◇「禅系覚者の認識が止む」について◇
今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。
彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。
彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。
悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。
では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。
話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。
さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。
答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。
彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。
釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。
彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。
悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。
では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。
話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。
さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。
答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。
彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。
釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。
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