歩 い て 世 界 一 周 1月30日(水) 小雪
日 数「日」 |
総歩数(歩) |
総距離(m) |
平均歩数(歩) |
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今 日 |
16,559 |
11,590 |
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今 月 |
30 |
493,477 |
345,434 |
16,446 |
今 年 |
30 |
493,477 |
345,434 |
16,446 |
2005年から |
2,961 |
41,812,196 |
29,268,537 |
14,121 |
70歳の誕生日から |
6,493 |
123,762,332 |
86,633,632 |
19,061 |
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 674,326m
十八史略 「韓信拜大将」の項に「俛出股下」があった。読んで行く中に、韓信の股くぐりの話と判った。韓信はエライ人物だということは知っていたが、詳しいことは何も覚えて居ないので、そこから調べ出した。
淮陰人韓信、家貧、釣於城下、有漂母見信饑、信。信曰:「吾必有厚報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎!」淮陰屠中少年有侮信者、因衆辱之曰「若雖長大、中情怯耳。信能死刺我;不能死、出我胯下!」信熟視之、俛出胯下、蒲伏。一市人皆笑信怯。
韓信は淮陰の生まれで、家は貧しく、幼いときに両親を失ったそして韓信は空腹を満たすため、地元を流れる淮水という河で魚を釣っていたが、洗濯物をしていたある婆さんが、彼は腹をすかしていると知って、持参してきた弁当を彼に食わせ、このようなことが数日続いた。韓信は非常に感動して婆さんに「いつかはこの恩をちゃんと返しますからね」といった。ところが婆さんはこれを聞いて怒り出した。「あんたは男なのに自分すら養えないから、こうしてあんたに飯をあげたんだよ。始めから恩を返してもらうなんて考えてないよ」。これには韓信、顔を真っ赤にし、きっと出世して見せると心に誓った。
韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみな!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。
出世した韓信は、空腹の時に世話になったあの老婆を呼んで、大金を与えて感謝の意を表したという。また股くぐりをさせた青年を呼んだ。青年は復習を覚悟していると、韓信は「お前のお蔭で立ち上がることが出来た。感謝する」と言ってお礼にの金子を渡したという話も伝わっている。
実は韓信は謀に非常に長けた人物だった。当時は時勢が変わるときだと見て取った韓信は、いつかは出世する道が開けると確信し、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。紀元前209年、各地では秦王朝に反抗する農民蜂起が起こり、韓信はそのうちかなりの勢力を持つ蜂起軍に加わった。この蜂起軍の首領は、漢王朝の建国皇帝劉邦だったのだ。ところで韓信、初めのころは食糧と飼料を運ぶ係りを命じられ、志を得られず、毎日くさっていたが、のちに劉邦の策士である蕭何を知り、いつも時勢や兵法を論じていたので、蕭何はこの韓信が非常に才能のある人物であることを悟り、劉邦に彼を極力推薦したが、当の劉邦は韓信を重用しようとはしなかった。
ある日のこと、ここでは出世できないとあきらめた韓信は黙って劉邦の蜂起軍を離れ、他の蜂起軍を頼って行ったが、これを知った蕭何は、韓信を連れ戻すことを劉邦に告げず、馬に乗って韓信の後を追った。劉邦はこのことを知り、二人は逃げた思ったが、数日後に蕭何が韓信をつれて戻ってきたので大喜び。「蕭何や、どうしたのじゃ?」と劉邦は聞くと、蕭何は「あなた様のために人を追うかけていったのですよ」と答える。「これまで逃げ出した武将は数十人もいたが、その方、韓信だけを連れ戻したのはどうしてじゃ?」「これまで逃げ出したは、そこらにいるつまらん人物ばかりでしたが、韓信は得がたい奇才ですぞ。天下をお取りになさるには、韓信以外に頼れるものはおらんでしょう」。自分が信じきっている蕭何がこういうものだから、劉邦は「では、そちの下で武将をやらせよ」というと蕭何は「只の武将だけでは、韓信はここには残りますまい」と勧める。そこで劉邦は、「では、奴を大将軍にしよう」ということになり、韓信はこのときから、元の食糧飼料運びから一躍大将軍となり、その後は劉邦が天下を取る過程で、勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。
韓信の大胆不敵で恐れを知らない行動に主君の劉邦も己の身の危険を感じたので、処罰されたとも言われています。不幸にも主人にまで警戒されるほど、韓信の頭脳は明晰だったのでしょうか。