百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

七草粥と砂糖粥

2013年01月07日 17時21分46秒 | 随想

 

歩 い て 世 界 一 周  1月7日月) 曇

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

15,540

10,550

 

今  月

114,764

69,457

16,537

今  年

114,764

69,457

16,537

2005年から

2,938

41,433,483

28,992,560

14,102

70歳の誕生日から

6,470

123,383,619

86,357,655

19,070

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 939,425m

 今日は七草粥の日。正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわるように、今日は冬には不足する春の七草が入ったお粥を食べて一年の無病息災を願う習わしは、中々的を射た知恵だと思う。近頃はスーパーなどで七草のセットものを簡単に手に入るようになったので大方の家に普及しているようだ。

 わが家の今年の七草粥は、ナントおじやであった。お粥とおじやの違いは何か。お粥はお米から炊いて作ったもの、おじやはご飯を緩めて炊いて作ったものというのが世間一般の定義のようだし、お粥はうす塩の味、おじやは味噌や醤油で味付けされても居るようだし、お粥は七草粥を除いては余り具は入って居ないのが一般的で、おじやは色々な具が入っているのが当たり前のようだ。

 七草粥で忘れられない思い出がある。母親が亡くなって飯山の【オババ】に育てられていた私は10歳の時、おやじが住み込みで働いていた浅草小島町の金物屋に居候として住むことになった。その正月の7日、七草粥ならぬ砂糖粥が出されたのだ。真っ白なお粥に自分で好きなだけ白砂糖を掛けて食べるのだ。こんな美味いものがこの世にあるのかと思った。白砂糖など口にした事さえ初めてだし、こんな贅沢な食べ物があるのかさえ知らなかった。三時にはおやつが食べられるのさえ、夢のような暮らしと思って居た頃のこと、こんな贅沢な勿体無い朝飯があるのかと思ったので今でも忘れられない。

 そこで、七草の日に、真っ白なお粥に白砂糖を掛けて食べる習慣が東京にあったのか?今もその風習は残っているのか?あれは夢で実際は私は食べて無かったのではないか?などいくつかの疑問が私の頭の中にこびりついて居たので、iphoneで検索して見た。

 〇 外国人からの甘いお粥についての質問に、「日本ではご飯に(お粥)に砂糖を混ぜる習慣はありません。(中略)日本ではお粥には梅干しが定番です。

 〇 甘酒の事でしょう

 〇 基本的に日本ではお粥は塩を入れてしょっぱくして食べるのが一般的だとおもいます。

そこで、今度はパソコンで検索して見た。

 ◎ ここで正月7日に「白砂糖をお粥にかけて食べる」記事をついに見つけたので転載させてもらいます。平山敏治郎「七草粥に白砂糖」(『民俗学の窓』昭和56年・学生社刊)からのダイジェスト掲載の後篇です。

 〇 ところで今年もわが家では、正月七日の朝に七草粥、十五日の朝には小豆粥を祝った。わたしの恒例の粥祝いは、白砂糖を鉢に盛り上げ、これを適宜に粥に振りかけて食べることになっている。ものごころついて以来、家族揃ってこのようにしてきた。わが家の仕来たりであったから、別に珍しいことをしているとも思わず、しごくあたりまえの食作法としか考えなかった。
 ところが大学生になってはじめて京都に来て、この家風が実はかなり異風であることを、いやというほど思い知らされた。
 米の粥に砂糖をかけて食べるなど、聞いただけでも見ただけでも、いやらしいという人に、たびたび出会った。しかしわたしの古いかすかな記憶をたどると、妹が産まれたとき、母が産後の養生食いに、粥に白砂糖をかけているのを見て、ねだって食べたこともある。それほど、粥と砂糖は切って離せない。
 ところがあるとき、日本橋の旧家出身者に会って正月粥のことを話したら、彼も近所の知り合いも、みな粥に白砂糖をかけるという答えが、即座に返ってきた。そのときのわたしの感動、うれしさは何にたとえようも知らない。
 池田弥三郎さんも『私の食物誌』の「一月七日のななくさの話題」に書いている。「わたしのうちなどでは、別に植物類のたきこみもしなかった。ただ、さとうで味をつけた『おかゆ』であった。あまりおいしくもないので、大抵いっぱいでごめんをこうむった」…>
◎ 参考:池田先生の生家は、東京銀座のテンプラ屋「天金」

◎平山先生はこの異風の食習慣に思いをめぐらす。これらを思いあわすと江戸時代、国産の白砂糖、四国は阿波・讃岐地方でようやく産出された三盆白(和三盆)は高価であり、豪奢品でもあった。身分制にあぐらをかいていた侍も多くが貧乏で、貴重な白砂糖など口にすることができなかった。そこで経済力豊かな富商たちは、ひそかに家族だけで魅力的な甘味に舌鼓を打った。威張るばかりで無力な侍たちを馬鹿にしながら。また砂糖は薬でもあった。新年の甘粥は、江戸の富商にとって、一家繁栄の象徴の祝いであったようだ。

 私が「お粥の白砂糖をかけて食べた」というのは夢ではなくてホントだった。しかも江戸の昔から富商の一家繁栄の祝であったことを知ってホッとした。そう言えば、御婆ちゃんと孫が上野の松坂屋へ出かけて行く時は、母親は必ず火打ち石をカチカチとならして身の安全を祈っていた。豊かな商家の伝統を伝えて居たんですネ!