◇改めて悟りの階梯(2)◇
では、悟りの階梯を第一の段階から順に改めて説明していきたいと思います。
第一の段階(4次元)は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
この段階は、悟りの道の入り口と言える段階です。
この段階では、多くの方の場合、まだ自我が握りしめた考えが多く、自我に起こってる考えも多いです。
そのため、感情や思考に翻弄されやすい傾向があります。
殆どの方の場合、見性と真我の第一段階の覚醒は別々に起こります。
それはなぜかと言いますと、この段階では、自我と真我との距離感と言いますか、分離感が大きいのです。
このため、自我を捉えるときの意識の使い方と、真我の第一覚醒が起こるときの意識の使い方や握っている考えの手放し方との間に大きなギャップがあるのです。
このギャップが、見性と真我の第一覚醒が一度に起きにくい最も大きな原因なんだろうと私は考えています。
余談ですが、5次元(天界の悟り)に至り、その階層を6次元(大悟)に向けて進んでいくうち、自我と真我との間の距離感が徐々に縮まっていきます。
そして、真我の第二段階の覚醒により6次元に至ると、自我と真我がいわば一枚の紙の表と裏の関係のようにぴったりと寄り添うような状態となります。
次に、この段階における見性が得られた方の場合と、真我の第一覚醒が得られた方の場合について個別に説明します。
まず、見性が得られた方の場合について。
自我を捉えるとは、本質的な私という意識に気づき、それを捉えることです。
あるいは、考えをつくり出している創造主としての自分に気づき、考えに対してある程度の主体性を獲得することです。
見性による意識の変化の最大の特徴は、「私」という意識がしっかりし、自らの意志をある程度自覚して表現できるようになる点です。
このため、意志の実現性も向上します。
一部には、特殊能力が活性化される方がおられると思います。
また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自我のつくった考えであるということに対するある程度の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、それにより気持ちもある程度楽になります。
但し、その意識の状態としては、多くの方の場合で、まだ自我がつくる感情や思考に忙しく、連鎖的に生じる考えに翻弄されやすい状態です。
考えに対する主導権はまだ不十分であり、また二元的な考えに代表されるような固定観念等の種々の考えを沢山握りしめており、深い迷いの中におられる方が多いです。
自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことで、自我が握りしめている考えの手放しが進んでいきます。
それに伴って、起こってくる考えが減り、自我が薄くなっていきます。
そして、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、真我の第一段階の覚醒が起こります。
次に、真我の第一段階の覚醒を得た場合について。
真我の第一覚醒とは、真我の外縁に触れることです。
この真我の第一覚醒に伴い、起こってくる考えが大きく減り、自我が大幅に薄くなります。
真我の外縁に触れることで、それによる特有の感覚や理解が得られます。
具体的には、至福、愛、歓喜、すべてはひとつ等の真我の外縁に関する感覚や理解が得られます。
また、起こってくる考えが比較的大きな落差で減るとともに、執着(囚われ)も減るため、多くの場合、苦しみもそれなりに減ります。
そのため、基本的に楽になる方が多いと思います。
また、真我の外縁は二元の感覚の世界なのですが、至福等に代表されるプラス方向の感覚が前面に出できやすいため、日常の生活でも幸福な感覚になりやすい傾向があります。
また他の特徴として、起こってくる考えがそれなりの大きさで減りますので、それに伴って智慧が発現するようになっていきます。
しかし、この真我の第一覚醒のみを得た段階では、まだ自我を捉えられていないため、主体性が欠落しやすく、心地よい真我の外縁の感覚や、真我の外縁が見せる見せかけの真理(理解)に延々と迷ってしまわれる方がとても多いです。
主体性が欠落してしまっていると、つまり私という自我をしっかりと捉えていないと、自分が何かの考えを掴んでいて、それに惑われていることに気づけないのです。
自分を見る自覚を通じて自我を捉え、自我(意識)の挙動を冷静に観察していくことで、真我の外縁から得られる感覚や理解も考えであることが理解できるようになります。
続きます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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では、悟りの階梯を第一の段階から順に改めて説明していきたいと思います。
第一の段階(4次元)は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
この段階は、悟りの道の入り口と言える段階です。
この段階では、多くの方の場合、まだ自我が握りしめた考えが多く、自我に起こってる考えも多いです。
そのため、感情や思考に翻弄されやすい傾向があります。
殆どの方の場合、見性と真我の第一段階の覚醒は別々に起こります。
それはなぜかと言いますと、この段階では、自我と真我との距離感と言いますか、分離感が大きいのです。
このため、自我を捉えるときの意識の使い方と、真我の第一覚醒が起こるときの意識の使い方や握っている考えの手放し方との間に大きなギャップがあるのです。
このギャップが、見性と真我の第一覚醒が一度に起きにくい最も大きな原因なんだろうと私は考えています。
余談ですが、5次元(天界の悟り)に至り、その階層を6次元(大悟)に向けて進んでいくうち、自我と真我との間の距離感が徐々に縮まっていきます。
そして、真我の第二段階の覚醒により6次元に至ると、自我と真我がいわば一枚の紙の表と裏の関係のようにぴったりと寄り添うような状態となります。
次に、この段階における見性が得られた方の場合と、真我の第一覚醒が得られた方の場合について個別に説明します。
まず、見性が得られた方の場合について。
自我を捉えるとは、本質的な私という意識に気づき、それを捉えることです。
あるいは、考えをつくり出している創造主としての自分に気づき、考えに対してある程度の主体性を獲得することです。
見性による意識の変化の最大の特徴は、「私」という意識がしっかりし、自らの意志をある程度自覚して表現できるようになる点です。
このため、意志の実現性も向上します。
一部には、特殊能力が活性化される方がおられると思います。
また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自我のつくった考えであるということに対するある程度の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、それにより気持ちもある程度楽になります。
但し、その意識の状態としては、多くの方の場合で、まだ自我がつくる感情や思考に忙しく、連鎖的に生じる考えに翻弄されやすい状態です。
考えに対する主導権はまだ不十分であり、また二元的な考えに代表されるような固定観念等の種々の考えを沢山握りしめており、深い迷いの中におられる方が多いです。
自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことで、自我が握りしめている考えの手放しが進んでいきます。
それに伴って、起こってくる考えが減り、自我が薄くなっていきます。
そして、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、真我の第一段階の覚醒が起こります。
次に、真我の第一段階の覚醒を得た場合について。
真我の第一覚醒とは、真我の外縁に触れることです。
この真我の第一覚醒に伴い、起こってくる考えが大きく減り、自我が大幅に薄くなります。
真我の外縁に触れることで、それによる特有の感覚や理解が得られます。
具体的には、至福、愛、歓喜、すべてはひとつ等の真我の外縁に関する感覚や理解が得られます。
また、起こってくる考えが比較的大きな落差で減るとともに、執着(囚われ)も減るため、多くの場合、苦しみもそれなりに減ります。
そのため、基本的に楽になる方が多いと思います。
また、真我の外縁は二元の感覚の世界なのですが、至福等に代表されるプラス方向の感覚が前面に出できやすいため、日常の生活でも幸福な感覚になりやすい傾向があります。
また他の特徴として、起こってくる考えがそれなりの大きさで減りますので、それに伴って智慧が発現するようになっていきます。
しかし、この真我の第一覚醒のみを得た段階では、まだ自我を捉えられていないため、主体性が欠落しやすく、心地よい真我の外縁の感覚や、真我の外縁が見せる見せかけの真理(理解)に延々と迷ってしまわれる方がとても多いです。
主体性が欠落してしまっていると、つまり私という自我をしっかりと捉えていないと、自分が何かの考えを掴んでいて、それに惑われていることに気づけないのです。
自分を見る自覚を通じて自我を捉え、自我(意識)の挙動を冷静に観察していくことで、真我の外縁から得られる感覚や理解も考えであることが理解できるようになります。
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