私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

ある思索(1)

2014年03月17日 14時18分16秒 | エッセイ
◇ある思索(1)◇

以前からそうなのですが、どうしても気になってしまうことがあります。
それ以外のことについてはほぼ納得したのですが、それだげが気になったままなんです。

それは、解脱後のことです。
お釈迦さまは解脱されたようだけど、その後どうなったのかということです。

現段階の認識でおそらく間違いないだろうと思うのは、解脱後は私という個の意識は消滅するのだろうということです。
私という存在の本質は、執着(真我)と分別(自我)から成っていますから、その両方が無くなれば、私という存在も消滅するはずなのです。

それじゃあ、そういうことでいいじゃないか、それ以上追求する必要もないよと言われそうで、私自身もそう思わないでもないのですが、何となくスッキリしないというか、気になるのです。

それと、この思索はとても微妙であり、また危うさをはらんでいるので、追求することに抵抗を感じるところもあり、この点でも微妙なのです。
なぜなら、私という自我が起こすすべての考えを放棄しようとしている一方で、思索を続けている訳ですから、これは大いに矛盾した行為なのです。

それでもやはり気になるのです。

この思索に関する一つのヒントは、お釈迦さまという存在は解脱により消滅したかもしれないが、こうしてお釈迦さまに意識を向けている私(慧空)は、ここに存在しているという、この点にあるのかもしれないと思ったりしています。

どういうことかと言いますと、真我の観点で私(慧空)がAさんという存在に意識を向けるとき、私という存在は不在となり、Aさんそのものが私となります。
このとき、Aさんは私そのものなのです。
しかしその一方で、もし解脱により私(慧空)が消滅したとしても、おそらく、Aさんという存在は私(慧空)と一緒に消えてしまうことなくそのまま残るのです。

このことは何を意味しているのでだろうと思うのです。
これはひょっとすると、私(慧空)という意識が解脱により消滅しても、私(慧空)の何らかの存在要素がAさんとして残るのではないかと思わないでもないのです。
しかし、この感覚がいま一つハッキリしないのです。


取りあえず文章として書いてみましたが、結論というか手掛かりというか、納得のいくものはまだ得られていません。
ひょっとすると、私という個の意識では到達不可能な領域なのかも知れないと思ったりもしています。
また何か思い付いたら書きたいと思っています。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする