◇私の体験談(見性後から大悟まで)(2)◇
今回の記事では、私の意識が天界の悟り階層にあった2013年4月初めから10月19日の期間のうちの8月、9月ころまでの意識の様子や移り変わりについて書きます。
意識の移り変わりの流れを分かりやすくするために、2012年暮れの明け渡し以降の様子を振り返りながら書いてみたいと思います。
明け渡しにより得られる悟り階層(意識次元で言えば、5次元である天界の悟りの少し手前の4.5次元程度でしょうか)と、天界の悟り階層とは、基本的に幸福感、喜び、楽しさ(Joy)等が前面に出てきやすいため、これらの悟り階層に至った人多くの方は、自分が生きることや存在していることに対する幸福感や楽しさを実感される方が多いと思います。
事実私自身も、明け渡しから、見性を得て暫くの期間が経過するまでの間は、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
特に、2012年暮れに明け渡しがあってから、翌2013年の3月中旬に自覚を始めるまでは、私は本当に幸せの中にいました。
いいことばかりが起こっていた訳ではなく、悪いこともしっかりと起きていたのですが、悪いこともそのまま受け入れてしまうというか、幸福感に酔っ払っていて感覚が麻痺しているというか、いま思い起こしても不思議なほど消極的な感情や感覚が余り起きてきませんでした。
しかし、そのような私を取り巻く幸福な雰囲気は、3月中旬にマスターゲートさんに会い、自覚を始めたことにより、急速に後退し、覚めた雰囲気に変わっていきました。
これに伴って、明け渡しにより広がった私の意識も、自覚を始めて「私」に意識を向け始めたことにより、コンパクトに引き締まっていきました。
そして、4月初めに見性を得てからは、私の意識は、明け渡しによる言わば広がった状態から、キュッとコンパクトに引き締まった覚めた状態へと大きく変化していました。
それでも、8月ころまでは、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
例えば、見性により得た創造主としての実感を無邪気に楽しんでいました。
こうなったらいいなとか、こうしたいなと自然にイメージすると、そのイメージが自然と実現していくこともよくありました。
しかし、そうやって天界の悟り階層を楽しむ一方で、私の意識の中心は、見性の直ぐ後に生じた「私自身も考えである」という考えに対する追求心と、「すべては考えに過ぎない」という理解から生じる破壊の目の方に徐々に移っていきました。
創造主としての実感を楽しみながらも、それに没頭できない覚めた自分がいつもいて、私の意識を「私自身も考えである」と「すべては考えに過ぎない」に引き込むようになっていました。
楽しさや嬉しい感情が起きたり、こうしたいな等の考えが起きたとき、それが何なんだとか、それのどこが嬉しいんだとか、意味ないだろう等の覚めた考えが出てきて、少しずつ幸福感や楽しさから遠ざかってていきました。
そして、私に起こってくる考えを深く観察し、考察するようになっていきました。
私がまず集中的に考察したのは、「正しさ」や「理想」についてでした。
具体的には、当時、北朝鮮が韓国に対してミサイル攻撃をやるのではないかという懸念が一部で高まっておりました。
そんな北朝鮮の様子を観ていて、私の中に北朝鮮に対する批判心が起こってきたのです。
それが切っ掛けとなり、私は2、3日の間、理想的は社会とはどういう社会なのかについて真剣に考えたのです。
ちょっと冷静に考えれば、複数の立場が存在する以上、すべての人にとっての理想社会など存在するはずがないことは直ぐに分かるはずなのですが、そのときの私はなぜか、理想社会について、本気であれこれと考えたのです。
自分が理想的と思う社会モデルをいくら考えても、それを別の立場から考えると必ず短所や弊害があり、その理想像は直ぐに崩れ去ってしまいました。
散々考えたところで、理想社会なんて存在するはずがないという当たり前のことに気がついたというか、立ち戻りました。
そのとき私は、その当たり前のことへの気づきに対し、自分はなんてバカなことを真剣に考えていたんだ、自分はなんてバカなんだと思っていました。
しかし、そう思いながらも、附に落ちるものがあったのです。
賢明な方は、理想とは個々の視点に依存する二元的な価値観であり、普遍性はないということは知っているんだと思います。
私だってそんなことぐらい知っていました。
でも、過去の私もそうでしたが、それは頭でそう理解しているだけなのです。
薄っぺらな表面的な理解に過ぎないのです。
その証拠に、そのような賢明な方も、自分が日常的にやっている良い悪い等の二元的な判断に対して無自覚であり、相変わらず二元的な考えに囚われたままなのです。
しかし私は、その当たり前のことへの気づきにより、自分に良い悪い等の二元的は考えが起こったとき、あるいは起こりそうになったとき、それをしっかりと自覚できるようになったのです。
そして、自分自身が握りしめている二元的な考え(執着)を手放していき始めたのです。
二元的な考えに対する自覚が進み始めると、将棋倒しのようにして二元的な考えに対する自覚や手放しが進んでいきました。
2012年の6月ころには、良い悪い等で代表される多くの二元的な考えについて、手放しがほぼ完了していました。
そしてそれに伴い、二元的な考えに関連して自分を縛り付けているいくつかの固定観念がひとつずつ外れていきました。
解放が起こった固定観念の例を書きますと、まず最初の方に「仕事が出来ないやつはダメだ(あるいは、無能なやつはダメだ)」という固定観念の解放が起こりました(5月の後半ころだったと思います)。
私は、この固定観念により自分や自分の周りの人たちを長い間痛めつけていたのでした。
私は明け渡し以後、殆ど仕事が出来なくなっていたのですが、この解放により、自分が仕事が出来ないことの苦しさが幾分楽になりました(相変わらず、仕事は出来ませんでしたが、笑)。
続いて、確か8月に、「何かやらないといけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、何かをやっていないといけなくて、何もやらないのはダメだという固定観念を握りしめ、ずっと自分自身を駆り立て、苦しめていたのでした。
なお、私の場合、「仕事が出来ないやつはダメだ」や「何かやらないといけない」等の固定観念の解放がおこるときは、それらの固定観念がまさにそのような言葉として内面の奥底から浮かび上がってくるのです。
そして、浮かび上がってきた考えに気づいたときには、既に解放が起きているという感じなのです。
続いて9月に、「人間としてちゃんと生きなければいけない」という固定観念の解放が起こり、それに続いて、「人に迷惑をかけちゃいけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、自分が仕事を放置していることによりお客さんに迷惑がかかっていることがとても辛くて苦しかったので、そららの固定観念が外れたことでとても楽になりました。
そして、完全に仕事をやらなくなりました(笑)。
そして、9月後半から10月にかけて、幸、不幸という考えも手放していきました。
次回は、「私自身も考えである」という理解の導きにより、どのように大悟に近づき、到達したのかときのことについて書きます。
続きます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今回の記事では、私の意識が天界の悟り階層にあった2013年4月初めから10月19日の期間のうちの8月、9月ころまでの意識の様子や移り変わりについて書きます。
意識の移り変わりの流れを分かりやすくするために、2012年暮れの明け渡し以降の様子を振り返りながら書いてみたいと思います。
明け渡しにより得られる悟り階層(意識次元で言えば、5次元である天界の悟りの少し手前の4.5次元程度でしょうか)と、天界の悟り階層とは、基本的に幸福感、喜び、楽しさ(Joy)等が前面に出てきやすいため、これらの悟り階層に至った人多くの方は、自分が生きることや存在していることに対する幸福感や楽しさを実感される方が多いと思います。
事実私自身も、明け渡しから、見性を得て暫くの期間が経過するまでの間は、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
特に、2012年暮れに明け渡しがあってから、翌2013年の3月中旬に自覚を始めるまでは、私は本当に幸せの中にいました。
いいことばかりが起こっていた訳ではなく、悪いこともしっかりと起きていたのですが、悪いこともそのまま受け入れてしまうというか、幸福感に酔っ払っていて感覚が麻痺しているというか、いま思い起こしても不思議なほど消極的な感情や感覚が余り起きてきませんでした。
しかし、そのような私を取り巻く幸福な雰囲気は、3月中旬にマスターゲートさんに会い、自覚を始めたことにより、急速に後退し、覚めた雰囲気に変わっていきました。
これに伴って、明け渡しにより広がった私の意識も、自覚を始めて「私」に意識を向け始めたことにより、コンパクトに引き締まっていきました。
そして、4月初めに見性を得てからは、私の意識は、明け渡しによる言わば広がった状態から、キュッとコンパクトに引き締まった覚めた状態へと大きく変化していました。
それでも、8月ころまでは、幸せや楽しさを実感することが多かったように思います。
例えば、見性により得た創造主としての実感を無邪気に楽しんでいました。
こうなったらいいなとか、こうしたいなと自然にイメージすると、そのイメージが自然と実現していくこともよくありました。
しかし、そうやって天界の悟り階層を楽しむ一方で、私の意識の中心は、見性の直ぐ後に生じた「私自身も考えである」という考えに対する追求心と、「すべては考えに過ぎない」という理解から生じる破壊の目の方に徐々に移っていきました。
創造主としての実感を楽しみながらも、それに没頭できない覚めた自分がいつもいて、私の意識を「私自身も考えである」と「すべては考えに過ぎない」に引き込むようになっていました。
楽しさや嬉しい感情が起きたり、こうしたいな等の考えが起きたとき、それが何なんだとか、それのどこが嬉しいんだとか、意味ないだろう等の覚めた考えが出てきて、少しずつ幸福感や楽しさから遠ざかってていきました。
そして、私に起こってくる考えを深く観察し、考察するようになっていきました。
私がまず集中的に考察したのは、「正しさ」や「理想」についてでした。
具体的には、当時、北朝鮮が韓国に対してミサイル攻撃をやるのではないかという懸念が一部で高まっておりました。
そんな北朝鮮の様子を観ていて、私の中に北朝鮮に対する批判心が起こってきたのです。
それが切っ掛けとなり、私は2、3日の間、理想的は社会とはどういう社会なのかについて真剣に考えたのです。
ちょっと冷静に考えれば、複数の立場が存在する以上、すべての人にとっての理想社会など存在するはずがないことは直ぐに分かるはずなのですが、そのときの私はなぜか、理想社会について、本気であれこれと考えたのです。
自分が理想的と思う社会モデルをいくら考えても、それを別の立場から考えると必ず短所や弊害があり、その理想像は直ぐに崩れ去ってしまいました。
散々考えたところで、理想社会なんて存在するはずがないという当たり前のことに気がついたというか、立ち戻りました。
そのとき私は、その当たり前のことへの気づきに対し、自分はなんてバカなことを真剣に考えていたんだ、自分はなんてバカなんだと思っていました。
しかし、そう思いながらも、附に落ちるものがあったのです。
賢明な方は、理想とは個々の視点に依存する二元的な価値観であり、普遍性はないということは知っているんだと思います。
私だってそんなことぐらい知っていました。
でも、過去の私もそうでしたが、それは頭でそう理解しているだけなのです。
薄っぺらな表面的な理解に過ぎないのです。
その証拠に、そのような賢明な方も、自分が日常的にやっている良い悪い等の二元的な判断に対して無自覚であり、相変わらず二元的な考えに囚われたままなのです。
しかし私は、その当たり前のことへの気づきにより、自分に良い悪い等の二元的は考えが起こったとき、あるいは起こりそうになったとき、それをしっかりと自覚できるようになったのです。
そして、自分自身が握りしめている二元的な考え(執着)を手放していき始めたのです。
二元的な考えに対する自覚が進み始めると、将棋倒しのようにして二元的な考えに対する自覚や手放しが進んでいきました。
2012年の6月ころには、良い悪い等で代表される多くの二元的な考えについて、手放しがほぼ完了していました。
そしてそれに伴い、二元的な考えに関連して自分を縛り付けているいくつかの固定観念がひとつずつ外れていきました。
解放が起こった固定観念の例を書きますと、まず最初の方に「仕事が出来ないやつはダメだ(あるいは、無能なやつはダメだ)」という固定観念の解放が起こりました(5月の後半ころだったと思います)。
私は、この固定観念により自分や自分の周りの人たちを長い間痛めつけていたのでした。
私は明け渡し以後、殆ど仕事が出来なくなっていたのですが、この解放により、自分が仕事が出来ないことの苦しさが幾分楽になりました(相変わらず、仕事は出来ませんでしたが、笑)。
続いて、確か8月に、「何かやらないといけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、何かをやっていないといけなくて、何もやらないのはダメだという固定観念を握りしめ、ずっと自分自身を駆り立て、苦しめていたのでした。
なお、私の場合、「仕事が出来ないやつはダメだ」や「何かやらないといけない」等の固定観念の解放がおこるときは、それらの固定観念がまさにそのような言葉として内面の奥底から浮かび上がってくるのです。
そして、浮かび上がってきた考えに気づいたときには、既に解放が起きているという感じなのです。
続いて9月に、「人間としてちゃんと生きなければいけない」という固定観念の解放が起こり、それに続いて、「人に迷惑をかけちゃいけない」という固定観念の解放が起こりました。
私は、自分が仕事を放置していることによりお客さんに迷惑がかかっていることがとても辛くて苦しかったので、そららの固定観念が外れたことでとても楽になりました。
そして、完全に仕事をやらなくなりました(笑)。
そして、9月後半から10月にかけて、幸、不幸という考えも手放していきました。
次回は、「私自身も考えである」という理解の導きにより、どのように大悟に近づき、到達したのかときのことについて書きます。
続きます。
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見性とは自分の内部にある静寂な我を見ていることで、その状態でいると「私はいるが貴方、または世界はない」と全てが幻影、無我、静寂に見える。そして、明け渡しとは、その静寂な我に自分の意識を明け渡すことで、その状態でいると意識は脳内部の松果体に移り、自我は完全に消滅され、無我な意識だけが残る。そして全体意識、至福を覚える。かの聖者の言う見るものは見られるものとなる。
以上のことが見性と明け渡しなのでしょうか?
コメントありがとうございます。
見性については、様々な解釈があるようです。
人によっては、「見るものは見られるもの」が実感できる大悟を見性と言っている方もおられますし、明け渡しにより真我の外縁に触れる悟りを見性と言っている方もおられます。
でもここでは、私という自我を捉え、創造主としての自覚を得ることを見性と言っています。
明け渡しについては、多くの方において割と考え方が共通していると思います。
明け渡しとは、典型的にはすべてを受け入れることで、真我の外縁に触れる悟りを得ることです。
明け渡しや大悟を無我になることと誤解しておられる方が多いですが、それは間違いです。
存在が残っている以上、自我を完全に滅して無我にいたることはあり得ないのです。
はい、そうです。
ちなみに、完全な解脱は、肉体を持っていきているうちに解脱の悟りを得た人が死ぬときに起こります。
私は、解脱の悟りを得たなら、死に伴って必ず解脱が起こるのだろうと思っています。
解脱の悟りが得られてない場合は、いずれまたこの現実世界に生まれてくることになります。
ちなみに解脱の悟りとは、常に明け渡し状態が起こっているもの、常にサハスラーラチャクラに意識が留意し対象物を見るとその対象物に吸い込まれる、つまり思考や感情や身体感覚が起こらなくなり、世界や自分に囚われなく観照できる状態。もちろん意識すれば思考も感情、感覚も起こすことはできますが。このことを言うのでしょうか?
違います。
その意識は、天界の悟り階層の意識状態です。
解脱の悟りは、基本的にそれを言葉(考え)で表現するのは不可能なのです。
私は、それを敢えてするとしたら、一切の考えを掴まなくなることと表現しています。
また、多くの覚者の方々も解脱の悟りを誤解しておられますが、Happyさんも誤解しておられるようです。
解脱の悟りは、それによって確かに自我はとても薄くはなりますが、無我になることとは違うのです。囚われを手放すことなのです。ただそれだけなのです。