blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

5月を振り返って

2017-05-31 23:56:20 | 月末振り返り
毎月最終日はその月を振り返る。
5月1日の朝は旭川市のホテルで迎え、その日はひたすらJR線で北上して初めて稚内市を訪ねた。
今のところ一般人が行ける我が国最北の地(宗谷岬)に立つことが春の連休の第一目標だったから、北の最果てにして季節外れの寒さ(4℃)を除いては満足のいく日になった。

さて、5月のベストショットは意外なところから。
新千歳空港のモバイル機器の充電スペースに置き忘れてあった付箋。
6月以降の心持ちはほぼこの文面に集約されるような気がして、あえて載せることにした。



自宅ではない場所で始まった5月、旅行の後は実家に厄介になり、世の中のほとんどと同じように8日からが連休明けということになった。
この間今日まで、表面的には同級生との再会や、木曽馬の里訪問、日本ダービーも何とか的中など、プライベートではイイこともたくさんあった。
しかし、日付が変わって6月になろうとしているこの時間、前回も書いたが日々を暮らして行く中でずいぶん苦しい5月だったなという思いである。

あくまで仕事に向かう上での話だが、私自身の気性の荒さが災いして、当地に赴任して一年半を経た今が最も周囲との距離が遠かった。
他人の不幸が大好きな人間の集まりは、ほんの少しの、例えば物の進め方のささいな違いでさえ攻撃の対象にする。
くだらないミスを繰り返しているようだと、たちまち見下ろされて、やることなすこと全てを疑われてとんだ濡れ衣を着せられることにもなる。
それを何とか防ぎたく、赴任当初から動き出しは誰よりも早く、間違いは極限に少なくを心がけ、時には相手の立場や年齢もいとわずあえて大きな声を出し、無駄な空き時間はなるべく作らず、その日その日を納得して終われるようにやってきた。
ここまでやればさすがに一定の抑止力は効いて不当な攻撃を受けることは今はない。
攻撃は受けないが、仕事を離れた場所で交流することは今後ほぼ無理というレベルに達し、私自身にもその気はない。
これだけの時間を経て、仕事を逆方向に回さないことをお互い約束しているだけの極めて薄い関係に帰結したのだから、この先もそこが急に変わることはなく、私自身は「外様」らしく淡々と日々に当たるよりないのだと思う。

すべて私の身勝手ながら、無味乾燥に陥りがちな日々をある意味彩ってきてくれた一人の女性に関しても、お付き合いが続いている方がいることを知り、仕事場での孤独感と併せてここ数ヶ月にはない気分の落ち込みを経験している。
落ち込みといえば、私が当地に来た経緯も考えると、落ち込みすぎて長期離脱というのは会社との縁そのものにも影響しかねない。
何とか最悪の事態は避けたく、事前にはまったく考えてはいなかったが、今週末は一度当地を離れ故郷の空気に触れに帰る。
特別な予定はなく、ただ今の状態を何とかしたいだけである。
会社組織に属しているとは言っても、結局自分を守れるのは自分自身しかいないのだから。

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心に雨が降ったなら

2017-05-28 21:58:13 | 休日
今週の当地は、週末こそ晴れ上がったものの、平日は曇りや雨の日が多く、雨の降り方も必ずしも予想通りでもなく、何とも悩ましい週であった。
仕事の上では、構内を移動することの多い我がチームにとっては天気はけっこう影響がある。
濡れてはいけないものはビニールをかぶせて運ぶが、真上にしか屋根がないフォークリフトを運転する人間は、何往復もするうちにけっこう作業服が濡れてしまう。
なにぶん人間より製品や資材といったモノが大事という環境にあっては、派手に濡らして始末書に至るのはモノの方である。

今週は、公私ともども決して小さくはない痛手を感じながら苦しんだ週であった。
仕事では特に大きなミスはなく、派手に怒鳴られるようなこともしていない。
私は、動かされるより自分から動く方が同じことをするにも楽しいから、最近は手が空いた時は自席を離れて倉庫の中の整理などに時間を使うことが多くなった。
しかしながら、そうやって動けば動くほど、周囲が遠ざかる感覚がなぜか今週は強くあった。
アウェイ感を通り越して、チーム内での「孤独」を感じたことは一年半経って初めてである。

私的な部分は、それこそ書き出すとキリのない話にはなるが、当地に来てからずっと気になっていた人がいた。
その人についての「知らなくてもよかった話」がひょんなことから耳に入ってしまい、今後私的なアプローチとなるとほぼ不可能であると知った。
私は生来飽きっぽい方なのだが、一度本気で思い入れたものはなかなか嫌いになることができないので、一年半思い入れたものを完全に忘れ去るには相応の時間はかかるだろう。
ただ、悪いことをしたわけではないから、シケた顔などせず胸を張って仕事に出ていけばよいし、そうしなくてはならない。
今からは、日々の仕事にしっかり向き合い毎日を悔いなく積み上げていくよりなく、この経験が笑い話に変わる頃にはきっと新たな幸せにたどり着いていると信じたい。

金曜の夜は、春日井駅近くの馴染みのお店に行く約束があった。
日頃はバカ話ばかりで過ぎる時間も、この日ばかりは自分がどうなってしまうのか皆目見当が付かなかった。
雨はあがっていたが、心は雨でぐしょ濡れになっていて、過去こういう時はお酒を入れるとロクなことがなかったのである。
酒量の制御がきかない心配を抱えながらの時間、やはり最初の方は悲しそうな顔をしていたらしい。
ただ、当日のお相手さんも最近同じようなつらい思いをしたことを話していくうちに知り、いいオッさんの私だけがほろほろと感情をあらわにするわけにもいかず、実際に表面には出なかったようである。
お酒が回るにつれ、ようやく本来の明るい調子を取り戻し、酔いつぶれることもなく、記憶が飛ぶこともなく、スッキリとした気分で店を出ることができた。
自宅へ帰る頃は厚かった雲も取れ、空には星がまたたいていた。

この土日、あるいは何もする気にもなれない時間になるかもしれなかったが、両日とも外の空気を吸うことができ、今日は名古屋市内まで日本ダービーの馬券を買いに出かける元気があった。(今はスマホでも馬券は買えるが、あえてそうしなかったという意味で)
ささやかながらプラス決算、そのプラス分を使って某駅近くの居酒屋で祝杯をあげることもできた。
暗くなりがちなところを存外明るく乗り切ることができたこの週末を境に、公私にわたって少しギクシャクした流れが変わって行くことを願っている。

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違いを受け入れられるか

2017-05-24 22:19:15 | 日記
私が当地に来て一年半と少しが経った。
この間、当地では「よそ者はよそ者としてしか扱われない」という現実について何回か書いてきた。
Google検索で、「愛知」の後にスペースを入れ、ひらがなの「よ」を打ち込むだけで検索候補の2番目くらいに「愛知 よそ者」と出て来てしまう(愛知を名古屋に変えても同様)のは、同じようなことを調べたい人がけっこう多いということか。
ネットの知恵袋・教えて系のページにも驚くほど同じような疑問が載っているので、一面としてそういうことは確実に存在するのだとは思う。
なお、私自身の経験は何度も書いているので繰り返さない。

では、私の故郷である富山ではよそ者にも優しいのかと言われるとそんなこともないと思う。
売薬さんや北前船を例に挙げるまでもなく、富山の人間は自ら外に出て稼ぐことは多くても、外から多くを受け入れて発展してきたイメージは薄い。
富山の方言には「たびのひと」というものがあり、「県内出身でない人、他から移って来た人」を意味する。
言葉としてこういうものが存在する以上、やはり土着の人間とそうでない人間を区別する意識があることは間違いのないところである。
富山県民そのものも一部では閉鎖的だとか陰険だとか散々叩かれているし、必ずしも当地ばかりがよそ者に冷たいのではないとは言える。

我が国においても、同じ県の中で、あるいは同じ市の中で、小さな地域どうしのくだらないエゴのぶつかり合いによって、新幹線の駅や高速道路のインターの名前などがイイとこ取りの長ったらしいものか、どうしてこうなったのかと首をヒネるようなものになっている例はたくさんある。
ライバル心が強いのか単に仲が悪いのか、それなりの規模の備えた都市どうしが何かといがみ合うことも少なくない。
どこの土地の人間でも自分の地元はやはり可愛い。
当地でも尾張と三河の対立構図があり、近場では静岡市と浜松市のそれ、地元北陸では富山市と金沢市(なぜか金沢に付きたがる富山県高岡市も含め)のそれといった具合に、感情的な争いは避けられはしないものだ。

かつて魚津の港町のスナックで、一人のご老人が「欲望がある限り争いは無くならない」と言った。
欲望とは少しニュアンスは違うが、世の中には今も「違い」が原因となって起こる争いで満ちあふれている。
自分たちと違うものは正しくないとされて排斥の対象になり、それが結果として争いを生む。
二度の大戦の経験から、欧米を中心に世界標準への試み(グローバリゼーション)も行われてきたが、それは今の時点でほぼ実現不可能なものとなり、先進国と言われる国々の間でも自国第一を掲げる勢力が急成長して、多くの国が国論の分断に悩まされ始めている。
今のところは急進的な勢力は健闘止まりではあるが、以前なら泡沫であったろう主張が国の半分近くを占める事態になっている。
いずれグローバリゼーションなる概念は消え失せ、世界の国々はそれぞれの国境線の内側でそれぞれの道を歩む時代に戻るのか。

極論すれば「よそ者や違う物への抵抗感」は、誰しもが持ち合わせていると言ってもいいのかもしれない。
今は移民が欧州を揺るがしているが、朝鮮半島有事には我が国にも近隣から多くの難民移民が流入するだろう。
厄介なのは、その出どころがほとんどが我が国を敵とみなす国や地域であろうことで、百害あって一利なしそのものである。
恋人どうしですら時にささいな行き違いからケンカすることもあるのに、最初から反日と分かっているところからの難民移民は絶対に受け入れてはならないし、来られたところで分かり合えるはずもない。

市町村を超え、都道府県や州を超え、国々を超え、世界が分かり合い手をつなぎあえる日が来るのかと問われれば私はかなり懐疑的である。
誰しも「違い」に抵抗を感じると仮定する以上は、せめてよそ者にだけは自らの地位やポジションを奪われたくはないと考える、という結論に達する。
ならば、一度世界の国々は国境線の内側に入り、グローバリゼーション疲れを癒し、それぞれがそれぞれの幸せを目指す方向にいってもいいのではないだろうか。
この瞬間にも増え続ける、ある日突然住み家を失ってさまよう人々のケアは大切な例外として。

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真夏日予想につき

2017-05-21 20:11:21 | 休日
この週末は両日とも最高気温が30℃を超えると予想されていた。
平日の無理がたたって腰に重さを感じた土曜は好天ながら休養に専念、今朝起きてみて腰もいくぶん調子がよかったので、最近まったく使ってあげられていない愛車を駆って一路木曽路を目指すことにした。
国道19号線をひたすら北上して岐阜県をまたぎ、長野県に入ったところで「これより木曽路」の看板があった。

岐阜県中津川市でいったん片側2車線が復活する19号線(瑞浪市から恵那市はほぼ片側1車線)も、長野県に入る頃には完全に片側1車線となった。
目的地はあまり欲張らず、木曽町の木曽福島地区から国道361号線に入ってしばらく走ったところにある「開田(かいだ)高原」を目指した。
その一角にある「木曽馬の里」がひとまずの目的地であった。
さすがに標高1,000mの世界は下界よりは気持ち涼しく、外気温は26〜27℃くらいだったか。
入り口にある馬の銅像の背後には御嶽山がハッキリと見え、周囲も整備が行き届き素晴らしい風景が広がっていた。













放牧地はけっこう広く、敷地の入り口からもう数百メートルはクルマでも入れたのだが、入り口にとめてしまったものは仕方なく、のんびり15分ほど歩いて放牧地の中心までたどり着くことができた。
木曽馬はおとなしい性格のようだが、驚かせたくはないので今日はズーム付きのコンデジを使って遠目に近目にたくさん撮った。
3枚目の2頭は体格からしてまだ子馬だろう。
4枚目のお馬さんは私を嫌がることもなく、鼻づらをなでても怒るようなこともなかった。
気性の荒さが災いして人間が寄り付かなくなってしまった私にとって、彼らの姿はどれほどの癒しになったことか。









361号線を取って返し、木曽町の中心で特急停車駅でもある木曽福島駅近くを通った。
この地区も当然ながらかつては中山道の宿場町であったわけで、街歩きまではできなかったが風情ある街並みが残されていた。
写真は駅舎と駅前の様子。





その後は19号線に戻って、道の駅木曽福島では名古屋行きの特急がちょうど通ったので撮り鉄。



ついでと言っては何だが、大桑村の阿寺(あてら)渓谷のほんのサワリだけ歩いて、一応の日程を終わらせることにした。
阿寺渓谷はクルマでけっこう奥まで入れるので、今度はこちらをメインにした1日を計画してもいいだろう。
入り口付近の木曽川と渓谷の様子。
水の透明度にはただただ感心。





片道は約140km、高速道路に頼らずともほぼ思い通りに移動でき、32℃の下界を避けて26℃の世界に逃げ込めたのだから、今年の避暑一発目としてはまずまずであったろう。
真夏には下界は37℃や38℃が当たり前になるから、その時は開田高原の近くで言えば御嶽ロープウェイで行ける標高2,000m級の所に逃げ込めばよい。
毎週とはいかなくても、酷暑だからといって週末を冷房をかけて部屋でゴロゴロばかりではなく、今日のように自然のクーラーの中に身を置く日を多くできれば、いい気分転換にもなってくれるものと思う。

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ノレない時は

2017-05-17 22:28:02 | 日記
春の連休が明けてから、遊びに出ている時を除けば気分的にどうもノレない日々が続いている。
毎日毎日やることは変わらないし、急に難しいことを要求され始めたわけでもない。
会社に行きたくないという気持ちでは決してなく、周囲がどうあろうと仕事そのものは苦ではない。
苦ではないレベルなら会社に出続けることはできるが、最近はそれ以上の「楽しい」レベルになかなか行ってくれない。

確かに休みに前後して、去年は誘われたビアガーデンには誘われず、時に今日の今日というノリでなだれ込む駅前の焼肉屋に行くメンバーからも直近の回は外された。
私は飲むと言えば9割以上は単独行動なのであまり大きな問題ではないが、もはや会社(特に同じチーム)の誰かとプライベートを共にすることなど今後は一度とてないだろうと、当地に来て一年半の段階で考えたりもする。

赴任当初は、同じお酒好きで趣味も多彩かつかなり共通するところもあり、一時はチーム内でも最も親しかった某氏との関係からつながって参加した会が多かった。
だが、良好だった関係は今はすっかり冷え切り、私的な会話などは全くなくなり、仕事上のコンビのみが継続しているだけである。
社内の人と飲むキッカケになってくれた人物との関係性が悪くなった以上、何かと言う時に声がかからなくなるのは当たり前だし、日中聞こえよがしに私が決して行くことのない会のことを吹聴されても怒る筋合いもなく、こればかりはただただ仕方がないというほかはない。

そんなこともあって、代わり映えのしない毎日であっても、ここ最近の日々は何となく以前より面白くなく感じているのかもしれない。
アンチがいたり、周りに必ずしも溶け込めなかったりなどは、幸か不幸か人生の中で慣れてしまっているので思い詰めるほどのことでもない。
再三書いているように、仕事そのものが性格にフィットしているから、多少の対人的なウザウザは仕事に向かっているうちにほとんどは解消される。

今が何となくでも満たされないように感じたら、一昨年の秋、当地に赴任する直前、当地のお医者様に面会するため、同時に住まいを探すために初めて当地に来た時のことを思い出すようにしている。
会社の命により思いがけず故郷から離れることになり、実家の家族や富山にいる楽しい仲間たちなど離れて行くものばかりが頭を支配し、当地のことは初めてで何も分からず、今からどんな出会いがあるかも見えない状態で、おまけに長期の病欠明けという不安も抱えている時期だった。
体のこととはいえ、数ヶ月も会社を空けてしまい、しかしクビにはならず新たな働き場所が与えられた。
そうはいっても何もかもが新たな環境となるとわずかの期待すらなく、あるのは不安だけ、面会までのほんの数分の間になぜか涙があふれ出して止まらなくなったことは昨日のことのように記憶している。

その当時のことを思えば、今はチーム内での仕事にも慣れ、飲みには行かないが日中はそれなりの会話は成立し、他部署にも雑談程度はできる人やこんな私にも時に笑顔で挨拶してくれる奇特な人までができたから、今が「悪い」などということは全然ないはずである。
プライベートでも、今やすっかり馴染みになった某店をはじめ、心底楽しんで過ごせる場所もある。
まだまだ観光名所も行き足りていないから今後が楽しみだし、今のわずかな気持ちの落ち込みは休日や自宅でのリラックスした時間を使ってうまく消化されていくのではないかと思う。

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大型連休過ぎて

2017-05-14 22:31:47 | 休日
内容がゴールデンウイーク終了までで止まっているので、月曜以降の一週間について書き残し時系列で追いついておきたい。
といっても、回数を分けてまで書くに値するネタはない。
休み前とまったく変化のない平日があり、週末は土曜夜に出かけた以外は自宅で雑事や整頓をしただけだった。
ただでさえ連休中に散々遊んでお金も使っているのに、まだ月も真ん中の今週末、体を動かして遊び回るほどの元気はない。
したことといえば、相も変わらず近場の飲み屋さんに顔を出して、思いつくままの適当で下劣な会話に終始しながら、しかし普段は実現しない「大笑い」の場を大いに楽しんで、明日以降への活力とすることくらいであった。

腹から大きな声を出せば何となくスッキリするのは私だけではないようで、我がチームに属する某社員も同じようなことを言っていた。
プライベートでどういう方法を取っているのかは知らないが、たまに仕事中でも大きな声を出したくなる時があり、そういう時はワザとでも「他人とモメる」という驚くべき行動に出るのだという。
不毛な内容であっても声を張って言いたいことを吐き出してしまえば本人としては目的は達せられるようだ。
ある日には、言い合いの中で事業所の某所にこもって寝ていることをバラされすっかり顔色をなくしてしまったことがあったのに、それでもたまには言い合いがしたいなどというのは果たして学習能力があるのかと思わざるを得ない。

大笑い大笑いで楽しく時間を過ごすのはもちろん体にもいいとはされるが、今週は私自身も不本意ながら怒りを表現するために大きな声を出さざるを得なかった。
私が嫌なのは「頑張ってもできない人」ではなく「やれるのにやらない人」であることは何度も書いた。
今週の仕事の中でも、物を運搬する時間を巧みに利用して休憩したり、本来構内では脱いではいけない作業服の上着を脱いでフォークリフトに乗ったりしていた社員には物申さざるを得なかった。
私に指摘されるまでもなく、我が事業所にはアピールしたくてしたくてたまらない人間がウヨウヨしていて、そういう振る舞いは即刻こっそりチクられるのが分かっているはずなのに、ここのところの暑さだけで脇の甘いところを見せてしまっては周囲に示しがつかないというものだ。

なお、年度が変わり昨年度末時点で有給残が「0.5日」という驚異的な数字になっていた某氏は、年度が変わって有給日数が復活するやいなや、今週の某日を1日休んだのに加え、早くも6月の初頭にも休みを入れてきた。
氏の休みは某アイドルの追っかけやサッカーや各地の花火大会など非常に分かりやすい理由が元になり、これから暑くなる今の季節からは氏が休むペースも当然ながら上がってくるので、半分は「いないもの」として考えるのがいいだろう。
休むことそのものは各人の権利として与えられているから文句は言えないが、この御仁から、休む前日には「お願いします」、休んで出て来た後には「ありがとうございました」などという当たり前の言葉をウソでも何でもいいから聞いてみたいのだがいまだに耳にしたことはない。
すでに組織人としての資質にもほころびが出て来ていると言うべきであろう。

誰しも仕事に出ていけば何かと戦わざるを得ない。
連休が明けたからと言って、常々感じているアウェイ感がなくなるわけではないし、口さがない人間が急に大人しくなることもない。
それが避けられないとすれば、仕事場の外に安らぎや癒しを求めるよりない。
多少お金はかかるかもしれないが、大事な大事なこの体、心身の健康には代えられないのである。

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5月2日の行状

2017-05-11 22:50:01 | 旅行
いよいよ道北の旅も最終日である。
スケジュール的には10時25分に稚内空港行きのバスに乗らなくてはならず、稚内から新千歳、新千歳で乗り継いでそのまま富山に向かうことになっていたから実質は「帰るだけ」の日になるはずだった。
前日の曇り空とは違い爽やかに晴れ渡っていた朝、バスまでの時間を何とか有効に使おうと、宿を早めに出てそこから徒歩圏内にある稚内公園を散歩することにした。

稚内公園は市街地を見下ろす丘の上にあるため、近いと言ってもそこそこの急坂があって思いのほか時間を食った。
しかし、登りきった後に見えた風景は大変素晴らしく、朝の逆光を受けながらも写真を何枚も撮った。





旅の最後にここに来てよかったなと思えたのは、最北の街=国境の街、つまりは沖縄などの南方ばかりでなくこの北端の地も先の戦争によって多くの犠牲を出した土地であると知ることができたからである。
観光ガイドにも稚内市のシンボルとして紹介されている「氷雪の門」。
名前こそ抽象的だが、犠牲者の悲しみを象徴する女性の像の手前には「樺太慰霊碑」の文字が見て取れる。



もう一つ胸を締め付けられたのは「九人の乙女の碑」。
樺太の真岡(現ホルムスク)郵便局に勤務する電話交換手の若い女性9名が、旧ソ連軍の侵攻を目の当たりにして、写真の文言を残して服毒により自ら命を絶った悲しい出来事である。
この碑の近くには、昭和43年に昭和天皇・皇后両陛下が行幸啓された際、この出来事について詠まれたお歌の碑も残されている。



港町ならではの景色に感動しつつ多少の胸の痛みを抱えながら丘を下り、再び市街地から空港連絡バスが出る稚内駅に向かうようにして歩いた。
宿からも見えていたが、北防波堤ドームというひと際目立つ建造物に惹かれたので行ってみた。
その重厚な造りから北海道遺産の一つとして指定を受けている。







まだバスまでは1時間半近くあったので、稚内駅をいったん過ぎ、フェリー乗り場に近い市営の施設に足を運んだ。
離島行きのフェリーを利用する乗客に対応するためか、シャワー室やコインランドリー、和室の休憩所などを備えていて、港のそばとしてはこういう施設を見るのは初めてだった。
私は肌着や靴下を洗濯するだけの用事で使ったが、職員の方が話しかけてくれ、やはり春の連休といえども北海道全体のハイシーズンはもう少し先なので観光客はまだ少ないと言っていた。

稚内駅のビルでお土産を買い足し、定刻通りにやって来た空港連絡バスに乗って、いよいよ旅も終わりである。
稚内空港は市街地から約10km、広大な原野の中にポツンとターミナルビルがあった。



わずかに時間があったので写真スポットを探したら、前日は見えなかった利尻山が見事に見えたので何枚も撮った。



新千歳行きの機体は70人乗りのプロペラ機であった。



この写真では分からないが、もう少し望遠をかければわずかにサハリンが見えたはずである。
稚内の海岸からわずか43km、今は日本人が気軽に行けない土地であることが何とも悔しい。
いろいろな学説や主張があることは承知しているが、北緯50度以南の樺太はいまだ「帰属未定」というのが大方のところである。
それでも、現時点で一般人が行ける最北端に足を運ぶことができ、念願であった道北も訪問し、充実した4日間であった。
寒い以外は天候にも恵まれ、富山に至るまでの交通にもハプニングはなく、正午近くに稚内にいた体は16時前には故郷である富山に無事にあった。
空港から北アルプスが見えた時にはなぜかホッとして肩の力が抜けたような気がした。
その日はすぐに実家に向かってもよかったが、カレンダーの赤いところの日は営業していないという富山市内の某スナックから熱心なお誘いを受けていて、短い時間ながら久々の再会に加えて北海道のおみやげ話で楽しんだのであった。

実家にやっかいになったのは3日から5日までの正味3日間、期間としては長過ぎず短過ぎず、ちょうどいい感じにはなり、両親との時間も多くあって十分にリラックスできた。
正月以来帰らなかった故郷で、ささくれ立った心を何とかリセットして愛知に戻ってくることはできたかと思う。
とはいえ職場は戦場、その職場中心に毎日が進む当地での生活では引き続き気持ちの切り替えを大切にして、無駄なストレスをためないように日々過ごしていきたい。

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5月1日の行状

2017-05-10 21:12:48 | 旅行
旭川の夜も比較的普通に過ごして、旅の3日目の始まりも2日目同様9時ちょうど発の特急列車であった。
旭川駅の写真を1枚だけ載せるが、線路の反対側は駅舎を出てすぐに公園というつくりであった。
道内第二の人口を抱える旭川市は、他の道内の都市と同様、整然とした街並みと周辺の自然がマッチした魅力的な街だった。
冬の厳しさはもちろん、内陸に位置するため夏の暑さもあり、気候の厳しさは道内の主要都市の中でも指折りではあろうが、そんな土地にも34万にものぼる人々が暮らしている。



さて、今回の最終目的地である稚内市までは旭川市からでもざっと250km、特急でも3時間40分の道のりであった。
旭川からは宗谷本線に入り、天塩川沿いを右に左にカーブを切りながら、ただただ茫漠としか言いようのない景観の中をひたすら北へ北へと向かった。
まだ5月になったばかり、札幌市でようやく桜が開花というニュースがあった中、旭川よりも北の大地にはまだ春は訪れていなかった。
この日は雨こそないが上空は雲に覆われ、晴れていれば抜海駅付近で見えてくるであろう利尻山も見ることはできなかった。
時計は12時をはるかに回り、南稚内駅付近でようやく市街地が現れ、12時40分に終着の稚内駅に着いた。
最北のJR駅ということで、私のみならず写真を撮る人々が多くいた。









今回の最終目的地と言っていい宗谷岬には13時20分発のバスがあるので、写真もそこそこに駅ソバをかきこみ切符を買って待った。
同じことを考えている人は当然多く、バスの座席部分は出発の時にはいっぱいになった。
バスに揺られること約50分、いよいよ日本最北端の地にたどり着いた。









さえぎる物のない岬は当然ながら風が強く、5月になったというのに気温は4℃という信じられないような寒さであった。
稚内の市街地の予想最高気温も8℃くらいだったので、この時点で服装は大失敗、お土産屋さんに逃げ込んで「日本最北端到着証明書」など思い出の品を購入する時間のほうが長くなるという体たらくであった。
帰りのバスの関係で滞在時間は1時間もなく、未練タラタラで最後に写真を増やして再び稚内の市街地に取って返した。

この日の宿は北防波堤ドーム(北海道遺産、次回写真掲載予定)のすぐ近くにある古びたホテルであった。
ホテルなのだが部屋は和室で、テレビはなんと「地デジチューナー」を接続したアナログテレビという衝撃的なものであった。
しかし、ここまで3日間歩き疲れた身、単身のオッさんには何の不足もなかった。
とりあえず少し休んでから近くの飲食店街(仲通り)に出て、ささやかながらおいしい海の幸をいただいた。



旅の目的もほぼ達成して、翌日は実質的に富山に向かうだけであったから、なんとなくホッとした気持ちで旅の最後の眠りについたのであった。

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4月30日の行状

2017-05-09 23:10:13 | 旅行
札幌での楽しい夜は、これ以後の旅の本番に向けて時間的には短く、午前様になる前にホテルに戻った。
2日目は札幌から旭川に入り、郊外にある旭山動物園見学と旭川市内の街歩きを考えていた。
札幌駅9時ちょうど発の特急に乗って1時間半弱、立派な高架駅である旭川駅に着いた。
人の流れに任せて改札を出ると、旭山動物園行きの急行(直行)バスの乗り場に吸い込まれるように案内され、そのまま動物園に向かうことになった。

旭山動物園はこの日の前日、4月29日から今シーズンの夏季開園がスタートしていた。
かなり北にあるだけに最盛期はもう少し後ではないかと思われるが、それでも日中12〜13℃と決して暖かくない中でも大勢の来場客があった。





北海道にある動物園らしく、入り口近くには寒冷地に住むペンギンやホッキョクグマなどを配し、正門から見るとかなり縦に奥深い敷地内には一般的な園でも見られるような猛獣などの展示もあった。





全てをサッと流すだけでも1時間半はかかる広さもさることながら、こちらの特徴は何と言っても「動物が暮らしやすい環境」が優先されていることである。
人間が普通に立っている目線でいろいろな動物を見るのではなく、どちらかというと見上げるような形になることが多いのもこの考えによるものだろう。
中に入るまで知らなかったが、開園50周年の節目に訪問することができたのも幸運であった。



分かりやすい観光地なので、こちらである程度お土産を買い込んで午後の早い時間には旭川の中心部に戻った。
前夜の札幌ではちょっと一服もできなかったので、ひとまず一度体を休め、時間的に暗くなる前に街歩きをしてその後夕食ということにした。
まずは石狩川にかかる「旭橋」を目指したが、ホテルを出て間もなく「平和通買物公園」という通りに出くわした。
JR旭川駅から北東方向に約1kmにわたってまっすぐに伸びる道が常時の歩行者天国であることはこの節奇跡と言ってもいいだろう。
もちろん飲食店もたくさん並んでいるから、夜には若者中心に格好の遊び場になっていることは言うまでもない。



旭橋へはホテルから歩いて15分ほど、わが国では珍しいラウンドアバウト(ロータリー)から国道40号線に入るとすぐに旭橋が見えてきた。
下流側からの旭橋と、石狩川の西側に沈む夕日。





だいぶ暗くなってきたので、旭川随一の歓楽街である「さんろく街」を見学。
名前の由来である3条通り6丁目交差点と、昭和通りにあるモニュメント2つ。
緑と赤が1本ずつあるのは、男女の出会いを表しているというのも飲み屋街ならではか。





結局夕食は、さんろくからは少し離れ、どちらかというとホテルに近い居酒屋(ヨンナナくらいか?)に入った。
コマイならぬ「大マイの炙り」というメニューがあったので、物珍しさで頼んだ。
欲張って旭川ラーメンも食べたかったので、居酒屋での飲食は気持ちセーブして、代表的な味付けである醤油ラーメンをいただき、ネオン街の誘惑は断って、やはり早めに翌日に備えて休んだのであった。

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4月29日の行状

2017-05-08 20:03:50 | 旅行
今年の春の大型連休、わが事業所は幸運にも谷間の5月1日と2日が休日とされ、つごう9連休であった。
年末年始から4ヶ月ばかり実家に帰っていないというのも初めてで、故郷の空気を一刻も早く吸いたい気持ちもあったのだが、実家に一週間以上やっかいになるのもさすがに気が引けた。
そこで昨年のお盆期間と同じように、いったん他の土地へ旅行してから実家に帰る計画でいくことにした。



さて、その「他の土地」には昨年のお盆同様に北海道を選んだ。
加えて今年2月の雪祭り直前にも札幌近辺を訪れたので、1年もない短いスパンで3回も北の大地を踏むことになった。
今回は、いわゆる道北に行ったことがなくそこを訪問して「北海道はだいたい行ったね」ということにしたく、札幌以外の目的地として旭川市と稚内市を選んだ。
4月29日から5月2日までの4日間を1回のエントリーでは難しいので、何回かに分けて書きたい。

初日の29日は出発も午後からで、札幌では夕食プラス少しお酒を飲んでカラオケの一つもできればという軽い目的しかなかった。
実際、札幌市内のホテルには18時近くの到着となり、ひと寝入りする暇もなくまずは夕食に出ることにした。
出た先は、2月にもお世話になったジンギスカン料理の小さなお店で、店員さんも3人くらいのところだ。
前回、大陸方面からのお客ばかりの中で必死で英語で接客をこなしていた若い女性もいたが、この日は外国人はおらずそのあたりを彼女に振ってみると「この前よりはラクです〜」ということだった。
この日は前回やや炭の勢いが弱く玉ねぎが全然焼けてこないなどのハプニングもなく、めったに食べられない「ラムたん」などをおいしくいただいた。

少しお酒も入って気持ち良くなった後は、札幌ではこれから必ず足を運ぶことになりそうなバーに直行した。
カラオケが歌い放題なのは知っていたのだが、この日はたまたま居合わせた2人組の男性客と一緒に盛り上がることもできて、これまでの数回の中でもいちばん楽しめたのではないかと思う。
時間制なのでスナックのようなダラダラ飲みはできないが、客とスタッフがかみ合った時の爆発力は、素で面白い(天然?)人が多い北海道ならではであった。
外に出て飲むお酒が高いのは重々承知でも、外ではこういうことがあるからどうしても店飲みはやめられないのである。



時間的には半日程度の札幌での滞在も、中身が妙に濃い楽しい時間で思わず字数が増えてしまった。
北へ北へと向かう旅の本番、30日以降の行状は次回に。

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