私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

「私という考え」との遭遇

2014年01月14日 14時05分40秒 | 私の体験
◇「私という考え」との遭遇◇

ここに来られる方に、私の体験談が参考になる方がおられるかも知れないので、私が「私という考え」を実感(自覚)できるまでの道のりについて書いてみます。

「私という考え」について私の体験談をお話しをするためには、2013年4月に私がマスターゲートさんから見性印可(あなたは悟りましたよという師匠の認定)を頂いたときに遡ってお話ししなければなりません。

私は、ゲートさんの講話を聴いているときに、この世のすべての事象は私がつくっている考えなんだということを理解し、その場で見性印可を頂いたのですが、そのときに、この私という存在も考えであることを確信したのです。
なぜそういう確信が芽生えたのか自分でもよく分からないのですが、すべての事象は考えであり幻であるということを理解した次の瞬間、この私という存在も考えであることを確信したのです。
ただこのときは、私が考えであるという確信があるだけで、実感(自覚)もなければ、それがどういうことなのかも分かりませんでした。

でも見性の翌日か翌々日ころに、私が考えであるということに対する糸口が少し分かり始めました。
それは、「私」は考えなのだから、「私という考え」をつくらなければ「私」はないのだろうということでした。
この私の切り口はそれなりの手応えを感じたので、これをまだ東京に滞在しておられたゲートさんに質問してみようと思いました。
しかし、ゲートさんを取り巻く周りの当時の雰囲気は、見性により「私」を捉えられた方々の喜びや、「私」という存在を揺るぎないものとしてそこを目指して自覚を続けておられる方々の切実さで染まっており、「私は幻だ」という私の質問をゲートさんにできるような状況ではありませんでした。

その直ぐ後、ゲートさんはフランスに帰国されました。
以後、私は独自に「私」を見つめ続けることで、自問自答しながら、「私という存在」と向き合っていくこととなりました。

見性後の最初のころは、私という存在については、考えであることは間違いないとは思っていたのですが、私を含むすべての事象が生まれ出る源のようなもの(言葉では表現できません)があるのではないかと考えていました。
そして、その根源については、考え(幻)なのか、幻ではなく何かがそこにはあるのか、よく分からないでいました。
私の内面を見つめ続けるうち、その根源も、私がつくっている考えであることが分かり、これによって、まさにすべての事象が考えであることが分かっていきました。
これは、2013年の8月から9月にかけてのことだと思います。

こうして私は、私を含む本当にすべての事象が考えであることを確信したのですが、依然として私が考えであるということを実感(自覚)できないでいました。
このため、まだ納得ができないというか、スッキリしないというか、もどかしさを抱えながら、私が考えであるということがどういうことなのかを見つめ続けていました。

そして、9月末から10月中旬にかけて、私に対するもどかしさはどんどん高まっていきました。
毎日毎日殆ど仕事もせずに、職場で自分に意識を向け続けるようになっていました。
顕在意識の思考が止まる程に集中し、毎日何時間も自分に意識を向け続けていました。
それでも、私が考えであることが実感(自覚)できずにいました。

その過程の中で、こんなワークを考えてやったりもしました。
それは、名付けて「私という存在が考えであることを自覚するワーク」というものでして、
「誰が私という考えをつくっていますか」、
あるいは「これをやっているのは私だと誰が考えてますか」
という問いを繰り返し自問自答しながら、私に意識を向け続けるワークなのです。

ご興味がおありの方は、どうぞやってみて下さい。
私の場合、上のワークを集中して数分やると、頭の中や、私という存在が飴細工のように崩壊しそうな感じになりました(笑)。

そうやってもんもんとしながら私に意識を向け続けているうち、10月19日の朝、ふっと、私という存在が考えであることを実感(自覚)できたのです。

「私」という意識が無くなっているような不思議な感覚とともに、「私という考え」がつくられなければ「私という存在」も存在しないことを実感(自覚)できたのです。
結果として、見性のときに得た「私という考えをつくらなければ私は存在しないんだ」という切り口でよかったのです。

こうして、「私という存在」が考えであることが実感(自覚)できると、様々な考えを照らし出すようにして生成しながら遷りゆくスポットライトのような思考の連鎖、あるいは思考そのものが私であるという理解に、直ぐに到達しました。

以上です。


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読んで頂いてありがとうございました。

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