教員が少なくなっているのも事実かもしれない.
「人生すべて勉強である」
ということばを小学校の担任から送られたが,
勉強は自らでするものだとつくづく思う.
他者に援助をもらうことはあっても,
最終的には自分自身の細分化する能力だと思う.
「理学療法とは何か」「作業療法とは何か」と問われ,
通り一辺倒な回答しか導くことができないものは,
プロフェッショナルではない.
プロフェッショナルとは,情報を細分化するものであると思う.
ウルトラマンはウルトラマンとまとめず,
ウルトラマン●●●と細分化するには,
そのものに興味.関心がないと難しい.
ウルトラマンエースはなぜ最初男女が合体して変身していたのか?
ウルトラマンレオはなぜいじめられたの?
ウルトラマンタロウは父と母のこともだが,
それ以外はどんな関係なんだろう?
そして,どうしてウルトラセブンだけ,マンがぬけているのか?
彼は男なのか?
など,興味・関心があれば,どんどん細分化できていく.
僕は今,ウルトラマンに興味を持っているわけでなく,
これはあくまでも少年時代の記憶である.
このウルトラマンの細分化のように,
理学療法も細分化していく機能系が必要だ.
音楽を細分化するように.
僕はベーシストなので,
ベースの音は相当に細分化できるし,
音を聞いただけで,指先の運動イメージをリアルに再現できる.
これはベースという物体だけでなく,
普段座っている椅子の細分化も同じだ.
そこから得る情報は?物理的なものであり,
椅子にアクセスしているのではなく,もっと物理的な素材や空間である.
つまり,それは身体に知覚できるものを細分化しているのである.
言語獲得以前に運動が獲得できる赤ちゃんの発達からしてもそれは妥当であるし,
その身体知覚は右半球が行っている可能性が高い.
だから,大人の脳(脳卒中後)はその身体知覚に目を向けることができない.
目先の出力をエピソード記憶(言語的バッファ)から優先してしまうきらいがある.
だから回復が乏しい仮説も考えられる.
いずれにしても「リハ」の専門家はもっと深い洞察が必要であると
最近つくづく思う.
目先のデータに踊らされるようにも思う.
自分の眼力,洞察力をもっと鍛える必要がある
アーティスティックに.
そんなことを岡山でも感じ,
栃木県理学療法士会で講演している最中に皆さんの表情をみて感じた.
宇都宮は餃子祭りであり,
日光はお日柄もよく,
外国人観光客であふれていた.
ジャズがそこらかしこ演奏されていた.
餃子,カクテル,ジャズの町,宇都宮.
途中,ローカル線にのったが,
4つの車両の3つまでは電気だったが,
1両だけが,ディーゼルだった.
音の知覚と,車両の屋根の違いからそれを認知(仮説だてた)した.
私の注意機構は「赤ちゃん」にも匹敵するのか?
な~んて自意識(過剰)をもつと,
それをコントロールしている自分にも出会う.
私の脳はいつもいろんな現象に敏感に反応してしまい,
大変疲れる.
しかし,脳はつながっている.
注意をはたらかせるのにもトレーニングが必要だと思うし,
それもプロの魂である.
帰りは5つの電車を乗り継ぎ,
鹿沼~宇都宮~東京~名古屋~八木~五位堂と・・
5時間半もかかるが,車だと何時間かかるのだろうと想像し,
8時間ならカナダにいけるな.とも思った.
時間と空間とは実に面白い.
しかしGを受ける体は,時間よりも空間に敏感に反応するらしい.
以前にピーコがいっていた.
栃木のプラットフォームにたち,
自分は栃木県士会の仕事をしているが,
研究室のメンバーは今頃
近畿学会で発表を無事にしているだろうか?
そして,北海道の歩行分析研究会でも無事に発表しているだろうかとふと心がよぎった.
帰りの新幹線で浜松駅をすぎたときに,
浜松医大で実習した日々を思い出し,
仕事で浜松に来ていた母親と再会した記憶がよみがえった。
50キロぐらいしかない体重だった私の当時の写真が,
母親の部屋にあり,
すねた表情の自分が憎らしいと通夜のときに思った。
駅をすぎると,遠州の風のように母親の姿があらわれきえていった。
自然と涙腺がゆるんだ。
さて昨日は「篤姫」で坂本龍馬が死にました.
坂本龍馬を見て,
エチカの鏡を見たら,
自分のこころが清らかになり,
そして,まだまだ全力投球すべきとも思った.
無欲に勝るものなし.
人は人を喜ばすために生まれてきた.
龍馬の水が自分にも流れているのなら,
自意識過剰にならず,
日本国のためにとはいえないが,
愛すべきものと、ひとのために、とは言えるのかもしれない.
そのような年にやっとなりつつある.
エレファントカシマシの宮本の歌が身にしみる.
ひさしぶりに
ダイアナロスを聞いた。
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