◇無常、無我、苦の教えとその伝承について◇
お釈迦さんの教えを比較的忠実に伝えていると言われている上座部の系列では、解脱に至る基本的な教えは、無常、無我、苦の三つであると言っているようです。
無常は、あらゆることがらは絶えず変化し、遷ろうものだということです。
無我は、あらゆることがらに自性(実体性、絶対性)が無いということです。
苦は、あらゆることがらはすべて苦である、つまり一切皆苦であるということです。
この三つの教えは、解脱の悟りに必要な要素を基本的に含んでいるのです。
よって、この点からも、お釈迦さんは最終的な悟りを得ていたのだろうと思うし、その教えを伝える上座部の系列にも、その最終的な悟りの伝承が何らかの形で伝わっているのだろうと思うのです。
この三つの教え、無常、無我、苦のうち、どれが一番重要なのかと言えば、苦(一切皆苦)なのです。
この苦に対する悟りが、最終的な悟りを得る際の要になるのです。
ところが、禅を含めた大乗系の系列では、苦に対する教えが欠落してしまっているのです。
おそらく、釈迦の教えの本流から分岐が生じた時点で、最終的な悟りや苦に対する教えが伝わっていなかったのだろうと思っています。
なお、ウパニシャッドの系列では、もとから苦に対する着眼はなかったのだと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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お釈迦さんの教えを比較的忠実に伝えていると言われている上座部の系列では、解脱に至る基本的な教えは、無常、無我、苦の三つであると言っているようです。
無常は、あらゆることがらは絶えず変化し、遷ろうものだということです。
無我は、あらゆることがらに自性(実体性、絶対性)が無いということです。
苦は、あらゆることがらはすべて苦である、つまり一切皆苦であるということです。
この三つの教えは、解脱の悟りに必要な要素を基本的に含んでいるのです。
よって、この点からも、お釈迦さんは最終的な悟りを得ていたのだろうと思うし、その教えを伝える上座部の系列にも、その最終的な悟りの伝承が何らかの形で伝わっているのだろうと思うのです。
この三つの教え、無常、無我、苦のうち、どれが一番重要なのかと言えば、苦(一切皆苦)なのです。
この苦に対する悟りが、最終的な悟りを得る際の要になるのです。
ところが、禅を含めた大乗系の系列では、苦に対する教えが欠落してしまっているのです。
おそらく、釈迦の教えの本流から分岐が生じた時点で、最終的な悟りや苦に対する教えが伝わっていなかったのだろうと思っています。
なお、ウパニシャッドの系列では、もとから苦に対する着眼はなかったのだと思います。
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実は私は、禅の人にどんな人がおられるのかは余り知らないのです。
少し知っていると言えるのは、三人か、四人程度です。
でもそれで十分なのです。
どうして彼らが至っていないと分かるのか、についてですが、
まずは雰囲気なんだと思います。
文章なら文章から感じられる雰囲気、映像等の肉声ならその肉声や様子から感じられる雰囲気でなんとなく分かってしまうのです。
そしてつぎに、彼らの口から出る言葉の内容です。
禅を含む大乗系の方々の場合、その言葉の中に必ず何らかの囚われが見えるのです。
どういう囚われがあるかや雰囲気によって、その方がおられる悟りの位置も分かるのです。