◇「いま」という幻想◇
悟りの道中で、「いま」を捉えたような感覚や理解が生じることは確かにあります。
その感覚や理解を得た方は、「いましかない」とか、「いまが永遠に続いている」などと言ったりします。
しかしです。
その「いま」というのも、「私」の考えなのです。
「いま」と考えているのは、誰でしょうか。
「いま」を認識しているは、誰でしょうか。
そう考えているのは、「私」でしょう?
「いま」という感覚や理解にフォーカスするのではなく、刻々と営まれている「私」という存在の意識の活動や推移にもっと着目して頂きたいと思います。
起こってきた現象に対し、自分自身の内面でどのような反応や活動が起こっているのかについて、もっと意識を向けて頂きたいと思います。
また、「いま」を外に向けて主張している自分自身の姿をよく観て頂きたいと思います。
どうして「いま」を外に向けて主張しようとするのかをよく観て頂きたいと思います。
さらには、「いま」が本当に確かなものなのかどうか、よくよく検討して頂きたいと思います。
果たして、何かを取り上げて、それが「ある」ということができるものなのでしょうか。
「ある」という根拠はどこにあるのでしょうか。
敢えて「ある」と言うのなら、「何かがある」というより、その何かに対する「認識」があると言った方が自然ではありませんか?
そして、その「認識」そのものが「私」ではありませんか?
「いま」という幻想に囚われないで頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの道中で、「いま」を捉えたような感覚や理解が生じることは確かにあります。
その感覚や理解を得た方は、「いましかない」とか、「いまが永遠に続いている」などと言ったりします。
しかしです。
その「いま」というのも、「私」の考えなのです。
「いま」と考えているのは、誰でしょうか。
「いま」を認識しているは、誰でしょうか。
そう考えているのは、「私」でしょう?
「いま」という感覚や理解にフォーカスするのではなく、刻々と営まれている「私」という存在の意識の活動や推移にもっと着目して頂きたいと思います。
起こってきた現象に対し、自分自身の内面でどのような反応や活動が起こっているのかについて、もっと意識を向けて頂きたいと思います。
また、「いま」を外に向けて主張している自分自身の姿をよく観て頂きたいと思います。
どうして「いま」を外に向けて主張しようとするのかをよく観て頂きたいと思います。
さらには、「いま」が本当に確かなものなのかどうか、よくよく検討して頂きたいと思います。
果たして、何かを取り上げて、それが「ある」ということができるものなのでしょうか。
「ある」という根拠はどこにあるのでしょうか。
敢えて「ある」と言うのなら、「何かがある」というより、その何かに対する「認識」があると言った方が自然ではありませんか?
そして、その「認識」そのものが「私」ではありませんか?
「いま」という幻想に囚われないで頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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その空間(いま)において私が存在しあなた様の仰る通りの意識の活動や推移をとらえることが出来るのではないでしょうか。
時間として捉えられている限り「今」を考えているのは「私」であり、「私」ですら幻想になってしまう気がします。
ただ、実際問題存在している訳ですので、「今」と「いま」を別々に考えて意識の活動から外側に向かうということではないでしょうか。
空間(いま)上に存在しているモノがあなた様が仰「わたし」と言うことですね
時間(今)を認識しているのが「私」
空間(いま)の認識が「わたし」
ということでしょうか?
では、私とわたしは同一なのですか?
>空間(いま)上に存在しているモノがあなた様が仰「わたし」と言うことですね
香鈴さんが仰るその「空間」も、「私」の認識であり、意識です。
「私」とは、認識であり意識であり、世界そのものなのです。
一切のものが「私」であり、「私」である意識なのです。
ご質問の内容をよく読まずにお返事を書いてしまった感じで、すみませんでした。
>時間(今)を認識しているのが「私」
>空間(いま)の認識が「わたし」
>ということでしょうか?
>では、私とわたしは同一なのですか?
時間も空間、どちらも「私」の認識であり、考えです。
そのように時間と空間をわざわざ分けて考えておられる理由がいまひとつ分かり兼ねますが、時間も、空間も本質的なものでは無いんです。
敢えて何が本質かというと、そこに認識(考え)が起こっていることなのです。
時間や空間が先にあり、その上に「私」が存在しているのでは決してありません。
認識(考え)である「私」が先にあるのです。
今について見つめること自体が、何かに囚われている気がしてしまいます。
私は何かをする必要があるのでしょうか?
>今について見つめること自体が、何かに囚われている気がしてしまいます。
それはその通りなんです。
「いま」とは考えですから、「いま」に在ろうすることや、「いま」を見つめることは、その特定の考え(特定の意識状態という意味も含みます)に意識をフォーカスすることであり、それはまさに「いま」に囚われた状態と言えます。
その囚われから抜け出すには、「いま」も自分の考えなんだということに気づく必要があります。
また、そのためには、「いま」にフォーカスするのではなく、「私」にフォーカスする必要があります。
>私は何かをする必要があるのでしょうか?
他にやることが無いのでしたら、ぜひ、自覚をやって頂きたいと思います。
ただし、自覚はとても面倒でしんどいですから、自覚をやり続けるためには、それなりの必然性というか、動力源が必要なんです。
その動力源とは、悟りの道を突き進もうとする発心であり、強い衝動です。
自覚をする必要性を感じられないのでしたら、自覚などせず、ゆっくりとお過ごしください。
必要になれば頑張ってみます。
とりあえずはあるままで生きてみます。
そうですね。「今」の上にある訳9469じゃないですね
そうですね、そのような自然現象も、私が認識しているものであり、私の認識であり、すべて私です。