◇「脱力」の落とし穴◇
今日は、以前から気になっていたことについて書きたいと思います。
悟りの道を歩いておられる方に、その方が得た最終的な意識状態に関する言葉として、よく「脱力」とか「脱力状態」という言葉を使う方がおられます。
確かに、脱力した状態は自我の意識も拡散されて薄くなり、楽で、それはそれで悪くないものです。
しかし、その脱力した状態は、自我の主体性が失われた状態であり、迷いの中なのです。
「脱力」だと仰っている殆どの方(おそらく、すべての方)は、まだそれなりに考えを握りしめておられます。
そして、その握りしめた考えに翻弄されており、まだ迷いの中なのです。
何よりもまず、その「脱力が良い」という考えを掴んでおり、囚われています。
「脱力」という言葉が出てくることがその証拠です。
脱力に嵌まってしまうと、自我の主体性が失われたままになり、自分が考えを握りしめていること、迷っていることに気づけなくなるのです。
迷いの中から抜け出せなくなるのです。
ですから、これを読まれている方は、安易に脱力や楽な状態に気を取られないようにして頂きたいのです。
そのためには、しっかりと「私」に意識を向け、ご自分の意識の動きに常に気づいていて頂きたいと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの道を歩いておられる方に、その方が得た最終的な意識状態に関する言葉として、よく「脱力」とか「脱力状態」という言葉を使う方がおられます。
確かに、脱力した状態は自我の意識も拡散されて薄くなり、楽で、それはそれで悪くないものです。
しかし、その脱力した状態は、自我の主体性が失われた状態であり、迷いの中なのです。
「脱力」だと仰っている殆どの方(おそらく、すべての方)は、まだそれなりに考えを握りしめておられます。
そして、その握りしめた考えに翻弄されており、まだ迷いの中なのです。
何よりもまず、その「脱力が良い」という考えを掴んでおり、囚われています。
「脱力」という言葉が出てくることがその証拠です。
脱力に嵌まってしまうと、自我の主体性が失われたままになり、自分が考えを握りしめていること、迷っていることに気づけなくなるのです。
迷いの中から抜け出せなくなるのです。
ですから、これを読まれている方は、安易に脱力や楽な状態に気を取られないようにして頂きたいのです。
そのためには、しっかりと「私」に意識を向け、ご自分の意識の動きに常に気づいていて頂きたいと思います。
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