blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

スキがないのも

2022-04-03 18:33:05 | 日記
3月のアタマから作業補助者として高齢の方をお招きしていることは書いた。
いよいよ繁忙期に差し掛かり、人員に余裕もない中でいかにスムーズに戦力になっていただけるかで管理者と一緒になって様々な策を講じてきたのは既報の通りである。

ところが、考えたものをいろいろやっていけばいくほど自発的とは反対の方向になってしまい、お世辞にも不安がないとは言えないまま月をまたぐことになった。
急遽話し合いを持ち、彼らが今まで腹の中にため込んでいたものは吐き出せてはもらえたが、感情的なしこりが取れたから、言いたいことを我々にぶつけられたからといって彼らの仕事が上達するわけではない。

時間の制約などを考え、いわばカンペのような資料まで作って支援した結果が不満や批判や罵詈雑言というのは我々にとってやりきれないの一言である。
では、ここまで不満をため込まれた原因は何だったのか私なりに考えた結論はこうである。
「我々の資料や指導プランが一分のスキもないものだった、それがかえって悪かった」のだと。

よく大学生くらいの若い人が通り魔的な無差別殺傷行為に及ぶ事件が何年かに一回は必ず起きる。
こういう事件を起こす人の家庭はさぞやすさんだものかと思いきや、大概は表面的には「立派」な家庭であることが多い。

両親がともに社会的には地位の高い職業に就いているケースが分かりやすい。
特に親が子どもに自分の後を継がせたいと強く思っている場合、子どもはけなげだから幼少から親の圧力を感じながら懸命に努力する。
しかし最大限の努力をしても望む結果が得られず悩むところに、親が輪をかけてさらに圧を加える。
どれだけがんばっても自分は親の域まで行けないとなった時に、ため込んでいた感情が爆発する。
外に向かえば他人に危害を加えることになるし、内に向かえば精神を病むか無気力になる。

長年親の顔色をうかがい優等生を「演じて」生きるしかなかった子どもの苦悩は計り知れない。
どこまで行っても立派で正しいことを要求され続けると、そうなれないと思った刹那、子どもはひねくれるか開き直るしかなくなってしまうのだ。

我々が高齢の方々に要求していたことはこれと同じではなかったのか。
水も漏らさぬ完璧なプランでもって指導したことが、かえって彼らを追い詰めたのではないか。
完璧なプランを提示されて、もしその通り動けなかったら何を言われるかと逆に彼らを萎縮させ指示待ちに陥らせてしまったのではないか。

我々の仕事は営業さんとは違って作業だから、ある程度ゼロヒャク思考が通用するとは思う。
初めての人でも決められた手順を踏めば同じ結果が出せるからだ。
しかし、それを要求できるかできないかは相手しだいなのであり、受け止める力が足りない人にとっては圧力でしかないわけだから、正論ぶっこみだけではうまくいかないということになる。

管理者の方も私のこういう意見に対して「その見方は知らなかった」と言った。
教える立場にありながらも学ぶ部分がまだまだ大きいことを思い知らされた。
正しいことを押し通すだけではダメな相手には、たとえ不本意でも違う接し方をせざるを得ないということである。

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