◇悟りの行程を三つに分ける◇
悟りを深めるとは、私という自我が握り締めている考えである囚われを手放していくことです。
囚われが薄くなると、その分悟りが深まり、囚われが一つ減ると悟りの行程を一歩進むことになります。
そして、囚われがすべて無くなると、最終的な悟りである解脱の悟りということになります。
悟りの行程は、おおよそ三つの部分的な行程に分けることができます。
また、囚われの手放しは、大体で言いますと、外側、つまり浅い部分から順に手放しが起きていきます。
このため、一番目の行程では、最も外側の囚われに対する手放しがなさます。
一番目の行程で、その人が握り締めている外側の囚われについてある程度の割合で手放しがなされると、自ずと小悟の悟りが生じるようになっています。
具体的には、社会の状況な仕組みについて、「こうあるべきだ」とか、「これが正しい」等の考えは、外側の囚われが関係しています。
また、他人に対して、「あいつは間違っている」とか、「あいつは悪いやつだ」等の考えも、外側の囚われが関係しています。
また、自分の個性や境遇に対する不平不満や他人との比較等も、外側の囚われが関係しています。
この一番目の行程をさらに進み、このような外側の囚われの大半を手放していくと、手放しの対象が外側の囚われから内側の囚われへと徐々に変化していきます。
これに伴って、悟りの行程も一番目の行程から二番目の行程へと移行していきます。
二番目の行程では、主に内側、つまり自分自身に関する囚われを手放していくことになります。
皆さんはなかなか気づかれないかも知れませんが、私たちは、自分自身に対して、「こんなことはやっちゃいけない」とか、「こうあるべきだ」等の沢山の囚われを持っています。
そして、その囚われにより自分自身を縛り付け、抑制しているのです。
この行程では、そのようながんじがらめになっている自分自身の姿に向き合い、ありのままの自分自身を受け入れていく、自分自身を許していくことになります。
そして、そのような内側の囚われの大半について手放しが起こると、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟の悟りが自ずと生じるようになっています。
そしてさらに悟りの行程を歩み、自我が握り締めたおおよそすべての囚われの手放しがなされると、私という存在が考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるという理解が生じます。
そうするといよいよ、最終的な悟りに向けた最後の行程である三番目の行程に入っていくことになります。
この三番目の行程では、私という存在の根本にある「苦」と向き合うことになります。
あるいは、どうしようもない苦を抱え、それをどうにかしようとして奔走している自分自身の姿と向き合うことになります。
そして、苦に対するそれをどうにかしようとする衝動に気づき、その衝動が停止すると、最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
それがなんだと言われそうですが(笑)、言いたいことは、悟りを深めるということは囚われを手放していくことだということと、囚われの手放しは外側から順に進んでいくものだということです。
最後に、囚われの手放しについて、その手放し方は複数のやり方があるのだろうと思っています。
例えば、一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を経験し尽くすことです。
もう一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を受け入れることです。
さらにもう一つは、自分自身の内面において、現象と囚われが反応して感情や思考や衝動が起こっているプロセスを自覚の観点で直視し、それに気づくことです。
囚われに反応している自分自身の姿に気づけば、その瞬間、囚われは根っ子から消失します。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りを深めるとは、私という自我が握り締めている考えである囚われを手放していくことです。
囚われが薄くなると、その分悟りが深まり、囚われが一つ減ると悟りの行程を一歩進むことになります。
そして、囚われがすべて無くなると、最終的な悟りである解脱の悟りということになります。
悟りの行程は、おおよそ三つの部分的な行程に分けることができます。
また、囚われの手放しは、大体で言いますと、外側、つまり浅い部分から順に手放しが起きていきます。
このため、一番目の行程では、最も外側の囚われに対する手放しがなさます。
一番目の行程で、その人が握り締めている外側の囚われについてある程度の割合で手放しがなされると、自ずと小悟の悟りが生じるようになっています。
具体的には、社会の状況な仕組みについて、「こうあるべきだ」とか、「これが正しい」等の考えは、外側の囚われが関係しています。
また、他人に対して、「あいつは間違っている」とか、「あいつは悪いやつだ」等の考えも、外側の囚われが関係しています。
また、自分の個性や境遇に対する不平不満や他人との比較等も、外側の囚われが関係しています。
この一番目の行程をさらに進み、このような外側の囚われの大半を手放していくと、手放しの対象が外側の囚われから内側の囚われへと徐々に変化していきます。
これに伴って、悟りの行程も一番目の行程から二番目の行程へと移行していきます。
二番目の行程では、主に内側、つまり自分自身に関する囚われを手放していくことになります。
皆さんはなかなか気づかれないかも知れませんが、私たちは、自分自身に対して、「こんなことはやっちゃいけない」とか、「こうあるべきだ」等の沢山の囚われを持っています。
そして、その囚われにより自分自身を縛り付け、抑制しているのです。
この行程では、そのようながんじがらめになっている自分自身の姿に向き合い、ありのままの自分自身を受け入れていく、自分自身を許していくことになります。
そして、そのような内側の囚われの大半について手放しが起こると、「観るものは観られるもの」の悟りである大悟の悟りが自ずと生じるようになっています。
そしてさらに悟りの行程を歩み、自我が握り締めたおおよそすべての囚われの手放しがなされると、私という存在が考え(認識)そのもの、あるいは考え(認識)の連鎖そのものであるという理解が生じます。
そうするといよいよ、最終的な悟りに向けた最後の行程である三番目の行程に入っていくことになります。
この三番目の行程では、私という存在の根本にある「苦」と向き合うことになります。
あるいは、どうしようもない苦を抱え、それをどうにかしようとして奔走している自分自身の姿と向き合うことになります。
そして、苦に対するそれをどうにかしようとする衝動に気づき、その衝動が停止すると、最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
それがなんだと言われそうですが(笑)、言いたいことは、悟りを深めるということは囚われを手放していくことだということと、囚われの手放しは外側から順に進んでいくものだということです。
最後に、囚われの手放しについて、その手放し方は複数のやり方があるのだろうと思っています。
例えば、一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を経験し尽くすことです。
もう一つは、その囚われに関連して起こってくる展開を受け入れることです。
さらにもう一つは、自分自身の内面において、現象と囚われが反応して感情や思考や衝動が起こっているプロセスを自覚の観点で直視し、それに気づくことです。
囚われに反応している自分自身の姿に気づけば、その瞬間、囚われは根っ子から消失します。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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慧空さん質問なのですが?慧空さんはクンダリーニをどう認識されていますか、あのエネルギーを?
クンダリーニに囚われないようにしようと思っていますが、自分の中にうごめくこのエネルギーの説明が聞ければと思いました。確かハートが開きクンダリーニがクラウンチャクラ開かせるようなことが書いてあったのでお聞かせください。私は、自分の正体は思考なんだと悟った瞬間にこの強烈なエネルギーが頚椎をとおって頭上に上がりました。なぜ悟るとクンダリーニが上昇するのか、ご存知でしたら教えて下さい。今はこれとお友達になることができましたが、最初は脳天から吹きでそなぐらいの勢いだったので危険さえ感じていました。思考を停止させると友達が上がって来ますまるで意思を持ってるかのように。頭の中、脳の中とでも言うのでしょうか、あらゆる場所にミシミシと音を立てながら新たな通路を作るように動きます。音は身体の中で聞こえる音ですが。
この悟りと身体の中で起きる物理的な現象がとても不思議です。慧空さんはこのエネルギーに対してどう思われているかお聞かせください。
お久しぶりです。
ときどき、どうしておられるかなぁと思っていましたので、書き込みを頂いて嬉しかったです。
クンダリーニのエネルギーが何なのかについてですが、
私はそれについては余り知らないのです。
でも、ハッキリと言えることは、やはり、それも私が認識している私の考えなんです。
それともう一つ言えることは、クンダリーニやそのエネルギーの現象は、それほど深いものではないということです。
肉体次元やそれよりちょっと深いところで顕著に観られる現象です。