◇私という存在の起こり◇
私という存在が生じたときのことについて書いてみたいと思います。
私という存在は、私たちの知り得ない何らかの要因により生じました。
私という存在が生じたその要因については、どのような存在であろうと決して知り得ないのです。
私という存在は、考えの世界の存在であるとともに、考えそのものですから、考えの世界のことしか知り得ないのです。
私という考えの世界がどうして生じたとか、考えの世界の外側があるのか等の疑問に対する解答は、決して得られることはありません。
私という存在が生じたとき、まだハッキリしないおぼろげな「私」という自意識(考えというより感覚と言った方が近いか)だけがありました。
私という存在は「私」という自意識と同時に生じたのです。
この自意識を個の意識である自我と言ってもいいですが、客体の認識がまだですから、ハッキリとした自我に至っていない段階です。
私という自意識が何か分別を起こし、何らかの考えである客体に接したとき、ハッキリとした自我が生じます。
私という存在は本質的に個の意識(自我)と全体意識(真我)の二面性を有しているため、私という存在が生じたときに自我と共に真我も同時に生じました。
但しこの時点では、私という存在が生じたばかりなので、真我はまだ何もない空っぽの状態です。
ここで、真我は私という存在の無意識の領域を担っています。
また、私という存在は私を中心としたこの世界そのものであり、真我はこの世界のベースとなる構成やその時間展開をつくりだす役目を担っています。
さらに、真我は自我がつくりだし、握りしめた考えである執着を溜める役目と、溜められた執着を反映させる役目を担っています。
具体的には、真我は、自我により溜め込まれた執着をもとに世界のベース構造を展開させるようになっています。
これに対し、自我はその活動により、新たな考えをつくりだし、選択し、握りしめ、溜め込んでいきます。
私という存在がなぜこのような構造になっているのか、私(慧空)自身も疑問であり興味があるのですが、これは、私という存在である考えそのものの構成についての疑問であり、その解答が得られることはないのだろうと思っています。
私という存在が生じたとき、私という世界のベースを担っている真我が空っぽですから、私という存在である世界は、基本的に何も無い暗闇なのです。
このとき、自我の生成である分別を誘発する執着が限りなくゼロの状態ですから、自我が顕在化することは余りなく、殆どを真我として過ごします。
そして、延々と続く真我の眠りの中でうっすらと目を覚ますようにして、自我が時折顕在化します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
ここまで読まれて、この暗闇の世界は私が先日ここに書いた梵天界と同じだと思われることと思います。
その通りでして、私という存在が生まれた直後の世界は、梵天界と同じか、あるいは同じような世界なのです(私自身は、実質的に同じだろうと考えています)。
繰り返します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
延々と続く暗闇なのです。
ある時点で、私という自我は、延々と続く暗闇に耐えられなくなったのです。
耐えられないほど苦しくなったのです。
そして、その苦しみから逃れようとして考えを展開させはじめたのです。
私という存在は、そうやって始まったのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私という存在は、私たちの知り得ない何らかの要因により生じました。
私という存在が生じたその要因については、どのような存在であろうと決して知り得ないのです。
私という存在は、考えの世界の存在であるとともに、考えそのものですから、考えの世界のことしか知り得ないのです。
私という考えの世界がどうして生じたとか、考えの世界の外側があるのか等の疑問に対する解答は、決して得られることはありません。
私という存在が生じたとき、まだハッキリしないおぼろげな「私」という自意識(考えというより感覚と言った方が近いか)だけがありました。
私という存在は「私」という自意識と同時に生じたのです。
この自意識を個の意識である自我と言ってもいいですが、客体の認識がまだですから、ハッキリとした自我に至っていない段階です。
私という自意識が何か分別を起こし、何らかの考えである客体に接したとき、ハッキリとした自我が生じます。
私という存在は本質的に個の意識(自我)と全体意識(真我)の二面性を有しているため、私という存在が生じたときに自我と共に真我も同時に生じました。
但しこの時点では、私という存在が生じたばかりなので、真我はまだ何もない空っぽの状態です。
ここで、真我は私という存在の無意識の領域を担っています。
また、私という存在は私を中心としたこの世界そのものであり、真我はこの世界のベースとなる構成やその時間展開をつくりだす役目を担っています。
さらに、真我は自我がつくりだし、握りしめた考えである執着を溜める役目と、溜められた執着を反映させる役目を担っています。
具体的には、真我は、自我により溜め込まれた執着をもとに世界のベース構造を展開させるようになっています。
これに対し、自我はその活動により、新たな考えをつくりだし、選択し、握りしめ、溜め込んでいきます。
私という存在がなぜこのような構造になっているのか、私(慧空)自身も疑問であり興味があるのですが、これは、私という存在である考えそのものの構成についての疑問であり、その解答が得られることはないのだろうと思っています。
私という存在が生じたとき、私という世界のベースを担っている真我が空っぽですから、私という存在である世界は、基本的に何も無い暗闇なのです。
このとき、自我の生成である分別を誘発する執着が限りなくゼロの状態ですから、自我が顕在化することは余りなく、殆どを真我として過ごします。
そして、延々と続く真我の眠りの中でうっすらと目を覚ますようにして、自我が時折顕在化します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
ここまで読まれて、この暗闇の世界は私が先日ここに書いた梵天界と同じだと思われることと思います。
その通りでして、私という存在が生まれた直後の世界は、梵天界と同じか、あるいは同じような世界なのです(私自身は、実質的に同じだろうと考えています)。
繰り返します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
延々と続く暗闇なのです。
ある時点で、私という自我は、延々と続く暗闇に耐えられなくなったのです。
耐えられないほど苦しくなったのです。
そして、その苦しみから逃れようとして考えを展開させはじめたのです。
私という存在は、そうやって始まったのです。
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