私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(見性後から大悟まで)(3)

2014年11月22日 23時22分10秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(3)◇

今回の記事では、私がどのように大悟に近づき、到達したかについて書きたいと思います。

大悟に近づき、それに至るときのポイントは、握りしめた考えの手放しと、私という自我への集中だったのだと思っています。
手放しは、主に「すべては考えに過ぎない」という智慧が導いてくれました。
自我への集中は、「私自身が考えである」という確信的理解が導いてくれました。

2013年4月9日に、「すべては考えに過ぎない」という理解と、「私自身も考えである」という確信が起きたとき、前者については直ぐにそれが附に落ちたのですが、後者については間違いないという確信があるだけで、それがどういう意味なのか等については理解が得られませんでした。
そのため、「すべては考えに過ぎない」という理解については、その理解が直ぐに自分が握りしめた考えの手放しに有効に作用し、手放しが進んでいきました。
しかし、「私自身も考えである」という確信については、それが理解できず、またどう受け止めたらいいのかも分からず、その後数ヶ月の間、お手上げ状態でした。

それでも、「私自身も考えである」という考えに何か大きなヒントがあるような気がして、そのことが頭から離れず、それはどういうことなのかとか、どういう意味があるのかなど、絶えず考えていました。
今から思うと、そうやって考えることに、私自身に意識を向けるという効果があったのだと思います。
「私自身も考えである」という考えはその対象が自分なので、そのことについて考えることは、自ずと自分に意識を向けることになったようです。

そうやって、ああでもない、こうでもないと考えているうち、「私自身のことをもっと深く知りたい」、あるいは「私という存在を覆う霧のようなベールを取り払いたい」という強い衝動が生じるようになっていました。
2013年の9月に入るころには、自分自身に意識を集中し、より深く自分を見ようとするようになっていました。

そして、9月の後半から10月に入るころには、自分自身に意識を集中することへの非常に強い衝動が湧き起こるようになっていました。
いま考えても、どうして自分にそのような強い衝動が起こったのかよく分かりませんが、その衝動が起こってくると、これ以上ないほどの高い集中度で自分自身に意識を集中するようになっていました。
当時の私は、どうしてそれをやるのか、また、どうしてそこまで激しくそれをやろうとするのか、自分でも分からないまま、それをやっていました。

なお、その当時の私がやっていた自分に意識を集中する方法は、このブログの記事(ハートの自覚ワーク(1)(2))として既に紹介済みです。
ちなみに、このワークは誰かから教えてもらったものではないのです。
自分でも不思議なのですが、自分自身に意識を集中するうちに、記事に書いた方法が自然に出来上がっていったのです。

大悟を得た10月19日の直前の2、3週間の間、私は自分に意識を集中するワークを一日5、6時間かそれ以上、毎日のようになっていました。
1回ごとのワークの時間は、短いときは20分か30分程度で、長いときは2、3時間連続してやっていました。
また、ワークをやるときは、燃えさかる炎のような激しさでそれをやっていました。
そして、その激しさは大悟の日に向けて増して行きました。
最終的には、私という存在を焼き尽くしてやる、あるいは跡形もなく破壊してやるという強い念がわき起こり、それと一体になってワークをやるようになっていました。

また、そのように私自身に意識を集中するようになっていく一方で、依然として「私自身も考えである」という考えについての考察も続けていました。
そうしているうち段々と、私という自我と、自我がつくる、あるいは自我に起こってくる考えとの関係等について観察し、考察するようになっていました。
そして、私の意識の変化、より詳細には、私に何か考えが起こってきた瞬間の意識の挙動や変化に着目するようになっていきました。
例えば、私自身に意識を向けている状態で、電車の音が聞こえてきて電車に関する考えが起きたときの私の意識の挙動や変化について観察し、考察するようになっていました。

そして私は、その観察により、私に何か考えが起きたときの私の意識の挙動について、不思議な現象がそこに起こっていることに気づき始めたのです。
どういう気づきかと言いますと、私に意識を向けているときは、私の意識には「私」だけがあるような感覚なのです。
それが、「電車だ」等の何か別の考えが起きた瞬間に、私の意識のほぼ全体が「私」から「電車」に移ってしまうという現象に気がつき始めたのです。
そのことに気づき始めたとき、私はそのことがとても不思議で、それがどういうことなのか必死に考えながら、私の意識の挙動について何度も何度も観察しました。
このような自分の意識についての観察や考察も、私にとって重要な大悟への導きとなったのだろうと思っています。

もう一つ、私が大悟を得る直前にやっていたことを紹介したいと思います。
私が大悟を得るのにどれほど効果があったのかは分からないのですが、私は大悟を得る直前の4、5日間、面白いワークを考え出して実践していました(これについても既にこのブログで紹介済みです)。
そのワークとは、自分に意識を集中し、その集中度がピークに達した状態で、自分に意識を向けたまま、「私という考えをつくっているのは、私だ」という考えを心の中で繰り返し唱えるのです。
私の場合、このワークをやり始めると直ぐに、自分の頭の中や、この世界そのものが飴細工が溶けるようにして崩壊するような感覚になり、このワークを5分と続けることが出来ませんでした。
もしかすると、私の場合、大悟に至る最後のだめ押しのところで、このワークが自我を破壊するのに有効に作用した可能性もあるのかも知れないと思っています。


次回は、大悟があった10月19日のことや、大悟の意識の状態等について書きます。

続きます。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私の体験談(見性後から大悟... | トップ | 私の体験談(見性後から大悟... »

コメントを投稿

私の体験」カテゴリの最新記事